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ツキノワ  作者: デブ猫
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1 リンク

 痛い。

 頭が割れるようだ。








 冷たい。

 上から水が落ちてくる。






 狭い。

 腕に抱きしめられている。



 暗い。

 こいつの体で目をふさがれてる。


 必死で頭を上げ、目を開ける。くそ、何で開かない?ああ、血で毛がべっとりとひっついてやがる。くそ、開け、この!

 どうにかこうにか瞼が開いた。狭い視界に細い外界が映る。

 うわ、なんてこった。こいつも血まみれじゃねえか!死ぬ死ぬ!俺を抱きしめてる場合じゃねえだろ!額がザックリ割れてるって!

 ・・・って、うわ、ガラスに映ってる俺も頭が割れてやがるよオイ。

 ダメだこりゃ。ネコの額も割れたら広くなったり…してねーな。


 ネコ?


 あ、俺、ネコだ。ウチの黒猫じゃねーか。

 あれ…すると、俺を抱きしめてるこいつは…

 もしかして

 あああ、なんてこったい。やっぱりだ。

 ウチのネコを、ツキノワを抱きしめてるのは、俺だ。死にかけの。

 子供の頃の俺だ。

 助手席のシートで虫の息だ。


 くそ、交通事故だ。車が横転して助手席に閉じこめられたんだ。

 運転席側の窓ガラスが砕け散って、冷たい雨が降ってくる。寒い。運転席のヤツは…ダメだ、動かない。

 おいおい、シャレなってネーよ。このままじゃ死んじまう。俺もツキノワも一緒にお陀仏だよ。勘弁してくれ。助けてくれ。

 誰か、誰か助けてくれ。ちくしょう、少しで良いんだ、体が動いてくれれば。

 うげ、ダメだ。ガッチリ抱きしめられてて出られない。おかげで少しは暖かいけど、代わりに逃げられないぞ。

 なら声だ。助けを呼ぶんだ。少しでいい。ほんのちょっとでいい、声をだすんだ。力が抜けていく、急げ、最後の力を、力を。


  ナーオ・・・


 小さい。子猫の声じゃ小さ過ぎる。もっと、もっと大きな声を


  ニャーオー


 もっともっと大きな、ああ、ダメだ、意識が遠のく

 神様仏様、何でも良いから助けて!死にたくない!

「・・・ニャー・・・」

 いきなり声がした。人間がネコの鳴き真似してる。

 やった、人間の俺も声を張り上げてる。俺の声が聞こえて、夢の中で俺の声に答えたんだ。もう一度だ、俺とお前と、いやどちらも俺か、ああもうどうでもいい。声を張り上げろ。

 助けを呼ぶんだ。

  ニャーオー

「ニャーオ…」

 必死に二人で声を張り上げる。ネコの鳴き声とネコの鳴き真似声が。

「ニャーオー!」

  ニャーオー!

 狭い車内に声が響く。何度も何度も声が響く。必死の叫びが響く。


 こうすけ…浩介ぇー!


 俺の名を呼ぶ声が帰ってきた。





 ジリリリリリ…

 目覚ましの音で目が覚めた。目の前には古ぼけた平屋の天井からつり下がる照明。

 苦しい、息苦しい。目覚ましの音が鳴り響く部屋、俺の汗でじっとりと濡れた布団。

 額の汗を拭くけど、その手も汗でびしょ濡れだ。額の傷に水滴が溜まってる。

「また、あの夢か・・・それにしても苦しいなぁ」

 いや、本当に息苦しい。マジ胸が苦しい。いったい何だ?まるで何かが乗っているかのような。

 自分の胸へ視線を下ろしてみる。

 そこに大きなネコがいた。

 俺の布団の上、丁度胸の上の所にツキノワがいた。首の下の所にツキノワグマみたいな白い三日月型がある黒猫、だからツキノワ。

 俺の顔に尻を向けて、胸の上に乗って寝ていた。ぐーぐーと派手にイビキを立てて寝てやがる。

「…お前か?」

 イビキが止まり、顔は足の方に向けたまま、耳だけこっちを向く。

「お前のせいかー!」

 俺が布団を跳ね飛ばすより早く、ツキノワは布団を飛び降りていた。






    ツキノワ  1  リンク








 黒い学生服に袖を通しながら扉を開けると、そこにはパジャマのままの妹がいた。焼き魚とおひたしを盛った皿を並べている妹には長い黒髪が流れる。こっちを見るなりニヤニヤ笑い出した。

「こら、ニャオ。またうなされてたでしょ」

「ニャオって呼ぶな」

「兄貴なんかニャオで十分よ。寝言でいつもニャーニャー叫んでるんだから」

「け、今朝のはこいつが俺の布団の上で寝てるからだ」

 そう言って俺は足下のツキノワを指さす。当たり前のように俺と一緒に台所へ入ってきた黒猫は、さっそく床に置かれた皿の前にちょこんと座った。

「はーいはい、待ってなさいよ。バカ兄貴のエサやったらツキノワもご飯だからね」

 ツヤツヤの毛並みで輝く耳がピクンと跳ねる。まるで了解とでも答えたかのようだ。妹が缶詰をパカッと開けて皿に載せたキャットフードにかぶりつく。

「俺のはエサで、ツキノワはご飯か」

「とーぜん!頭で兄貴はツキノワに負けてるわ」

 憎まれ口を叩きながらも妹はご飯を丼に盛る。

「ほれ、せめて栄養を頭に回しなよ」

「紗理奈は身長に回せよ」

 しゃもじが額に直撃した。

「あにすんだよ!また割れたらどーすんだ!」

 しゃもじが当たった額をさする。事故の古傷が縦に走る額を。

「その時は、またツキノワに助けてもらえば?」

「ふん、小学生にしか見えない妹よりは役に立つな」

 長い黒髪を振り乱し、今度はご飯大盛り丼を構えた。

「わーヤメヤメ!」

 慌てて身構える俺と丼を手に大きく振りかぶった妹の間、テーブルの上にツキノワが飛び乗った。

  ナー

ツキノワが首を傾げながら一声鳴き、金色の瞳が紗理奈を真っ直ぐ見つめる。とたんに紗理奈は猫なで声で笑顔になった。

「うそうそ、冗談よ。ツキノワのオカズも用意するからね」

 そう言って冷蔵庫から取り出したのは削り節。それを見るやツキノワの目が、毛並みに負けずに輝く。紗理奈がキャットフードの上に削り節を撒くと、ワシャワシャ音を立てながら凄い勢いで食べていく。

「んじゃ、あたし朝練行ってくるから。ニャオは後片づけしといてね」

「へぇ〜い…って、ニャオと呼ぶなっつの」

 俺の不平を聞く前に、紗理奈は台所を出て行ってた。しばらくすると外から、おっそーいよさりなちゃん、とか、ツキノワいないの?とか、次の試合は佐野山中学、とか、あそこバトミントン部あったっけ?なんて声が聞こえてきた。部活のメンバーが待ってたようだ。


 TVを見ながら朝メシをパクついていると、ツキノワが俺の足下に座っていた。じっと俺の方を見上げてくる。

「わーってるって。ホラ、お前の分な」

 俺は焼き魚をちぎって手に乗せ、ツキノワの前に出す。あむっと一口で食べると、今度は手の上でネコのざらついた舌が往復する。くすぐったい。


 とたとたとた〜と足音がやってくる。ヒョコッとセーラー服姿の紗理奈が顔を出し、腕を伸ばしてきた。その手には手紙と新聞がある。

「不良中年達から、また手紙が来てたよー」

 俺が返事をするより早く、紗理奈は手紙をテーブルに置いて再び去っていった。

「またか…今度はどこだ?」

 濡れた手をタオルで拭きながら、テーブルの上の手紙を見る。ツキノワもテーブルに飛び乗って手紙を覗き込みフンフンと鼻を近づける。そこには、ぶっといツタに締め上げられ飲み込まれつつある石造りの古代遺跡をバックに、ピースサインをする中年夫婦の写真があった。

 クルッとひっくり返すと、英語で書かれた我が家の住所と、日本語の文章が書かれている。それは俺の父さんと母さんの字。

  《アンコール・ワットの遺跡はすっごいぞー!次はベトナム行くぜー》

  《東南アジアのご飯は美味しいわよ。帰ったら浩介と紗理奈にも作ってあげるね》

「年甲斐もなく、よくやるなぁ」

 二度目のハネムーンとやらを満喫している親たちは放って置いて、俺も学校に行く事にする。その前に食器を全部洗って食器棚へ返していく。その間ツキノワはテーブルの上に置きっぱなしの新聞の上に座ってる。





 ガラッと教室の扉を開ける。サクラが舞い散る窓の風景をバックに、不景気な大男のしかめっ面が窓枠に腰掛けていた。

「おーっす、すーぐりー」

「よー、ニャオ。今日はツキノワついてきてねーん?」

「さすがに高校まではついてこねーだろ。あと、高校にもなってニャオは止めてくれ、村主」

「なーんや、残念やの。ま、チャリで十五分はネコにゃ遠いわな」

 村主は小さく溜め息をつく。こいつときたら、長身で筋肉質でしかめっ面。俺と同じ高校一年とは思えない外見に似合わず、なかなかのネコ好きだ。特に、我が家のツキノワはお気に入り。

「けどよ、ツキノワがいないと…お前、あれやな」

「んだよ」

「平凡過ぎ」

「悪かったな、平凡で」

 この野郎、相変わらずズケズケ言いやがる。関西人は突っ込みがきついとか言うのは本当らしいな。少なくとも村主に関しては。

「額の傷以外、なーんも特徴ないんやもん。お前、あれや。今日からあだ名はニャオやのうて『傷』になってまうわ」

「お、それいい。高校入った事だし、今日から俺はスカー(傷)な。よし、決まり」

「アホ、似合わへんわ。んなシャレたもん付けるほど、キャラ立っとらん」

「うっせー。第一、お前の横に立ったら大概のヤツは影が薄くなるぞ」

「失敬なやっちゃなー」

 村主は笑う。ただ、高校一年にして180センチを超える筋肉ダルマのしかめっ面のままで笑うので、かなり怖い。何か悪だくみでもしてそうだ。こいつの隣に立てば、確かにほとんどの人は目立たない。特に俺みたいな、何の特徴も無いヤツは。


 そう、俺は特徴がない。自慢じゃないが、俺は平凡な高校一年生だ。

 身長、体格、成績、顔、髪型、全て平凡。学校だって当たり障りのない公立校。部活はしてなかったし、する予定もない。補導歴もない、表彰されるような事もない。委員だのもめんどくさい。性格も、ごくまとも…と自分では思ってる。

 俺自身の、唯一のトレードマークは額を縦に走る傷。これのおかげで、かろうじて新しいクラスメート達に顔と名前を覚えてもらえたようなものだ。


 中学からの悪友である村主とバカ話をしていたら、担任のオッサンが入ってきた。皆、それぞれの席に着く。

 これからの高校生活の心構えとか、我が校は茶髪は禁止だとか並べ立てる担任のHRをボンヤリ聞き流していたら、後ろから背中をツツかれた。驚いた様子の村主だ。

「んだよ」

「おい、あれ。サクラの枝の上」

 振り向くと村主が窓の外、かなり散ってしまったサクラの枝の一本を指さしている。俺も指し示される先を見上げる。

 そこには、大きな黒猫がいた。

「つ、ツキノワ!」

 思わず大声を上げて腰を浮かしてしまった。

 とたんにクラス中から「何なの?ネコがこっち見てるだけよね」「あー!あれ、沢渡君ちのツキノワだぁ」「えー!あの忠犬、じゃなくて忠猫の?」「なになに、何それ」「やだ、あんた、この町に住んでて知らないの?」「あー、あの天才猫って噂な」「へー、あの猫ツキノワって名前なんだ」「うちの近所じゃクロって名前だったぜ」「飼い主、沢渡君だったんだ」なんて声が上がる。

「静かに!」

 担任の一喝でクラスが静まる。冴えないオッサンかと思ったら、意外と声に威厳があった。出席簿を片手に名前を確認する。

「えっと、沢渡浩介…君、だね?」

「あ、はい。そうです」

「あの猫、君の家のネコだったのかい?」

「あ、う…そう、です」

「凄いの、飼ってるんだねぇ。あの子に財布を届けてもらった時は、本当に驚いたよ」

 担任のオッサンも驚きの声を上げる。


 そう、俺自身には特徴はない。だが、俺は俺自身とは別の事で良く知られている。ツキノワの飼い主、という呼ばれ方で。俺の名はあんまり覚えてもらえないけど、ツキノワの飼い主として覚えられてる。

 未だに田んぼや畑も多い、広大な国定公園を有する山を背にした住宅地。駅やドライブウェイから離れてるので山へのハイキング客も寄らないから観光業はない。さして目立つ所も何もない閑静なこの町には、一つだけ他の町に無い特徴がある。いや、他の町はおろか、世界のどこにも絶対いないヤツがいる。

 それは、ツキノワ。

 この町に住むヤツでツキノワを知らないヤツはいない。ツキノワの名を知らなくても、その姿は誰でも一発で分かる。新しく引っ越してきた連中だって数日以内にツキノワの話を近所から聞かされる。

 天才猫。ハチ公を超える忠義の猫。絶対猫じゃないと言われる程に猫離れした性格の黒猫。それがツキノワ。


 携帯で写真を撮ろうと何人かが慌ててポケットや鞄に手を入れる。だがツキノワはサクラの木を飛び降り、あっという間に学校の敷地を出て行った。とたんに「惜しい〜」「くそ、今度こそネットにアップしたかったのに」なんて呟きが漏れる。あいつはカメラとか向けられると即座に逃げるので、まともな写真はほとんど無い。ピンぼけか、黒い影がボンヤリ映ってるのばかり。映ったところで普通の黒猫にしか見えない。サイズは猫としては大きいが。

「驚いたわなぁ、まさか高校まで沢渡を追いかけてくるなんて。犬でもンなヤツなかなかおらへんわ」

 村主の言葉に周囲の連中も食い付く。一気に話の輪が広がる。

「なになに、もしかしてあのネコって、中学まで沢渡君を追いかけてきてたの?」

「そーなのよ。ほとんど毎日、小学も中学も沢渡君の様子を見に来ててね」

「すっごく強くて賢いんだ。小学二年の時、悪ガキ連中にいじめられてた沢渡を助けようと、悪ガキ共に飛びかかっていったんだ」

「ウチの弟が迷子になった時、俺ンちまで弟を連れてきてくれたの、ツキノワなんだ」

「・・・それ、ホントにネコか?」

「バケネコかもって噂よ」

「つか、ありえねー」

「いや、マジだって」

 わいのわいのとツキノワの話で盛り上がる。担任が大きな咳払いをするまで、ツキノワの武勇伝があちこちから飛び出してくる。



 午前中、ずっとツキノワの話でクラスは盛り上がっていた。

 10年程前、俺とツキノワは一緒に交通事故に遭い、共に生き残った。何でもお互いの体温で暖めあい、励まし合ったおかげだそうだ。子猫の体温で人の体が温まるのか〜?なんて言うヤツもいる。でも、そんな僅かな事が生死を分かつほど、ギリギリの状態だったんだ。

 以来、俺とツキノワはずっと一緒だ。というより、ツキノワはいつも俺の傍にいて、俺を守ってくれている。小学も中学も学校までついてきていた。いじめっ子から身を挺して守ってくれた。

 そして、あいつに守られたのは俺だけじゃない。俺の周りの連中も沢山助けられた。

 落とした財布をくわえて、持ち主に届けた。

 迷子の子供を見つけて、家まで送ってくれた。

 以前、町で下着ドロが犯行を重ねていた時、犯人逮捕にも協力した。犯人の家の傍を通りかかった警官のズボンの裾をくわえ、カーテンの隙間から下着が散乱した部屋が見える場所まで連れて行ったんだ。ちなみに盗まれた下着の中には、母さんと紗理奈の下着も混じってた。

 そんなこんなで、ツキノワは町で有名なネコだ。もっともネットに話を載せた所で、全然信じてもらえない。まともな映像も少ない。もちろん俺や家族は写真を持ってる。けど恩人、じゃなくて恩猫のツキノワをさらし者にする気は全くない。だから町以外では知られていない。

 町の人達はツキノワを大事にしてる。望遠カメラを握りしめてツキノワの特ダネ映像を狙ってるヤツとかもいる。そして俺にとっては、命の恩猫であり、死線をくぐり抜けた戦友だと思ってる。

「なにゆーとんねん。どう見てもツキノワがお前の保護者やんけ」

 村主は相変わらず歯に衣を着せてくれない。





 お昼休み、学食へ向かう俺と村主を呼び止める女子の声がした。

「おーい!ニャオ!」

 もちろん俺は無視。村主はニヤニヤ笑って俺を見下ろす。

「こら、ニャオ!今朝、ツキノワが来てたんだって?くっそー、どうしてこの私に教えてくれないかねぇ」

 さらに無視して歩き去ろうとする俺を村主が肘で小突いた。

「おーい、篠山がお呼びやで」

「無視だ、無視」

 いきなり後ろから尻を蹴られた。

「くぉらっ、聞こえてるぞ。この朱美様を無視しようとは、良い度胸じゃないの」

「うるさい、パパラッチ」

 一言毒づいて振り返ると、そこには望遠レンズ付きカメラを手にした篠山朱美が立っていた。釣り目を更につり上げて、凄い目つきで睨んでくる。そしてその横には、縁なしメガネをかけたポニーテールの女の子がオロオロしている。名前は尾野由奈、篠山の親友というか、保護者っぽい。

「し、しのちゃん。やりすぎだよぉ」

「いーのいーの。報道の自由を侵害するヤツへの天誅よ」

 篠山は全くわびれる様子がない。

「尾野も大変やなぁ、高校まで来て篠山のお目付か」

「う、うん、その…そんなこと、ないよ…」

 大柄な村主に見下ろされる尾野は、どもりながら俯いて篠山の後ろに隠れてしまう。村主は別に何も言わないが、唇を少し強めに結んでる。怖がられたのがショックだったらしい。

 俺は話を変える事にする。

「それで、そのアケミサマとやらは、早速新聞部に入部か?」

「もっちろん!」

 ショートヘアの朱美は自慢げにカメラを見せびらかす。

「今日も私は真実を追い求めて情報の海を泳ぐのよ」

「やってるのはウチのネコの追っかけじゃねーか」

「当然でしょ、あんなヘンなネコ、この町にしかいないわ。それに他にネタがあるような町じゃないもん」

「そだな。ヘンすぎて、お前のHPは煽り叩きバッカだな」

「しょ、しょーがないでしょ!とても信じてもらえないようなネコだもの」

「だな。だから俺とツキノワは諦めて、普通に部活や生徒会の記事を書いてろよ」

「そーはいかないわ。ロバート・キャパを目指す私が、特ダネから目を背けるわけにはいかないのよ!とゆーわけで、また今日からよろしくねー」

 捨てゼリフを残して朱美は去っていった。ペコリとこっちへ小さく礼をした尾野も、その後ろをついていく。

「お前も大変やなぁ、あんなストーカーが付いて」

「そう言うお前もな、怖がられて」

「言うなや…」

 学食へ向かう村主の背中は、ちょっとだけしょぼくれて見えた。





 俺の席は窓際の後ろから三番目。

 昼食後で、小春日和で、舞い散る桜吹雪があでやかだ。

 授業も一年初がほとんどで、多くは教師の自己紹介とか授業の進め方の説明で終わる。

 なので、眠い。ああ眠い。初っぱなからこんなじゃいけないと分かってるけど、こんな気持ちいい日差しに照らされた昼食後。ダメだ、眠い。

 少し、少しだけ目を閉じよう。俺は窓枠に後頭部を預けて、ほんのちょっとのつもりで目を閉じる。

 そしたら、ストンと意識がどこかへ落っこちた。



  ・・・ったく、見てられないよ



 どこからか、声が聞こえる。

 何だろう、誰だったかな?聞き覚えのある声だ。



  しょうがないな。ま、初日から先生に怒られれば、少しは真面目になるかもね



 怒られる?あ、やべ、寝ちゃったのか。

 ホントだ、初日から怒られるなんて最悪。起きないと。

 うーん、まぶたが重い。でも起きなきゃ。

 うぐぐ、何て重いんだ。まぶたってこんなに重いのか。

 くそ、開け、この!



 うっすらと視界が開けてくる。

 桜吹雪が見える。そして校舎の窓も。

 窓の向こうに俺の姿が見える。窓枠に頭を引っかけて寝てる俺が。


 …え?俺が寝てる?


 周りを見直そうと首を振る…振れない。体が動かない。

 視線は真っ直ぐ俺を見ている。でも、なんだかヘンな風景だ。

 見え方とか、色合いとか、そういう事じゃなくて、これは…この視点は校舎の外から俺を見ている。

 これは・・・



 ツンツン、と背中を突かれた。

 とたんに頭が前のめりに倒れ込む。

 ガクンッと派手に俯いたけど、どうにか机に頭をぶつけるのだけは回避!

「アホ、寝んな」

 後ろから村主に突かれて目が覚めたのか。すると、今のは夢。

 先生は黒板の方を見ている。どうやら気付かれなかったらしい。危なかった。


 ふと気になって外を見る。

 すると、桜吹雪の向こう、学校の屏の上に大きな黒猫がいた。ツキノワと目が合う。

「またツキノワの夢か…最近多いな」

 俺の呟きに気付いた風もなく、ツキノワは大きなアクビをしてから塀の向こうへ飛び降りて消えた。





 駐輪場に置いていた、高校入学祝いに買ってもらったロードレーサータイプの自転車にまたがり、安物のチェーンロックはハンドル前カゴに放り込み蓋を閉める。鞄を背負い直し、マウンテンバイクをこぎ出した村主へ手を振った。

「んじゃ、また明日ー」

「おー、またなー」

 答えるとともに大荷物を背負った村主の自転車は走り去る。あの大きなリュックの中にはグローブやら道着やらが入ってる。これからすぐに空手道場へ行くのだろう。俺は家へ向けてペダルを踏みしめる。

 放課後のグラウンドでは野球部やサッカー部が大きな声でランニングをしてる。校舎の方から聞こえるのはブラスバンド部の楽器と合唱部の歌声。そしてそれらの部活を見学してまわる新入生達が歩き回ってる。まぁ、さして有名な部活も無い学校だし、興味なく家路につく、俺みたいな帰宅部員や帰宅部予定者も多い。村主は空手やってるけど、直接打撃系のキックボクシングみたいなやつなので、高校の部活では無理。


 校舎を出て路側帯をしばらく走り、土手に出る。川を横目に走る土手の上の道は少し回り道だ。でも、川の音や草の臭いが好きなので、この近くに来ると必ず通ってる。これからの高校生活、帰りはいつもこの道を通って帰ろうかと思う。

 土手の上に出ると、案の定、そよ風がとっても気持ちいい。さて走ろうか、とペダルに体重をかけた瞬間、自転車の前に何かが飛び出した。

「あ…ツキノワか」

 俺の自転車の前に飛び出したツキノワは、アスファルトの上にチョコンと座り俺を真っ直ぐ見上げる。

「待ってたのか?」

 黒い三角の耳がピクンと前を向く。

「んじゃ、一緒に帰るか」

 前カゴの蓋を開けると、ツキノワは当然のように前カゴへ飛び込んだ。大きな体が不思議にすっぽり収まった。


 土手の道をのんびり走る。ツキノワは前カゴから頭だけをピョコッと外へ出し、前を見てる。黒い頭がちょこっと外に出てるだけだし、人が接近すると頭を引っ込める。これなら、すれ違った人にも気付かれないだろう。長いヒゲと眉の触覚が風に揺れてる。普通の猫ならさっさと飛び降りて逃げているだろうに、こいつは躾けられた犬のように、全く嫌がらずカゴの中に居続ける。

「お前って、ホントにネコらしくないよなぁ」

 ツキノワに語りかけてみる。もちろん何も答えてはくれないけど。

「実はな、今朝と昼と、お前の夢を見たんだ。あー、正しくは俺がお前になって、俺を見つめてるって感じの夢」

 耳がクルッとこちらを向いた。興味あり、という風に。俺は話を続ける事にする。

「今までも似たような夢は何度も見たけど、昼のやつはリアルだったなぁ。まるで猫に、お前になったみたいだったよ」

 ふと気になって、じっとツキノワを観察してみる。耳を俺の方に向けるツキノワの頭。その黒い毛の下には、俺と同じく大きな傷が隠れている。昔、交通事故で一緒に負った頭の傷。

「ま、ずっとお前と一緒なんだ。そんな夢を見る事もあるだろうさ」

 やっぱりツキノワは何も答えはしない。ただ、耳が数回前後に動いただけだった。


 しばらく走ると、行く手に中学校のフェンスが見えてきた。俺が卒業したばかりの、そして紗理奈が通ってる、俺の家すぐ近くの中学校。ツキノワの目が真っ直ぐに体育館を見つめてる。今の時間なら、紗理奈がバトミントン部で練習をしている時間のはず。

「行ってみるか?」

 耳がピシッと上に立った。


 土手を降り、体育館横のフェンス外で自転車を止める。予想通り、開けっ放しの扉からバトミントン部の練習風景が見えた。バトミントンでは風でシャトルが飛ばされると困るので、窓も扉も閉めるのが理想的。でも、剣道部とか他の部活もやってるし、そんなに気合い入れて真面目にやってるわけでもない。それに人の出入りも多い。なので開け放してる。

 中をよく見れば、黒髪を丸くまとめた紗理奈がラケット片手に小さな体で右へ左へ飛び回ってる。スパッツの体操服は汗で濡れ、シャトルを打つたびに鋭いかけ声が響く。どうやら激しいラリーが続いているようだ。

 ハンドルが揺れた。前を見ると、カゴが空になっていた。ツキノワがフェンスを越えて体育館へ走っていくのが見える。扉の前まで来ると、開けっ放しの扉から頭だけ出して中を覗き込んだ。

 しばらくはジッと紗理奈の様子をうかがっていたが、次第に黒い頭が左右に往復し始める。高速で往復するシャトルの動きに目がいってしまってる。だんだん黒い体も屈め始めた。

  カシャッ

 シャッター音がした。とたんにツキノワは毛を逆立てて跳び跳ねる。あっという間に学校のフェンスを越えて消えていった。体育館の方からは女子バスケ部の女の子達が携帯を片手に顔を出した。口々に「おっし〜い」「へっへー!ツキノワ画像、とうとうゲット」なんて言ってる。

「何してるのよ、あんた達ぃ!」

 怒りながら女の子達に詰め寄っていくのは紗理奈だ。

「ツキノワはフラッシュやシャッター音が嫌いなんだからね!うちの子をいじめないでよね」

 紗理奈は体こそ小さいが気は強い。その剣幕に女の子達はタジタジだ。

「おーい、紗理奈。あんまり怒るなよぉ〜」

 仲裁のつもりで声をかけたのだが、何だかやぶ蛇だったみたいだ。今度は俺を睨み付けてくる。

「ちょっと、兄貴!そこで何してるのよ」

「ん〜、ツキノワがお前の顔を見たいっていうから、連れてきた」

「余計な事してないで、さっさと帰りなさいよ!今夜の晩ご飯の当番でしょうが」

「へぇ〜い。お前も寄り道しないで帰ってこいよ」

「それと、今度こっそり体育館覗いてたら、警察呼ぶからね」

「ば、バカ言うな!」

 ともあれ、もう用は無いので退散する事にする。ツキノワがいない分、少し軽くなったペダルを力一杯踏みしめた。俺の背中に、あたしの服は自分で洗うからね〜兄貴のと一緒に洗濯機入れるんじゃないわよー、なんて声が鞭を打つ。

 悲しくなった。





 さっき買ってきたばかりの鶏肉に塩・胡椒・酒とかで下ごしらえ。冷蔵庫から出したモヤシを水洗い。ニンジンとかグリーンピースとかは、冷凍のみじん切りのヤツをそのまま使うか…。料理の本を眺めて、そんな風に考えながら切れ味の落ちた包丁をシャープナーで研ぐ。

 すると、台所の外から猫のうなり声が聞こえてきた。見るまでもなく、何かに向けてツキノワが牙をむきだしているのが分かる。あの大人しい、というか落ち着きすぎたツキノワが何かに興奮するとか、敵意を向けるのは滅多にない。

「どうした?」

 台所の窓から、夕焼けで赤く染まる外を覗き見る。念のため包丁とシャープナーは持ったままだ。

 家の外では、塀の上でツキノワが家の横の道路へ向けて尻尾も全身の毛も立てている。その釣り上がった猫の目が睨んでいるのは、白いワゴン車だった。運転席は見えない。そのワゴン車がノロノロと走り去るのを確認した後も、ツキノワは油断無く車を見つめ続けてる。

 外に出て車が去っていった方を確かめたが、角を曲がったらしく、車の姿は既に無かった。ツキノワは今は落ち着いて塀の上に座っているが、未だに道路の先を見ている。

「ツキノワ…さっきの車は?」

 金色の瞳がチラリと横目で俺を見て、すぐにまた道路の先へ戻した。『注意しろ』とでも言うかのように。そして塀を飛び降り、まだ紗理奈が部活をしているであろう中学校の方へ走っていった。



「うん、ツキノワ来てくれたよ。校門出たら、茂みの中からこっちを見てた。その後も家に帰るまで、屋根の上とかからジッと見てた。でも、あたしを、じゃなくてあたしの周りを見てる風だったわ」

 テーブルを挟んで紗理奈と夕食をつつきながら、さっきの車とツキノワの話をすると、やっぱりツキノワは紗理奈を迎えに行った事が分かった。

「そか。んで、白いワゴン車は見なかったか?」

「えー?そう言われてもなぁ…学校の前の道路って車多いから、白のワゴン車って言われても、どれのことだか分かんないわよ」

「それもそだな」

 鶏肉とモヤシの炒め物を口に放り込みながら、テーブルの下でキャットフードを食べてるツキノワを見てみる。今の俺たちの話を気にする様子はなく、ムシャムシャと美味そうに晩ご飯を食べるばかり。

 鶏肉の欠片を手にのせた紗理奈がテーブル下に潜り込み、ツキノワの鼻先に鶏肉を置いた。

「ねーねー、あの車がどうしたの?」

 聞かれた黒猫は何も答えず、キャットフードから顔を上げようともしない。鶏肉を無視してる。

「どうやら、気にするなってことらしいな」

「兄貴の晩ご飯が不味いからじゃない?」

「…それもあるかも」

 親達が海外行ってるのを機会に始めた自炊だが、自分で食べても美味いと言えるレベルにはまだなっていないのはよく分かってる。


 夜。電気を消して布団に入ってると、右の耳元でフンフンという音がする。ツキノワの鼻息だ。掛け布団を少し上げると、スルリと入り込んできた。俺の右腕に顎を置く。

「お前が布団入ってると寝にくいんだよな」

 そんなぼやきは無視して、ツキノワは既にお休みモード。俺も気にせず寝る事にする。明日の朝には布団のど真ん中を大きな黒猫に占領され、俺は布団の隅っこで寒さに震えているだろうけど。

 ほどなくして、俺は眠りの世界へ旅立った。


  ――…あいつ、偶然通りがかっただけかな…でも、確かにこっちを見てた


 眠りにつく寸前、そんな声が聞こえたような気がする。よく分からないけど、やっぱり覚えのある声だったような感じだ。





「ちょっとニャオ!ニュースよニュース」

 次の日の朝、クラスに入るなり後ろから鞄を持ったままの篠山が飛び込んできた。遅れて尾野も慌てて付いてくる。

「何だよいきなり。クラス違うだろ」

「んな事気にしてんじゃないわよ。あんたにも少し関係ある話よ」

「お前、学校の新聞にツキノワ載せようってんじゃないだろうな」

「そうじゃないのよ。学校の新聞とは関係ないの。とにかく、これ見て」

 そういって篠山はポケットから紙を取り出し、俺の目の前に広げた。そこには古い二階建ての日本家屋のデジカメ画像が映っている。

「あんた、この家覚えてる?」

「家?」

 尋ねられた俺は、改めて紙の上にプリントされた家をよく見てみる。小さくてよく分からないが、窓には男の顔が映っているようだ。その家と、家人らしき人物を見直すが思い当たらない。

 小さく首を横に振ると、篠山は大きく溜め息をついた。

「全く、これだから一般大衆というものは…。事件が終わったら即座に忘れてしまうんだから」

「まぁまぁ、しのちゃん。何年も前の事件の話なんだから、覚えて無くても不思議はないよぉ」

 篠山の後ろで尾野が苦笑いをしてる。さらにその後ろから、村主の巨体が姿を現した。頭の上から眠たそうな声が降ってくる。

「うぃーっす。お前等、教室の入り口でたむろしてると邪魔やで」

 言われて俺たちは慌てて教室奥、俺の席の周囲に集まる。俺は村主に家の写真を見せてみた。とたんに村主の顔色が変わった。

「あ!こいつ…」

 村主のがっしりした手が紙をひったくり、マジマジと写真を凝視する。

「お前、この家知ってるの?」

「ああ、ウチの近所や。あん時は夜まで何台もパトカーが来てて、ほんま迷惑したで。まさか、帰ってきてたんか」

「あん時?」

「覚えてるやろ、下着ドロ」

「あ!」

 言われて俺も村主の手から写真をひったくり、改めて家を見直してみる。言われてみれば確かに数年前、母さんや紗理奈を含めて近所の下着を盗みまくってた変質者の家だ。ツキノワがこいつの家を見つけて、警官を引っ張っていったので逮捕に繋がった。「お手柄猫として表彰しようか」という話も出たが、さすがに常識外れにも程がある逮捕の経緯なので立ち消えになった。この事件の時に訪れた家で、犯人の顔も新聞で見た。よく見れば、確かに窓に映っているのは変質者の顔だ。

 篠山が右手人差し指を左右に振りながら、自慢げに語り出す。

「こいつ、下着以外にも色々余罪があったらしくて刑務所送られたわ。でも家に帰ってる所をみると、出所したらしいわね」

「らしいな。それにしても、よく帰ってきてるってわかったな」

「あ、それは由奈が見つけたの」

 篠山はピシッと親指で尾野を指す。指名された尾野はモジモジしながら小声で話し始めた。

「実は…その…あの時は、うちでも被害にあってて、凄く怖くて…。だから、あの家の近くを通りがかった時、空き家のはずなのに車が止まってたから、まさかって思って、しのちゃんに電話したの」

「で、あたしが望遠カメラで撮ったワケよ。そしたらドンピシャだったわ!」

 篠山は自慢げに胸を張る。周りで聞いてた連中から、おおーすげー、お手柄よね、なんて声が湧き出す。

「ほんで、どないする?」

 尾野が「怖くて…」と呟いた辺りから目つきが更に恐くなってきた村主が、野太い声で聞いてきた。

「まさか、また同じ場所で同じ事をするとは思わへんけど、念のため、軽く脅しでもかけといたろか?」

「おいおい、よせよ」

 写真を眺めながら、体育会系な思考に向き始めた村主をたしなめる。

「もう昔の話だし、ちゃんとムショ入ったろ。だったら、放っておいてやれよ。もう何もしないならそれでいいんだから。こっちが少し気をつけておけばいいと・・・」

 家の写真を眺めながら常識論を口にしていた俺だが、写真の隅に映っているものに気が付いた。何か、駐車場のようなものと、タイヤの跡と、白っぽい物が隅にある。そういえば尾野も車を見つけて、と言ってた。

「なぁ、篠山。ここ」

「ん?」

 俺は持っていた写真のタイヤ跡を指さす。

「尾野も。車、止まってたんだよな?」

 二人とも頷く。

「その車の写真ってあるか?」

「あるわよ。メモリーに入ってるわ」

 そういって篠山は鞄からカメラを取り出し、電源を入れて映像を表示する。いくらか操作してから、一枚の映像を示した。そこにはさっきの下着ドロの家が映っている。そしてそこの駐車場に止まっている、白いワゴン車も。

「偶然通りがかっただけかな…?」

 昨日、寝る前に聞こえてきた言葉が脳裏に蘇る。





 昼休み。昼食を大急ぎでかきこんで、一人で校舎裏へ行く。周りに誰もいないのを確認する。篠山の望遠カメラにも写らないよう、校舎の影に隠れる。その上で、ちょっと勇気はいるが、意を決して声を出した。

「ツキノワ、いるか?いるなら来てくれ」

 少し待つ。何も来ない。

「ツキノワ!話があるんだ!」

 今度は少し大きな声で言ってみた。でもやっぱり何も来ない。

「・・・だよな。いくら頭が良いって言っても、そんなハズはないよな」

 照れ隠しに頭を掻きながら校舎の影からでようとした。


 大きな黒猫が目の前の茂みの下から顔を出す。


 ツキノワが、目の前に座った。金色の瞳が真っ直ぐ俺を見上げている。

 俺は地面の上に直接あぐらをかいて、我が家の猫らしき生物の前に座った。

「昨日の昼、そして寝る時の声…まさかと思ったんだけど、やっぱり間違いない。あれ、お前の鳴き声とそっくりだった」

 ツキノワは何も言わない。ただ黙って俺の眼を見る。

 こんな事を言うのはまともじゃないって分かってる。けど、少なくともツキノワはまともな猫じゃない。それだけは間違いない。あまりにも頭が良すぎる。猫のクセに自分勝手な所が全くない。

「今までだって猫らしくないとは思ってた。お前の夢を見るのも珍しくなかった。けど、昨日からのは、さすがに妙だと思う。お前の考えや視線が、まるで自分のもののように感じられるんだ」

 金色の目が、もともと大きな丸い目が、もっと大きく見開かれる。まるで驚いたかのように。

「なぁ…お前、いったい何者なんだ?それとも、俺の方がおかしいのか?」

 俺はツキノワをジッと見つめる。

 ツキノワは、何度か瞬きした後、盛んに耳をパタパタ動かす。

 しばらくお互い見つめ合ったまま、答えを待ち続ける。

 そのうち、ツキノワは何かを諦めたかのように目を閉じて頭を下げた。

 俺も一つ溜め息をついて、ツキノワの頭を撫でた。

「ま、何でも良いか」

 ゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らしてる。頭を撫でると、昔の傷が指に触れる。交通事故で負った、俺の額とほとんど同じ形の傷だ。お互い、文字通りに頭が割れるほどの重傷だった

「お前がバケネコだろうが宇宙からの異星人だろうが、俺にはどうでもいいや。お前は俺の弟みたいなもんだ」

  ガブッ

「んぎゃ!」

 思いっきり噛みつかれた。

「な、何すんだよ急に!」

 猫としては大きな体で胸を張り、ナー!と一声大きく鳴いた。

「し、失礼だ、俺の方が兄貴だ…て、言いたいのか?」

 もっと大きな声で鳴いた。

 俺はよっこらせと年寄り臭い言葉と共に立ち上がる。

「分かった分かった、お前が兄貴でいいよ。

 ところでな、話ってのは昨日の車のことなんだ。お前、例の下着ドロの顔を覚えてたんだろ?運転してたのがそいつだったんだな。んで、ウチの方を見てたわけか」

 耳がピンと立つ。

「まぁ、お前のせいで逮捕されたと逆恨みするだなんて、さすがに気にしすぎとは思うけど。俺の方でも帰りに確認しておく。お前は、俺は気にしなくていいから、紗理奈の方を見てきてくれないか?」

 ツキノワはニャンッと元気よく鳴いて茂みの中へ消えていった。同時にチャイムが響いてくる。俺も慌てて教室へ向かう事にした。





 そんなこんなで放課後の帰り道。

「えっと…うん。確かにそこの角を曲がったところだったよな」

「せや。右行って三軒目の二階建て」

 村主と一緒に、例の家に行ってみる事にした。角を曲がれば確かに例の家がある。

「ここって、下着ドロが掴まってからはずっと空き家だったのか?」

「ああ。少なくともヤツ以外にこの家に誰か住んでたっつー話はしらんわ」

 駐車場に車はない。窓もカーテンが閉まってる。だが駐車場には真新しいタイヤの跡がある。入り口の辺りを見てみるが、表札の類はない。

「今は留守か。えと、あいつの名前はなんて言ったっけ?」

「あーっと、確かやな、岩本や。俺ンちのPCで篠山のHP見たら、もう少し詳しく載ってるハズや」

「そだな。ちょっと確認させてくれ」

 俺たちは村主の家に向かう事にした。


 マンション2階の一室、村主の部屋。部屋の入り口には『雅人の部屋。勝手に入ったら許さん!』との看板が下がってた。

 マッチョな空手家の部屋らしく、あちこちに鉄アレイやらグローブやら、脱ぎっぱなしのTシャツとかも散乱してる。壁には有名な格闘家と水着美女のポスター。時間があれば押し入れの秘蔵アイテムや、検索履歴から趣味のサイトもコッソリ調べたい所だが、今はやめておく。村主はキーボードを叩き、篠山のHPを開く。

 画面には、なにやらニュースサイトみたいな映像が広がった。ピンク色をベースにしたり、可愛い絵文字を使ったりで、それなりに女の子っぽく構成してある。でも基本はこの町で起きた小さな事件をメインにしてる。その中にはツキノワを追跡した特集も入っていた。もちろん場所や人物が特定されないよう、言葉には気を使ってあるし、モザイク入れたりとかもしてる。

「これやな。多分、昔の記事を漁れば出るハズや」

「それにしても、相変わらず人の家のネコを勝手に記事にしやがって…」

 過去の書き込みを調べていくと、「主と一緒に毎日登校する忠ネコ!」「お手柄!財布を届ける」なんてのが並んでいる。それに対するサイトを見た人の返答は「すっごいねー」「賢いネコだなぁ」というのももちろんある。多分、町に住んでるかツキノワを直接知ってる人達の反応だろう。でも大方は「いや、そんなわけねー」「どんなネコだよ」「捏造にも程がある」「駅長ネコみたいに、アイドル化させて売り出したいだけだろ」なんて否定的なものだ。

「全く、篠山も懲りないな」

「そう言うたんな。信じろって言うても無理な話や。まぁ、おかげで沢渡んちは静かでいられるんやけどな…あー、あったあった。これや」

「お、どれどれ」

 ウィンドウに開かれた内容は、確かに数年前の下着ドロの件だ。事件のあらまし、被害者の声、逮捕された時の小さな新聞記事とかも載っている。


 岩本真澄。三十二歳、独身。元プログラマーだが体調不良のため休職中。最近この町に引っ越してきた。両親は既に死去。相続した家に一人暮らし。近所との交流は少なくトラブルも見られず。

 大量の下着を部屋一杯に広げていた姿を、通りすがりの警察官が窓から確認した。警察官が任意で事情聴取したところ、犯行を認めて逮捕となる。被害は届け出があっただけで三十二件。室内から百枚以上の女性用下着に加えて高級時計、宝石、現金等を発見。いずれも被害届あったものである。

 この警察官が窓から盗品を確認出来たのは、ツキノワが彼を現場へ引っ張っていったからである・・・。


「まぁ、ツキノワの件を抜いたら、ようある話や。もちろん新聞の記事かて小さいし」

「でも、この町じゃ事件なんて滅多にないからなぁ。あれからしばらく、ツキノワを表彰とか町のアイドルとして売りだそうとか、随分騒がしかったぜ」

 そんな話をしながらも、村主はマウスを操作して新聞記事を拡大する。そこには岩本真澄の顔が映っていた。痩せていて、長くボサボサの髪を後ろに束ね、無精ヒゲを生やした不景気な顔だ。





 その頃、中学校でも既に放課後。バトミントン部の練習は今日は無いので、セーラー服姿の紗理奈もクラスメート達と共に門から出てきた。

 それを、金色の瞳が見下ろしている。ツキノワは校門から道を挟んだ家の屋根から、校門前を見張っている。校門前の道路を見渡すと、もちろん白いワゴン車は何台も走っている。

 紗理奈が歩く方向に合わせ、ツキノワも屋根の上を並走する。紗理奈と同じ方向に歩いていた女の子達は、一人二人とそれぞれの家に向かって別れていく。ツキノワも大あくびをしながら、塀を歩き生け垣をくぐって沢渡家へ向かっていった。

 紗理奈は最後の女の子とも手を振って別れ、角を曲がり、古ぼけた平屋の我が家を前にした。少しして、追いついたツキノワも沢渡家の塀の上に飛び上がる。そして門の前にいる紗理奈を確認した。


 同時に、沢渡家へ向かって突っ込んでくる白いワゴン車も。


 紗理奈が悲鳴を上げ、一瞬立ちすくむ。

 急停車する車のタイヤがアスファルトとの摩擦で悲鳴を上げる。

 扉を弾かんばかりの勢いで開け放ち、運転席から飛び出してきたのは、目を血走らせて右手にスタンガンを握る、痩せて不景気な顔の男。彼は一直線に紗理奈へ向かって駆け出した。そして、スタンガンを手にした腕を大きく振りかぶり、悲鳴をあげながら両腕で頭を庇う彼女へ振り下ろ――


  バリッ!


 振り下ろせなかった。

 代わりに、男の額に三本の爪が食い込んだ。

 そのまま斜めに疾走した爪は、血が噴き出る長い傷を三本残す。

「ぐわあっっ!な、何だ?」

 額を抑えた岩本が悲鳴を上げる。

「ツキノワッ!」

 地面にへたり込んだ紗理奈は、腕の間から愛猫の後ろ姿を見た。スタンガンを握った男相手に怯むことなく、全身の毛を膨らませて甲高い唸り声を上げている黒猫を。

「こ!このクソネコ!まま、またバカにしやがってえっ!」

 怒声を上げながらスタンガンを振り下ろす。だが軽々とよけられ、逆に左手を更にひっかかれた。血が噴き出る手の甲を押さえようとして、スタンガンも落としてしまう。

 周囲の家から、何だ何だ?何の騒ぎよ、という声が聞こえてくる。それに気付いた男が慌てて紗理奈を睨み付ける。そして、ようやく立ち上がろうとしていた少女の胸ぐらを鷲づかみにした。

「キャアッ!な、なんなのよぉ!」

「ううるせえ!黙ってろ!」

 小柄な彼女の体を力任せに引きずろうとする。だが二本の牙がセーラー服を握りしめる男の左手に突き立った。

「ぐぅおぉ!こ、このぉー!」

 瞬間、セーラー服を握っていた右手が離れ、左手に噛みつくツキノワの首へと向かう。 ツキノワは即座に離れようとした。だが、肉に突き立ち食い込んだ牙のせいで、離れるのが一瞬遅れた。

 首を掴まれた黒猫は、力任せにぶん投げられた。





 村主の部屋に絶叫が木霊した。俺の悲鳴。俺は突然全身を激痛に貫かれていた。

「ぬぉあ!な、なんやいきなり?」

 耳元で聞いた事もないような悲鳴を上げられた村主が、慌てて耳を押さえて振り向く。だが、何も答えられない。答える余裕も何もない。全身を痙攣させながら悲鳴を上げて、そのまま床に倒れ込んでしまった。

「ど、どしたあ!」

 村主が慌てて駆け寄ってくるのが分かる。だが、触られるだけで再び全身を激痛が襲いそうだ。そのまま床をのたうち回ってもがき苦しみ、村主が伸ばす手から必死に逃げる。

 そしてそのまま意識が、どこかへ落ちた。





 ――…・・・?

 なんだ、何が見えてるんだ?


 楕円形に切り取られたかのような、妙な色合いの風景。

 家も何もかも横倒しの…違う、自分が倒れてるんだ。

 地面はアスファルトで、前に車が見える。

 白い、白いワゴン車…か?色がヘンだな。

 車の横に、一人の男。

 男が何かを殴った。

 そして殴った何かを、車に急いで押し込めてる。

 押し込めている男は、あれは…だめだ、よく見えない。

 押し込められているのは、長い髪の、女の子…。

 あれは…あの子は!



  《紗理奈ぁ!》

  《紗理奈ちゃん!》



 妹の名を呼ぶ声が響いた。頭の中に、二つ。

 一つは俺の声だ。

 そして、もう一つは、あの声は…

 やっぱりそうだったんだ!


  《まさか、ツキノワか!》

  《その声は、もしかして…浩介君?》


 頭の中に声が響く。耳から聞こえる声じゃない。間違いなく、頭の中に

 直接ツキノワの心の声が届いてるんだ。


  《そうだ、そうだんだ!やっぱりお前の声が聞こえてたんだな!》

  《そうだよ!やった!とうとう繋がったんだね!》

  《繋がった?どういうことだ、いったい、お前は何》

  《待って!話は後だよ》

  《は、話は後って、お前、後に出来るような話じゃないだろ。つかさっきの激痛は何だったんだ?それに、この光景って…まさか、もしかして、そんな!》

  《そうだよ!紗理奈ちゃんが掠われちゃったんだっ!》





「なんだとおおっっ!!」

「おわあっ!」

 俺は床にうつ伏せで倒れていた。そのまま上げた絶叫に驚いた村主が、思いっきりあとずさる。

「ここは…村主の部屋、か?」

「お、おう、そうや、けど…お前、大丈夫かいな?」

 俺は自分の体を確かめる。

 確かに全身の痛みは続いている。だけど、今は分かる。これは自分の痛みじゃない。ツキノワの感じてる痛みが届いてるんだ。そう、痛いのは俺じゃない。どこにも怪我はない。俺の体は動く。

 次に痛みそのものを確認する。ツキノワが感じている痛みを。大丈夫、ツキノワが起きあがった感覚も届いてくる。軽く体を振るわせ、全身に付いた砂利を周りにまき散らす。骨折とかはしていないらしい。

 自分の周りを見ると、やっぱりここは村主の部屋だ。時計も見るが、時間はほとんど経っていない。ほんの数分の事だったらしい。

 さらに意識を自分の見ている風景からツキノワの視界へ移す。そこは俺の家の前だ。周囲は騒然として、あちこちから「紗理奈ちゃんが掠われたわ!」「警察へ電話!急いで!」「白いワゴン!北だ!」という叫び声が聞こえてくる。大騒ぎになっていた。


  《ツキノワ!犯人はあいつか?》

  《当たり!例の下着ドロだよ》

  《クソぉ!》

  《大丈夫!車は僕が追うよ。浩介君は…もしかして、下着ドロの家の近く?》

  《そうだ。俺の視界、ツキノワにも見えてるのか?》

  《うん。もしかしたら、ヤツの家に、どこへ行くかの手掛かりがあるかも》

  《それだ!すぐ行ってくる。警察もヤツを追うだろうけど、お前も…て、お前、どうやってヤツの車を追うんだ?》

  《安心して!犬ほどじゃないけど、ネコの鼻もすっごいんだから》


 言うが早いかツキノワは前足の爪に鼻をつける。爪の隙間についたヤツの血と皮膚の臭いを・・・ををを!


  《ぐおお!こ、これはきつい!ネコの鼻ってこんなに凄いのかよ!》

  《あ、ゴメン。浩介君と繋がったままだった。そっちで切れるかな?》

  《き、きき、切るってどうやって》

  《え〜っと、意識を自分の体に集中させるというか、僕の方を気にしないというか、どう言えばいいかなぁ》

  《な、なんだかわかんねーけど、やってみる。つか、出来ないとこっちの鼻が曲がりそうだ!》


 俺は慌てて意識をツキノワから自分の体に戻す。でも未だに痛みやら臭いやらで意識がツキノワの方へ引き寄せられそうになってしまう。

「うひゃ、どうすんだよ、これ」

「お、俺に聞くなや!つか何なんや?」

「え?」

 横に立ってる村主に今頃気が付いた。目を白黒させながらオタオタしてる。

「あー、えと、何なんやと言われても、俺にもよく分からないんだけど、まぁ、うん、大丈夫だ」

「ほ、ほんまかいな?怪我とかしとらんか?」

「あ、ああ。それは大丈夫。もう回復した」

 そんな話をしていたら、痛みも臭いも感じなくなった。どうやら村主の方に意識が向いたおかげでツキノワとの通信が切れたらしい。軽く眉間に意識を集中してツキノワを想い描くと、再び痛みと臭いが届いてくる。ボンヤリと視界も見える。アスファルトについた車の臭いを嗅いでる最中だ。

「よし!掴んだ」

「だから、何がやねん!」

「あ、悪い、こっちの話…って、そんな事言ってる場合じゃないんだ!」

「いや、確かにそんな場合じゃなさそうやな…とにかく病院にいこや」

「へぁ?いや、だから」

「だからちゃうって。さっきのはただ事ちゃうがな。とにかく病院行くで。送るわ」

 といって村主は俺の腕をとる。

 俺は困ってしまった。『ネコとテレパシーが通じてます』なんて言えやしない。だからって何も説明しなかったら間違いなく病院まで引きずられてしまう。下手な言い訳は、脳に問題が…とか思われそうな状況だ。

 何か上手い手はないか?何か自然に村主に現状を分かってもらう手は…。

  《こういうのはどう?》

 いきなりツキノワの声が届いた。


 オホン、と一つ咳払いして、心配げに見下ろしてくる村主に向き直った。

「分かった。病院行く。で、紗理奈が帰ってる頃だと思うんで、保険証と金を持ってきてもらおうと思うんだ」

「あ、それええな。事情も話せるし」

 じっとりと汗で湿った手で携帯を取りだし、紗理奈の携帯にかける。俺は、頼むぞ〜上手くいってくれよ〜、と祈りながら、耳に携帯を押しつけて、誰かが出てくれるのを待ち続ける。

 しばらくして、携帯から金切り声が響いてきた。

『誰?誰なの!』

「もしもし」

『その声!浩介ちゃんね。あたしよ!隣の村上よ!』

「え?村上の奥さんですか?」

『そうよ!これ、道路に落ちてた紗理奈ちゃんの鞄から取り出したのよっ!』

「ええ?いったいどういうことですか?」

 自分でもかなり棒読み台詞だった気はする。ともかく、村主に不自然な所無く事情を話せたのでオッケーとしよう。





 ガラスが割れる音が静かな住宅街に響く。

 すぐに周囲の家の窓から人の顔がのぞくけど、気にしてはいられない。俺と村主は構わず石でたたき割った窓から侵入する。そこはホコリが溜まった殺風景なリビングだ。どうやら長い間使われていないらしい。

「ヤツがいた部屋はどこやった?」

「写真では奥の部屋だ」

 すぐに廊下へ飛び出し、奥に木製ドアを見つける。ノブを回すが開かない。

「鍵か、くそ。窓から入り直すか」

「アホ、時間無いわ。離れろ」

 言うが早いか村主は学生服を脱いで右手に巻き、扉の前で腰を落とした。そして眼前で腕をクロスし、圧縮した息を吐く。

「チェィヤァッ!」

  バギャァッ!

 気合い一閃。右正拳突きが木のドアを撃ち抜いた。目が点になった俺には目もくれず、そのまま腕をつっこんでドアノブの鍵を外した。

 中に飛び込むと、そこはやっぱりホコリっぽい部屋。テーブルや椅子にホコリの無い場所があり、ヤツが使った場所がよく分かる。机の上や棚に数台のパソコンにモニター、プリンターなどが並んでる。

「さすがに元プログラマーやな。ええもんが並んでるわ」

「動かせば、何か分かるかも」 

「おう、頼む。こっちはプリントされたやつチェックしてみるわ」

 村主はプリンター周囲に散乱する紙の束に飛びつく。俺はパソコンの電源を手当たり次第に入れてみる。だが、モニターが立ち上げ画面後に映し出したのは、パスワード入力画面。思わず机を力任せに殴りつけてしまう。

「くそ!ダメだ、パスワードが分からない」

 俺が叫んだ直後、さらにでっかい音が部屋に響いた。村主が鉄拳で床を力任せに殴りつけていた。

「クソ野郎が!こういうことやったんか!」

 広い背中越しに村主の罵声が飛んでくる。

「何か分かったのか!」

 背中越しに紙を覗き込もうとした俺の目の前に、プリントアウトされた紙の束から拾い集められたものが十枚ほど突き出された。ひったくるように受け取って、次々にめくっていく。

 紙をめくるたびに、紙の上に示された事実を知るたびに、俺の目の前が暗くなっていきそうだ。


 まず目に飛び込んだのは、、篠山のHPをプリントアウトしたものだ。ツキノワ特集記事がまとめてある。

 その次は岩本真澄を逮捕した記事。俺たちがさっきまで見ていた新聞記事はもちろん、ツキノワの名もある。

 そしてそれ以降は、高級そうな光沢紙に華麗な装飾付きでプリントされた、盗撮画像。望遠レンズで撮られた、恐らくは小学生から中学生までの様々な美少女が映ってる。水着画像からパンチラ写真まで、お巡りさんが危険人物としてマークする事間違いない写真ばかりが並んでる。

 そして、その中には紗理奈の写真もあった。紗理奈が家の前でツキノワを抱き上げている写真が。


 足が震える。

 声が、何か言いたいのに、声が出ない。

 手から力が抜けて、紙の束が床に落ちる。

「あんのボケナスが!復讐ついでに紗理奈ちゃんを掠ったっつーわけか!くそったれ!」

 村主の怒声すら遠くに聞こえる。

 意識が遠のく。

 倒れそうになる。


  《しっかりして!》


 頭の中に甲高い声が響き渡る。

  《倒れちゃダメだ!紗理奈ちゃんを助けないと!》

 ツキノワの声が頭に響いてこなかったら、間違いなく気絶して倒れていた。

 遠くからパトカーのサイレンが響いてくる。この家に俺たちが押し入ったのを、誰かが通報したんだろう。

「す、村主…あとを、頼む」

 俺はよろめきながらも必死で足を踏み出す。

「た、頼むって、お前、どないするねん!」

「紗理奈が、紗理奈が…助けに、いかなきゃ」

「アホンダラ!今のお前が行って何の役に立つねんな?つか、どこに行く気や!あてなんかないやろが!」

 俺は呼吸を整える。

 頬を叩く。

 壁を殴りつける。

 そして、いきなり豹変した俺の姿に驚いた村主を睨み付けた。

「詳しく説明してられないけど、あてはあるんだ。とにかく、お巡りさんに説明しといてくれ!」

 俺は村主の引き留める声を無視して駆け出した。





 俺は必死でペダルをこぐ。

 背中に届いていたパトカーのサイレンも今は聞こえない。

 今までこんなに必死で自転車をこいだ事はない。それでも遅い。気ばかりが急く。

 学生服のポケットでは携帯が鳴り続けている。走りながら確認すると、どれも学校やクラスメートからのメールや電話だ。既に警察からの情報や近所からの電話があちこちに広がってるんだ。

 だけど、俺には携帯で話している暇なんか無い。俺が欲しいのは慰めでも励ましでもない。岩本と紗理奈を追う情報だ。もちろん普通の高校生に犯罪捜査なんかできやしないから、「岩本を追う」なんて言っても止められる。警察官なら力尽くでも俺を取り押さえるだろう。

 でも、今は違う。

 今の俺には岩本を追える。紗理奈を助け出せる。

 そうだ。ほんの数十分前の俺なら不可能だった事が、今の俺には不可能じゃない。

 さっきまで俺は平凡な高校生だった。村主みたいな特技も、篠山みたいな夢も、紗理奈みたいな元気もない。趣味すらない、ただの凡人だった。

 だけど、今の俺は、もう違うんだ。


  《ツキノワ!ワゴンの中に手掛かりは残ってるか?》

  《ダメ、大したものは残ってない》

  《血痕は…見あたらない。血の臭いは?》

  《岩本のだけだね。紗理奈ちゃんのは無い…でも汗の臭いが凄い。凄く怖がってるんだ》

  《クソぉ!でも、どうやら紗理奈に大きな怪我は無いみたいだな》

  《みたいだね。それじゃ、乗り換えた車を追うね》

 ツキノワは、俺の家から少し離れた河原に乗り捨てられた白いワゴン車を発見した。開けっ放しの扉から飛び込んで中を確かめたが、既に空だった。その映像は俺の頭にも届いている。

  《待て。お前、まだ体が回復してないだろ》

  《心配しないで!大きな怪我はしてないから》

  《ダメだ、そこで待っててくれ。あと三分くらいで着くから。俺がチャリでお前を運ぶ。お前は臭いを追うのに集中してくれ》

  《う、わ、分かったよ。その間に、車の臭いを》

  《おう、それとタイヤ跡の映像も見せてくれ》

 乗り捨てられたワゴン車の横には、真新しいタイヤの跡がある。警察の追跡を逃れるために別の車を用意していたんだ。いったい、どこまで周到に準備してたんだ。なんて執念深さだ!


 そうだ。俺はもう平凡な高校生じゃなくなった。

 科学では有り得ない、常識ハズレの力を手に入れたんだ。

 弟のような、とは思っていたけど、やっぱりネコはネコと考えてたツキノワと、心が繋がった。ツキノワという、本当に人間並みの頭脳を持つ天才猫とテレパシーで情報をやりとりできる。

 今の俺は、いや俺とツキノワは、二人分の頭脳と肉体を束ね、猫の嗅覚と人間の科学を持ち、心で直接情報を共有出来る。きっと、警察犬と刑事の力を合わせたような追跡者になったんだ。


  《それは言い過ぎかなあ?でも、僕らなら紗理奈ちゃんを取り戻すくらいは、きっとできるよ!》

  《ああ!もちろんだ。俺たちで紗理奈を助け出すぞ!》

  《うん!》

 そんな話を頭でしていると、目の前に土手が見えてきた。この土手の向こう側にツキノワと例のワゴン車があるはずだ。





 疲れ果てて乱れた呼吸を整えながら、震える手で携帯を取り出す。ツキノワも俺の隣に座って休んでる。何も残ってない空のワゴン車にもたれながら、全ての着信を無視して村主の携帯にかける。

 一瞬で村主が携帯に出た。ずっと待ってたんだろう。

『ニャオか!今どこや!?お巡りさん達が探しとるぞ!警察がすぐに非常線をはってくれるそうや!白ワゴンを手当たり次第に捕まえてくれるって』

「ま、待てェ…ハァ、ヒィ…白ワゴン、見つけた、ゲホ…」

『なんやとぉ!?ま、待て、今、隣にいるお巡りさんに代わる!』

 はずむ息を必死で押さえ込み、村主の電話に電話に出てくれた警官に、河原で白ワゴンを見つけた事を話す。そしてナンバーを伝え、携帯の写真で撮った白ワゴン、車内の様子、隣に残ったタイヤ跡の写メを送信した。

 警官が興奮を必死に押し殺したような声で語りかけてくる。

『よ、よく頑張ったね。でも、その車が本当に岩本の物かどうか確認しないと』

 言われて気が付いた。どうやって俺が河原に放置してあるワゴン車を岩本の物だと確認したか、説明が出来ない。つか、発見した方法からして問題だ。追跡したのは猫の鼻。警察犬じゃあるまいし。

  《弱ったね。浩介君、どうしようか》

  《あ〜う〜。あ、でも、もしかしたら町の警官だったらツキノワのことを信じてくれるかも》

 時間がないから手段は選んでいられない。そう思ってツキノワの名を出そうと口を開いた時、携帯の向こう側から警官の大声が先に飛んできた。

『ナンバーを確認出来た!それ、確かに岩本のだよ!』

 ツキノワと俺は、思わず心の中でガッツポーズ。警官の声も、もうとっくに興奮を隠していない。

『君からのデータは署へ送ってある!そっちにも刑事さんが駆けつける!君はそこで待っててくれ!』

 また気が付いた。警察の聴取を受けないといけないんだ。でも、そんなノンビリしていられない。すぐにも乗り換えた車を追っていきたいんだ。

『いや、自宅へ戻って欲しい!もう君の家にパトカーが着いてるから、そこで事情を話してくれ!』

 ますますマズイ。今もし家に帰ったら、絶対に警官達は俺を放してくれない。少しでも情報は欲しいだろうから。それに、ただの高校生が犯人追跡だなんて、認めてくれるはずがない。少年探偵マンガじゃないんだ。大体、ドラマなんかだと、犯人を追う被害者の家族は割と返り討ちに遭うんだよな。

  《俺たちはただの高校生と猫じゃないんだ、なんて言っても通じないな》

  《だね…お巡りさん達には悪いけど》

  《んじゃ、行くしかないな》

 俺は通話を切って携帯をポケットに放り込む。急いでここを離れないと、お巡りさん達がやってくる。自転車にまたがると、ツキノワも前カゴに飛び込んだ。

  《どっちだ?》

  《右!》

  《よし。角に来たら止めるから、臭いを確かめてくれ》

  《うん!急ごう》

 俺は再び力一杯ペダルを踏みしめる。

 気が付けば、もうすぐ夕方だ。春とはいえ肌寒い風が吹き付けはじめる。でも、俺たちの体は熱い。大汗を流しながら自転車は河原を走り出す。


 俺たちの自転車は走り続けた。

 分かれ道に来るたびにツキノワが臭いをかいで方向を確認する。

 幸いまだ時間はそんなに経ってないし、強い風も吹いていないので、臭いが強く残ってる。前カゴのツキノワのナビに従って、俺は自転車を走らせ続ける。

 町は刻一刻と暗くなっていく。そして、そこら中でパトカーとすれ違う。けたましいサイレンがあちこちから響いてくる。多分、町の太い道路は次々と封鎖され検問が敷かれてるだろう。

 だけど、残念だけど、岩本の車は検問を全部すり抜けたはずだ。何故なら、俺たちがヤツを追って走る道には、全く検問が見あたらないからだ。それもそうだ。住宅街の中の抜け道や、田んぼの間の細い農道や、人のいない駐車場を通り抜けているんだから。街中を走ってるパトカーでも中々通らない、いや通れないような脇道や抜け道ばかりを選んでやがる。

「畜生!これじゃ警察の包囲を抜けられちまうぞ!」

  《やっかいだね…これがよくニュースで言う、土地勘のある犯人ってヤツだね》

「ああ。おまけに小回りの効く小型の車、多分、軽自動車みたいな小さいのを使ってる。だけど、そのわりには、舗装してないデコボコの農道みたいな道も楽に通り抜けてるようだし…」

  《えっと、車はよくわからないんだけど、それってどんな車?》

「小型のRVとかSUVってヤツかも。普通の車と違って、山や河原を走るための…パリダカとかに使う車と言えば分かるか?」

  《あー、えっと。なんだかジープみたいな車?》

「そうそう!そんなヤツだ。…うわああ、言ってて腹が立ってくる!あの野郎、紗理奈を掠うための車まで選んだんだ!」

  《落ち着いて!今は冷静に考えるんだ》

「わーってる!わーってるよ…とにかく、ヤツの臭いが弱くなってきてる。急いで追わないと」

 端から見れば、自転車を必死でこぐ俺の独り言のように見えるだろう。ツキノワの思考は俺にしか届かないんだから。ツキノワは前カゴから黒い頭を出してるだけなので、気付かない人が大半だ。

 別に声に出して話をしなくても、考えるだけでツキノワには通じるのだが、テレパシーはまだ慣れてないせいか、どうしても考えを口に出してしまう。

 空気中に漂う臭いがかなり散ってきた。風にも流されてる。俺は分かれ道のたびに自転車を止めてツキノワを下ろし、ツキノワは地面の臭いを嗅いで方向を確かめる。そしてまた次の分かれ道まで自転車を走らせる、の繰り返し。焦っちゃダメだとお互いに言い聞かせ、確実に跡を追う。


 町が夕暮れから夜に移ろうかという頃、俺たちは山を見上げていた。それは、この町が背にしている山々。広大な森林が広がり、休日にはドライブの車やハイキングの人が列をなす山林だ。

 目の前には長いスロープが山と森へ延びている。真後ろにはコンビニが光ってる。空は既に暗くなりだしてる。もちろん山中には街灯なんか無い。

「この山の中に逃げ込んだのか…でも、この道なら俺だって分かる。小学校からずっと遠足と言えばこの山だったんだから」

  《でも、この山は広いよ。確か国定公園だよね?》

 前カゴから身を乗り出したツキノワが暗い森を見つめる。

「ああ。でも代わりに車が走れる道路も行き先も限られる。警察ならヤツを包囲出来る」

  《なら、警察に伝えないと》

「あ、うー、でも、どうして岩本が山に逃げ込んだのが分かるのかって突っ込まれると困るぞ」

  《あ、そか。うーん…でも、僕が走っていくのを追っていったって事にしたら…ダメかなぁ》

「むぅ〜。苦しいなぁ。でも、お前なら紗理奈を追っていっても不思議はないって警察の人も考えるかも」

 俺は再び携帯を取り出す。さっきから携帯は鳴りっぱなしだが、全部無視して走り続けていた。履歴を調べれば、村主やら篠山やらに加えて知らない番号やアドレスからのメールも並んでる。もちろんその中には紗理奈からのものはないだろう。紗理奈は携帯を鞄に入れたままで、それは隣の村上さんが拾ったから。自分で逃げ出し公衆電話からかけた、なんて期待はできない。

  《多分、知らない番号は警察の人達とかじゃないかな》

「あと、学校からもな。でも、警察は説明が時間かかりすぎるし、信じてもらえるか分からない」

 俺は村主のアドレスを選んだ。またも一瞬で繋がった。同時にもの凄い怒声が飛んできた。

『こぉんのボケェっ!』

 耳鳴りが凄い。そして前カゴではツキノワが目を回しかけた。今のを脳に直接受けてしまったらしい。

『おんどれ!どこをほっつき歩いとんじゃ!もう町も学校も大騒ぎや!はよ戻ってきさらせ!』

「い、いや、村主、ちょっと」

『ちょっとも何もあるかい!お前が町を走り回ってたって岩本のカスは見つけられヘンわい!それより、早くお巡りさんにお前の話をしたれ!今は一秒を争うンや!どんな情報でも必要なんや!』

 村主は一気にまくし立てる。早口で関西弁をまくし立てられたら、口を挟む隙がない。つか怖い。少し待って、まくし立てまくった村主が息継ぎをするところで、ようやくこっちの話ができた。

「村主、よく聞いてくれ。実は、今、岩本の足取りを追ってるんだ」

『はぁっ?何を言うとんねん!どうやってお前が追えるっちゅーねん』

 さすがに、この内容を口にするのは勇気が要る。だけど、もう手段は選んでられない。ツキノワも後ろを向いて頷く。俺は大きく深呼吸をしてから、可能な限り落ち着いて話し出した。

「ツキノワが、ヤツの臭いを追ってる」

『…はぁ?』

 村主が聞き返してくる。そりゃそうだ。常識的に言うなら猫が犯人を追うなんて有り得ないんだから。それでも話すしかない、万一にも信じてもらえる事を願って。俺は構わず話し続ける事にした。

「俺はツキノワの後を追ってるんだ。今、五月山のドライブウェイ入り口だ」

『つ、ツキノワがって…いや、確かに、ツキノワならやりかねへんけど…。あ、そうや、そうやな。ツキノワなら出来るかもしれへん』

「よかった!信じてくれるか」

『確かに、常識では有り得へん。有り得へんけど、そもそもツキノワは常識的な猫や無いんやからな。分かった、信じるわ』

「助かったぜ。それで、周りに警察の人はいるか?」

『おう、実は、まだ岩本の家で事情聴取受けてんねん。一応、俺等のやったんは不法侵入やし。目の前で刑事さん達が凄い目つきで睨んできてるで』

「よし、それなら刑事さん達にも伝えてくれ」

『つ、伝えるて、おま、ちょっと』

「詳しく話してる暇無いんだ!いいか、ここは五月山ドライブウェイ入り口、コンビニ前の坂だ。岩本の車はここから山に入った。車種は正確には分からないけど、細い道路や舗装してないデコボコ道も走ってるから、小型RVかSUVか、そんな感じのオフロード車だと思う!」

 携帯の向こうから、俺のいった内容を大声で繰り返してる村主の太い声が聞こえる。そして周りからザワザワと、沢山の人の話し声も聞こえてくる。中には、電話を代わってくれ、戻ってくるよう説得するんだ、話し続けてその場に足止めさせろ、絶対山に入らせるな、付近の巡回に向かわせろ、という声がある。沢山の警官が捜索に来ていて、俺が岩本を追うのを止めようとしてる。

 電話の向こうで村主が大きく息を吸うのが聞こえる。どうやら俺を説得するか、話を続けて時間を稼ぐ気だ。

「すまん!村主、お巡りさん達も山に向かわせてくれ!」

 耳に何か叫び声のようなものが聞こえたけど、構わず俺は携帯を切った。即座に鳴り出す携帯の電源も切ってしまう。

  《電源まで切っちゃって、いいの?》

「構わないさ。どうせ山の中じゃ圏外だし。着信音で岩本に気付かれるとまずい」

  《そうだね。それじゃ、行こう!》

「おう!…っとその前に必要な物を買い揃えよう」

 俺はコンビニに向かう。大して入ってない財布を握りしめて。





 自転車のライトでドライブウェイを照らし、真っ暗な山を必死に登る。他に光は僅かな月明かりと細い三日月だけ。

 途中、後ろからパトカーや白バイが来る音にツキノワが気が付いた。急いで道を外れて茂みに隠れ、やり過ごす。警察を信じていないワケじゃないけど、警察犬以上の追跡能力を持つツキノワを足止めさせるわけにはいかない。ツキノワは、痛みはとっくに引いてるけど、山を走らせて体力を浪費させるわけにはいかない。何より、家でじっと警察の捜査を待つなんてできない。

 ロードレーサータイプの自転車でも坂を上り続けるのは辛い。いままでずっと町を走り続けてきたんだ。くそ!村主みたく体を鍛えてれば、こんな苦労はしないのに。バイクでもあれば、あっという間に

  《愚痴はよそう。今は追跡に集中した方が良いよ》

「…だな。ヒィ、ヒィ・・・だ、ど、どうだ。臭いは」

 ツキノワの嗅覚に意識を向けたいが、自転車をこぐので精一杯だ。余計な事を考えると転びそうな気がする。そのツキノワはと言えば、前カゴから体を伸ばし、空中の臭いをしきりに嗅いでいる。

  《おかしい、おかしいよ》

「おかしい?って、な、なにが」

  《さっきから、臭いが濃くなったり薄くなったりしてるんだ》

「濃くなったり薄くなったり…?」

  《なんだか、道を行ったり来たししてるみたいなんだ》

「道に、迷った、のか?いや、あいつも、この辺の地理に、は、詳しいはずだ」

  《そうなんだ、おかしいよね?》

「道を知ってるのに、行ったり来たり、する・・・あ!」

 俺の頭に一つの考えが閃く。同時にツキノワの耳もピンと立つ。

  《それだよ!確かめるから、自転車を坂の上で止めて!》

 必死にペダルを踏みしめて坂を上り続ける。そして町が一望出来る峠でとまる。ここからなら広大な公園も大部分を視界に収めれる。もちろん今は月と星の明かりしかないので人間の目では真っ暗だ。

 だが、ツキノワの耳に光は関係ない。黒い体が自転車を飛び降り、近くの木の上へ駆け上る。木の枝の上に座ると、三角の耳をピコピコあちこちへ動かす。俺は前カゴに放り込んでいたペットボトルからスポーツ飲料を一気のみ。そして呼吸を整え、意識をツキノワの聴覚へ向ける。大分疲れてたけど、すぐに意識の焦点を合わせれた。とたんに甲高い音があちこちから聞こえてくる。

「これが猫の耳か、高い音がよく聞こえるなぁ。なんか、頭が痛くなりそうだ」

  《僕だって浩介君の耳は低い音が多すぎて大変だよ。それにしても、やっぱり予想通りだったね》

「ああ、間違いない。…岩本め、逃げ回ってるな」

 車の音が聞こえる。

 三角の耳があっちこっちを向くたびに、幾つものエンジン音が移動していくのが聞こえる。

 町の方じゃなくて、森の向こうから、何台もの車の音が聞こえてくる。そしてサイレンの音も。どこかへ集まっていく様子はないけど、俺も知らないような道も走って捜索いるらしい。目をこらすと、森のあちらこちらに光るヘッドライトが道に沿って移動し続けている。

「もともと警察だって、山に逃げ込む事は考えていたはずだ。多分、森の向こう、隣の県からも警察の車が来てるんだ。オマケに俺たちが山に入ったから、俺たちを捜す車も入ったはずだ」

  《そうだね。だとすると、もう掴まってるかな?》

 ツキノワの耳は相変わらずクルクルと動いて、音を拾い続ける。その音は変わらず集まる様子はない。森を離れるような様子もない。

「多分、まだだな。でも、これだけのパトカーが走ってる、どこかに追い込もうとしている。なのに掴まってない。ということは」

  《だね。おそらく道路を外れてるんだよ》

「予想ではジープみたいな車に乗ってる。河原とか森の奥に行ってるかもしれない。パトカーが入れないような。となると、警察犬を放っての山狩りか…こりゃ、警察に任せてると時間がかかるぞ」

  《よーっし!臭いの特に強い所を探すよ》

「ああ!その近くに、舗装されてないような山道があるはずだぜ!」

 ツキノワはスルスルと木を降りてきて、自転車のカゴに飛び乗る。俺は気合いを入れ直し、再び自転車をこぎ出した。あとはしばらく下りが続くから楽だ。新品の自転車が風を切って走り出した。





 その頃、同じ国立公園の山林。ツキノワと浩介がいる峠とは別の場所。

 道路脇の茂みに身を隠し、パトカーをやり過ごしている男がいた。

 ヘッドライトの光の輪が通り過ぎ、車が遠ざかるのを確認してから森の奥へ歩き出す。だが、暗闇の中で木の根に足を取られて転んでしまった。

「ち、畜生…!」 

 小さく悪態をついてから立ち上がり、道路に他の車が着ていないのを確認してから懐中電灯を点ける。光に男の不景気な痩せた顔が浮かぶ。そして額には生々しい三本の傷が走り、手には牙が突き立った穴が開いている――岩本真澄だ。彼はライトの光を頼りに森の奥へと歩いていった。しばらく道路から見えていた小さな光も、木立に隠れ見えなくなった。


 岩本は森の斜面を下り、河原に出た。小川に沿って森がわかれ、枝の間から星と月の明かりが清流に降り注ぐ。水面が僅かに輝いている。だが岩本の顔は陰気極まりない物だった。

 何度も河原の泥に足を取られ、濡れた岩で滑り、木の根に引っかかって転んだ。懐中電灯の光だけでは、足場の悪い河原を歩いて移動するのは困難だという事実を思い知らされていた。

「くそっ!くそっくそっ!どいつもこいつも、俺をバカにしやがって!」

 誰に言う出もなく岩本は毒づく。多分、彼の人生で出会った全てに対する呪詛なのだろう。それでも彼は、ズボンとジャンパーを汚しながら河原を歩く。そして少し開けた場所に出た。

 そこには黒い小型のRV車があった。ドライブウェイから林道に入り、斜面を下って河原まで下りてきていた。今が昼間なら、あちこちにバーベキューをした跡の焦げた石、空き缶とかが見れただろう。だが夜なので全ては闇に包まれていた。ライトの小さな光の輪が照らしているのは、休日を山の中で楽しむ家族の痕跡ではなく。閉じられた車のドアだった。

 扉のロックを外し、ドアを開ける。中から女の子のくぐもったうめき声が漏れてくる。それはガムテープで口を塞がれた紗理奈の声。誘拐犯は椅子を前にずらし、狭い車内に腕を伸ばした。

「出ろ」

 だが紗理奈は動けなかった。両手はガムテープで後ろ手にとめられ、両の足首も同じくガムテープがガッチリと巻かれていた。そしてその状態でも男の手から逃れようと、必死にもがいて後部座席の隅へ逃げる。

「さっさと出ろ!」

 持っていたライトを置き、車内に体を潜らせる。そしてセーラー服の襟を乱暴に掴む。そのまま力任せに引きずり、地面に放り出した。地面に落ちたライトの光に紗理奈の小さな体が照らされる。背中までかかる長い髪を振り乱し、目は泣きすぎて赤くなり、頬にも涙のあとが浮かんでいる。全身が汗で濡れている。細く引き締まった足をばたつかせ、少しでも岩本から距離をとろうともがいてる。助けを呼ぼうと塞がれた口からくぐもった声を上げる。

 岩本は、ジャンパーのチャックを下ろし、内ポケットに手を入れる。そして取り出したのは、鞘に入った刃物。見せつけるようにゆっくりと鞘を外す。背の部分にノコギリの様なギザギザが入ったナイフ、サバイバルナイフだ。

「おお、大人しくしろ。殺すぞ」

 岩本はしゃがんで、少女の細い首筋にナイフを突きつける。とたんに小さくて細い体が硬直し、ついで細かく震え出す。

 怯える紗理奈姿を見下ろし、岩本は醜く口の端を釣り上げた。

「いっとくけどよ、へ、へへ、脅しなんかじゃないぞ。お、俺は、もう、全部、終わっちまったんだ」

 吐き捨てるように自分の人生を呪う岩本は、冷たいナイフをひたひたと少女の白い肌に押しつける。そのまま汗で濡れる肌の上を、下にゆっくりずらしていく。

「間抜けな上役の尻ぬぐいばかりさせられて、そんなクソみてえな仕事も、俺一人に責任を押しつけて、辞めさせられて…」

 昔の仕事への不満を吐き捨てながら、右手のナイフをセーラー服の襟に押しつける。そして左手は服を握りしめる。首を振って嫌がる少女の抵抗を無視して、ナイフは一気に下へ走った。布を切り裂く音と共に、セーラー服もシャツも前開きに切り裂かれる。白いブラジャーが露わになる。

「ひ!ひひひっ!き、綺麗じゃ、ねえかよ!やっぱモノホンは違うぜ!」

 興奮で目を見開く男の姿は、狂気すらはらんでいた。いや、全てを失い未来に希望を無くしたからこそ狂気に走れる。こんな自暴自棄ができる。目の前で涙を流して恐怖に震える少女を見て、笑う事が出来る。

「ひひひっひひ…どこにも、居場所なんかなくて…ひひ!みんなして俺をバカにしやがって!」

 恐怖でじっとりと汗に濡れた肌を、ゆっくりと刃が下へ滑る。紺色のスカートがナイフの先に引っかかる。

「そして…お前ンちの猫だ!」

 鉄の刃がやすやすと布を切り裂く。濡れて肌に張り付いたピンクのショーツもライトの光に照らされてしまう。

「お、お前の家の黒猫が、警官なんか連れてくるから!俺はブタ箱で臭いメシを食わされたんだ!何がツキノワだ!天才猫だっ!」

 紗理奈は必死にもがき、あがく。うめき声を上げる。そして涙が溢れる目が、それでも岩本を睨み付ける。その目を見た男は、表情を瞬時に歪んだ笑みから歪んだ怒りへと塗り替えた。

「んだぁ…?そその目は、な、何だよ。殺されてぇのかよ!」

 ショーツにかかろうとしていたナイフが大きく振りかぶられる。紗理奈は思わず目を閉じ、体をすくませる。

 だが、ナイフは振り下ろされなかった。代わりに、胸元に冷たく硬い感触が押しつけられる。

「ししし心配すんな…ちゃんと、後で殺してやる。ひへへ、こんだけの事をやったんだ…俺は、もう死刑かもな。・・・まぁいいや、このまま生きてたって、何にも良い事なんかないんだからよ」

 人生を捨てる言葉を漏らしながら、ナイフが軽く動いた。ブラジャーが胸の真ん中から左右に分かれてしまう。少女は恐怖余り、もう動く事も出来ない。ただ細かく震えるばかり。

「い、いいぜ!いいぜいいぜ!ひひゃはぁっ!死ぬ前にやってみたかったんだよ、こういうの!可愛い顔してたって、お、お前もホントは興味、あるんだろぉ?」

 薄汚い欲望に身を委ねながら、ナイフは再び下へ行く。そしてピンクのショーツへと刃をかける。

「さぁ、夜は長いんだ…せいぜい楽しもうぜぇ…」



「そうだな、楽しもうぜ!」



 男の背後から声がした。

「なっ!誰だっ!」

 慌てて体を起こした岩本が叫ぶ。

  ブスッ

 その岩本の首筋に爪が突き立った。

 首筋の痛みを感じるより早く、爪が首を走る。

 今度は四本の傷が首に現れた。同時に何かの影がライトの光を横切り、森の闇へと消える。

「…あ?」

 立ち上がった岩本は、左手で自分の首を触る。手には生暖かい液体がベッタリとついていた。首から流れ出した血が、ジャンパーを濡らしていく。

「あ…あ?ああ、うわああっっ!」

 悲鳴を上げる岩本の耳元で、何かが風を切った。

 背後で車のドアが衝撃音をあげる。

「ひ、ひあっ!」 

 腕で頭を庇おうとした岩本の腹に、こぶし大の石がめり込んだ。

「ぐはぁっ!」

 今度は腹を押さえて前屈みになった岩本の背を黒い物体が駆け上る。一瞬で男の肩の上に乗ったそれは、再び首筋に爪を立てた。


 男の悲鳴が森に木霊した。





「やったぞ!ツキノワ!」

 俺は石を握る右手でガッツポーズ!そしてさらにパニックを起こす岩本めがけて石を投げつけた。ガツッと鈍い音を立ててヤツの肩に当たる。さらに体を縮めた岩本がナイフを落とした。

  《トドメだよ!》

「うぉおりゃあぁっ!」

 俺は渾身の力を込めて走り出す。そして岩本の直前でジャンプ!

  ドコッ!

 俺のドロップキックが見事に命中した。

 ヤツの体が後ろへ吹っ飛んでいく。そして車にぶつかり、そのまま地面にうつ伏せで倒れ込んだ。俺は即座に体勢を立て直し、頭を振って立とうとする岩本へ駆け出す。

  ズムッ

 鈍い音がした。俺の前蹴りがみぞおちにめり込んでる。ヤツ本は呼吸が止まり、前屈みになって腹を押さえる。声も出ないほど悶絶してる。

 そのまま膝から崩れ落ち、嘔吐しだした。鼻を突く酸の臭いが漂い出す。


 同時に、俺もしりもちをついてしまった。

「ひぃへあぁ〜…もう、ダメだぁ。動けないぃ〜」


 ダメだ、本当に限界だ。

 夕方から今まで、ツキノワを乗せた自転車で町から山まで走り抜いたんだ。もう、足がガクガクだ。坂道でブレーキを握りすぎたせいで、握力もほとんど残ってない。呼吸は苦しいなんてもんじゃない、ヒューヒューと聞いた事もない音が喉から出てる。思わず大の字でひっくり返ってしまう。

  ん〜んむぅ〜!

 紗理奈がくぐもったうめき声を上げていた。すぐに助け起こしたいが、体が言う事を聞いてくれない。震える手で、必死に体を起こす。けど腕に全然力が入らなくて、なかなか起こせない。

  《大丈夫、大丈夫だよ。紗理奈ちゃん、助けに来たからね!》

 俺の頭に紗理奈を励ますツキノワの声が届く。見た目にはニャーニャーと鳴く黒猫が女の子の頬に頭をすりつけてるだけだ。けど俺にはツキノワが本当に紗理奈の無事を見て安心した声が聞こえてる。

 ようやく起きあがった俺は紗理奈の所まで重い足を引きずっていく。学生服のポケットからコンビニで買ったカッターナイフを取り出し、妹の手足を縛るガムテープを切り裂いて、口を塞ぐテープもひっぺがした。

「あ、兄貴ぃ…ツキノワぁ…」

 ようやく自由になった紗理奈が体を起こす。ライトの僅かな光に浮かぶ俺とツキノワを見つめてる。その目は真っ赤で、ボロボロと大粒の涙が溢れだしていた。

「だ、大丈夫だぞ、紗理奈。た、助けに、きたからな」

 俺は力を使い果たした腕で、何とか紗理奈の細い肩を抱き寄せる。ツキノワも妹の細い足に体をすりつける。

「う、うう、うわああんっ!ひう、うわあ、あああああんっ!」

 紗理奈が俺とツキノワを一緒くたに抱きしめた。大声で鳴き声を上げる。何度も何度も嗚咽する。俺も言葉が出てこない。安堵の余り、さらに全身の力が抜けていく。

 しばらくの間、夜の闇に包まれた暗い森の中に、女の子の泣き声が響いた。


 紗理奈がようやく泣きやんだ頃、俺と紗理奈の体に挟まれて狭い思いをしていたツキノワの耳がピクリと動いた。同時に俺は抱きついてくる紗理奈の体を、ゆっくりと放す。そして必死に力を振り絞り、どうにか立ち上がった。

「…あんた、しつこいな」

 俺は紗理奈の方を向いたまま、背後へ声をかけた。

 ツキノワが全身の毛を逆立てて、俺の後へ牙をむく。

 拾ったナイフを手にして立ち上がる岩本へ。

「ふ、ふざけんじゃねぇ!が、がが、ガキとネコなんかにまで、これ以上、コケにされてたまるかぁっ!」

「勝てると、思ってるのか?」

 俺は振り返らず、岩本に背を向けたまま問いかける。

「くひひ…見てたぜ、さっきから、お前、もうヘロヘロじゃねえか。俺の車を追いかけて走り回ったんだろ?」

「まぁな。夕方からずっと自転車で走り回ってた。正直、もう歩くのも難しいぜ」

「ひゃっはぁ!だったら、もう逃げる事もできねえな!猫の不意打ちも、もう俺には通じないぜ!」

「ああ、逃げねーよ」

 俺は事もなげに言い放つ。

「あ、兄貴ぃ…?」

 目の前で、敵に背を向けたまま動かない俺の姿に、紗理奈が不安げに見上げてくる。

 そして岩本も、背を向けたままで全く怯まない俺の姿に怒気を増し始めた。

「こ、このガキぃ…なめやがって!切り刻んでやるっ!」

「どうやって?」

「なっ?何を言ってやがる、このナイフでに…」

 岩本の言葉が途中で止まった。

 そりゃ、止まるだろう。

 だって、真っ暗な森の中で俺たちをボンヤリと照らしてた地面のライトを、ツキノワがパクッとくわえてトトト〜と走っていったから。そして俺の足下に落とした。俺は、重い足を持ち上げる。

  バキャァッ!

 全体重をかけて下ろされた俺の足の裏で、ライトが土にめり込んで壊れた。


 その瞬間に森は闇に包まれた。残る光は頭上の木々をすり抜けてくる僅かな星と月。人間の目ではほとんど何も見えない。まして黒猫のツキノワや黒い学生服を着た俺は、完全に闇に溶け込んでしまう。


 岩本はおろか、紗理奈まで仰天しているのが、一瞬詰まった呼吸の音だけで良く分かってしまう。

「で…どうやって?」

 俺はもう一度聞く。全てを覆い隠す漆黒の中、声だけが響く。

「な、何をしやがる!ライト壊したら、お前もなんにも見えないだろうが!」

「何にも見えない…ねぇ」

 足の下で砕けたライトのグリップ部分を拾い上げる。そして振り向いて、投げた。

 真っ暗な闇を貫き、闇の中でオロオロしている岩本の辺りでバキッといい音を立てる。

 ヤツの額にクリーンヒットした音だ。

「なっ!こ、この!」

 闇の中に風を切る音がする。ナイフをメチャクチャに振り回してるんだ。

 俺は慌てる事もなく、河原に転がるゴルフボールくらいの大きさの石を拾い上げた。そして軽く振りかぶり、投げた。

 石は風を切り、ヤツの後頭部をかすめて飛んでいった。その先で川に石が落ちる水音がする。

「ちっ、惜しい」

「な!何でだ!暗視スコープか!」

「んなモン買う金ねーよ。いらねーし」

 言いながらも俺は続けて更に数個、こぶし大の岩を投げる。ガッとかドゴッとか鈍い音が立つ。人間の体に命中する音だ。

「ひいいっ!」

 悲鳴を上げて岩本は走り出した。だが、その前にある物は暗いので見えていない。

「おい、そこ木が立ってる」

 と、俺が忠告している間に、ヤツは木の幹に顔面から激突した。鈍い激突音と木を揺らす音と、惨めな中年男の悲鳴が協奏曲を奏でてる。

「ん、なバカな!なんでそんなに見えるんだ!」

「一つ忠告。ナイフは月明かりで光るんだ。よく見えるぜ」

「ぅあっ!」

 慌てて岩本が右手に握りしめていたサバイバルナイフを放り出した。少し離れた茂みの中に飛んでいくのが見える。


 正しくは、俺の足下に座るツキノワの視界に映っている。

 そしてその映像は俺の頭にも届いていた。

 人間の目には暗黒でも、ネコの目には月に照らされた明るい森だ。


 そして、俺達の目には無様に四つんばいになって逃げ出そうとする誘拐犯の姿が見えていた。

「さて、ツキノワ」

  《うん。やろうか》

 俺たちはゆっくりと、妹を掠った憎き犯罪者へ歩いていく。

 岩本は俺たちの足音から遠ざかろうと立ち上がったが、今度は河原の岩に足を取られて転んでしまった。


 暗い森に男の悲鳴が響き渡った。





 車のヘッドライトが森を照らす。ヤツから奪ったキーで車のライトを点けた。

 ボコボコのズタズタにされた岩本から、ジャンパーもズボンもはぎ取った。靴も川の中に投げ捨てた。最後にコンビニで買ってたビニールテープでぐるぐる巻きにした。これで動けないし逃げられない。あとは警察を呼ぶだけだ。

 紗理奈に着せた学生服の上着のボタンをとめてやる。だぶだぶで袖も余りまくりだ。

「これでよし…と。大丈夫か?」

「うん、ありがとう、兄貴」

 紗理奈の手も体も、いまだに小刻みに震えてる。そのせいで自分ではベルトもボタンも留められなかったんだ。俺は岩本から奪った服を着てる。ヤツの血で汚れた服なんて紗理奈には着せられないから。

  《これで一件落着だね!やったね浩介君!》

「ああ、お前のおかげだ。頑張ったな、ツキノワ」

 俺と妹の間にチョコンと座るツキノワがニャンッと元気になく。

 対する岩本は下着姿で地面に転がされたまま、いまだに「くそ…畜生」と呟いてる。

 それを聞いた紗理奈が、ギロッと無様な犯罪者を睨み付けた。

「こぉんの野郎ぉー!」

 いきなり叫ぶや小さな体が駆け出して華麗にジャンプ、勢いをつけて体重を乗せた両足で岩本の体を踏んづけた。潰れたカエルのような悲鳴が上がる。さらにそのまま、もの凄い剣幕で蹴り飛ばし続けた。

「このこのっ!こんのこのお!このこのこのこのこのこのぉっ!」

「ひぃぃっ!た、助けてくれぇっ!」

 岩本の命乞いは無視された。小さな紗理奈の体のどこにそんなパワーがあるのか、というくらい凄い蹴りがヒットし続ける。

「さすがにやりすぎな気も…」

  《止めるの?》

「まさか」

 男の悲鳴と妹の怒声が広がる暗い森。

 坂の上から人の声がする。森の向こうから懐中電灯の光が近づいて来るのが見えた。車のライトや俺たちの声に気付いた警官達がやってきたんだ。





 静かだった町も、平凡だった俺の生活も一変した。

 俺も紗理奈もパトカーで国定公園近くの病院へ送られた。そこで警官達から色んな事を根掘り葉掘り聞かれた。岩本は署に送られ、取り調べを受けている。紗理奈は女性警官達から慰めやらなんやら受け、体に異常も怪我も無い事が確認されたので、次の日には無事に退院できた。

 でも俺はダメだった。何故なら、全身筋肉痛で立ち上がる事もハシを握る事も出来なくなったから。そのまま筋肉痛が治まるまで、しばらく入院しなくちゃならなかった。その間は紗理奈が看病してくれる。中学は学校側が気を使ってくれて、一週間ほど休みということになった。なので、退院するまで泊まり込みで世話を焼いてくれるという。

  《家で一人きりになんかなれないのかも》

 そんなツキノワの声が届く。俺もそう思う。あんな目に遭ったんだ、怖くて一人になんかなれないだろう。いや、本当に一人きりだったら、まだマシだったかもしれない。でもそうじゃなかった。

 俺達の家は、マスコミと野次馬に包囲されていたから。


「今日も外がうるさいわね」

 入院も三日目、病院最上階の個室で、紗理奈はブラインドの隙間から外を覗く。下には三角のコーンと脚立とカメラマンが並んでる。だがこれでも、初日に比べれば減った方だ。携帯は、俺も紗理奈も、もう鬱陶しいので電源から切ってある。面会だって謝絶だ。それでもコッソリ侵入しようとした連中が、片っ端から看護師さん達に掴まって放り出されてるようだ。

 俺はベッドに寝たまま床頭台のTVを点ける。時間は午後の情報番組を放送してる時間帯。そして、いまだに『お手柄高校生!』『伝説の天才猫はどこ?』『家族愛が起こした奇跡の救出劇』なんてテロップが流れてる。『猫の進化と生態について』と講義する学者もいた。

「まだ飽きないんだな」

「しょうがないわよ。ホント、世界中を駆けめぐるほどの有り得ない話なんだから」

 紗理奈は山と積まれたお見舞いの品からリンゴを取り出し、シャリシャリと器用に果物ナイフで剥き始める。

  《そうだね。おかげで僕もまだまだ家に帰れそうにないよ》

 遠くからツキノワの思考が届いてくる。


 本当にその通りだ。

 警察の緊急配備を上回る速度で追跡し、真っ暗な森で自由に動き回り、犯人を捕らえ妹を救出した兄と、警察犬を超える猫。人間の命令に従う、というだけでも猫の生態から有り得ない。そのうえ飼い主を守るために犯人に立ち塞がり、臭いを追い、飼い主の兄と連携攻撃を加えたというのだ。これが全て本当なら新種の猫だ警察猫軍用猫の誕生だ、と生物学会まで含めて騒ぎになった。

 岩本の証言から警察もツキノワの戦いぶりを知った。もともとこの町の警官はツキノワの存在を知っていた。だけど、それが警察庁や警視庁(未だに違いが分からないけど)にまで知れ渡ったよ…と、話を聞きに来た刑事さん達が話してた。生物学者さん達まで会いたいって電話してくるそうだ。

 病院の人達が余計な電話と面会をシャットアウトしてくれる俺たちは、まだいい。町はもっと凄い事になってる。篠山のHPはヒット数がうなぎ上り。TVのレポーターやら記者やらが町中を走り回ってツキノワの情報をかき集めてる。そこで明らかになるのは、絶対に猫じゃないと断言出来る大黒猫の姿。あまりに猫からかけ離れていたため『常識的に有り得ない』と決めつけられ、存在を無視され否定されていたツキノワの存在だ。ツキノワの写真を撮ろう、捕まえよう、DNAを採取しようという連中が、野次馬の群れまで含めて押し寄せてる。


  《ホントに冗談じゃないよ!僕はうるさいのは大ッ嫌いなんだから!》

  《はは、そういう所はやっぱり猫なんだな》

  《猫じゃなくたって逃げるよ、こんなの》

  《ま、人の噂も七十五日っていうし。しばらくは山で我慢だなぁ。俺もマスコミは相手にしないことにするよ》

  《あ〜あ、早く静かにならないかなぁ》

 頭にはツキノワのぼやきが聞こえてくる。

 町がこんな有様じゃ、ツキノワは危なくて町にいられない。人前に出れば間違いなく捕まえられて研究所送りだ。掴まらなくても、カメラのフラッシュが大量にたかれる。ツキノワの視界を見て分かったけど、カメラのフラッシュはまぶしくて目が潰れそうになる。調べたら、猫の目はフラッシュを受けると失明する事もあるらしい。どうりでカメラが嫌いなわけだ。

 そんなわけで、ツキノワは今は山に隠れてる。病院裏に広がる、広大な国定公園の森。見つかる事はないだろう。


  コンコン

 ノックの音が響いた。

  ニャオー入ってええかー

  沢渡君、こんにちわ

  えっと…お見舞いに、来たよ

 扉の向こうから聞こえるのは。村主と尾野と、控えめな篠山の声だ。俺が答えるより早く紗理奈が出迎えた。

「いらっしゃーい」

 扉から入ってきたのは制服姿の三人。村主と尾野は普段通りだが、篠山はかなり遠慮がちだ。一番に篠山が頭を下げた。

「あ、あの、もうHPは閉鎖したから。もう二度とツキノワの事は書かないから…ホントにゴメン!」

 謝られても、別に篠山が悪いワケじゃないと分かってはいても、なかなか納得は出来ない。俺も紗理奈も白い目で見てしまう。

「あの…私からも謝ります。どうかしのちゃんを許して下さい」

 そういって尾野も頭を下げる。さすがに紗理奈と顔を見合わせて困ってしまう。

 村主のごつごつとした右手が篠山のショートヘアーをグリグリと上から押さえつけた。

「ま、このアホも反省しとるんや。ツキノワの存在が明らかになってもうたのも残念やけど、まぁしゃーないやろ。いずれは公になってまうことやったやろし、許したれや」

 こういう時は村主の威圧感は有利らしい。その迫力で俺も紗理奈も頭を上下させざるを得なかった。

 紗理奈が椅子と切り分けたリンゴを勧めながら、話を変える。

「ところでさ、よく何事もなく入って来れたわよね」

「ああ、職員用裏口使わしてもろた。帰りも気ィつけへんとな」

「学校の方は、少しは静かになった?」

 どっしりと座った村主は顔をしかめて左右に振る。代わりに隣の尾野がウンザリした様子で話し出した。

「ダメだよぉ…学校はまだ沢渡君達の話でもちきりだよ。興味本位でツキノワちゃんと沢渡君達のことを聞き回る人も沢山だしぃ」

 端の席に小さくなって座ってた篠山もしゃべりだす。

「興味本位ならまだいいわよ。どうみても学者か研究者って人達も、沢渡君の家の周りをうろついてるわ。ツキノワの毛を探し回ってるんでしょうよ。DNAを解読する気ね」

 その言葉に、もう一個リンゴを剥き始めた紗理奈も溜め息をつく。

「はぁ…これじゃツキノワはしばらく帰って来れないね。もし帰って来たら、間違いなく今度はツキノワが掠われるわ。そして解剖…あーヤダヤダヤダ!」

 解剖、と言う言葉を聞いて、俺も血の気が引いてしまう。


 研究者達がもしツキノワを捕まえて解剖なんかをしたら、俺は死ぬ。

 比喩とか何とかじゃなく、間違いなく死ぬ。

 岩本がツキノワを投げた時、ツキノワが感じた激痛を俺も受けた。

 もし研究者が、ツキノワの体にメスを入れるとかしたら…

 考えただけで恐ろしい。


 俺の顔が強張ったのを篠山が気が付いた。

「あ、あのさ、それで…ツキノワは今、どうしてるの?」

 見舞いの三人が俺たち兄妹を見る。紗理奈は困った顔で俺を見る。

 俺は曖昧に笑った。

「町が静かになったら、ひょっこり帰ってくるよ」

「ホント?」

 紗理奈が沈んだ顔で尋ねる。

「ああ、ホントさ」

「ホントに、ホント?」

「間違いないよ。保証する」

 その言葉に、紗理奈は少しだけ頷く。不安を残しながらも納得したようだ。

 少し目を閉じてツキノワの視界へ意識を移す。すると、俺たちがいる病院の辺りが見えた。どうやら山の上から見下ろしているようだ。

  《紗理奈ちゃん、心配してるね》

  《ああ…早く会わせてやらないとな》

 ツキノワとテレパシーで繋がってる事は紗理奈にも言ってない。さすがにそれだけは言えない。紗理奈を信じてないわけじゃないけど、これは俺とツキノワの切り札だ。


「なあ、篠山」

「え?な、何?」

 いきなり話を振られた篠山が伏し目がちに答える。相当に今回の件はこたえたんだろうな。こんなに気弱な姿は初めて見た。

「報道とか、ネットはどうなってるんだ?」

 この質問に、篠山は見るからにしかめっ面。

「も、最悪よ!

 一応、TVでは未成年ってことでニャオ達の名前も伏せられてるし、顔も映されてないわ。でも、ツキノワの写真は思いっきり出回っちゃったわよ!学校や家の映像もTVに流れたわ。

 ネットはもっと酷いわよ。ネットオークションじゃ、ツキノワの毛が売り出されてるわ。しかも高値が付けられてるの!もちろん本物かどうかわかんないけど。ツキノワを載せたHPやブログも沢山現れたの。中には私のHPから閉鎖前にコピーしたデータをそのまま載せてるのも…その…」

 だんだん篠山の声が小さくなる。聞いてる俺と紗理奈も気が滅入る。

「家…帰れるかな?」

「止めた方がいいかも。荷物だけ取って、どこかにほとぼりが醒めるまで隠れてるのがいいわよ」

 俺も紗理奈も顔を見合わせて、同時に大きな溜め息をついてしまった。

「父さん達が帰ってくるまで、しばらく入院させてもらうか…」

「そうね…どこかの政治家の気分だわ」

 リンゴをつまみながらそんな話をしていると、病室の外から駆け足が聞こえてくる。その音はだんだん大きくなり、この病室前まで来た。そして、ノックもなしにいきなり扉を開け放った。

「紗理奈ぁ!浩介ぇっ!」

「さ、紗理奈ぁ!ぶ、無事なの?」

 現れたのは、すっかり日に焼けて黒くなった親たちだった。日本から連絡を受けて、大慌てで帰ってきたんだろう。

「あ、父さ」

「紗理奈あーっ!すまん!俺たちがほったらかして旅行なんかに行ったばっかりに!」

「よ、良かったわ紗理奈!無事で、ホントに無事でよかったわぁ!」

 紗理奈の言葉を待たず、二人とも紗理奈に抱きついた。安堵のあまり涙を浮かべてる。

 村主達は黙って一礼し、部屋を後にした。ただ、村主は俺にメモを一枚こっそり俺に手渡した。メモには「ツキノワのエサと寝床、ちゃんと山に置いてるから安心しろ」と書いてあった。俺はツキノワのご飯とかを村主に頼んであった。





「それじゃ、お前達の服を取りに帰るからな」

「うん、父さんもマスコミに気をつけてね」

「ああ、お前達もな」

 夜。父さんは俺と紗理奈の服を取りに行く。病院を出た瞬間からマスコミに包囲されるのは間違いない。なんでも空港からここまで来る間も、ずっと付きまとわれたそうだ。

 母さんはベッド横のバッグから洗濯物を取り出してる。紗理奈は風呂へ行ってる。

「少し痩せたね」

「ええ。何しろ父さんに散々引きずり回されたもの。タイをぐるっと巡って、バンコクから電車でアランヤプラテート行って、国境を歩いて渡ってカンボジアに入って、ボロボロの乗り合いバスに乗ってシェムリアップへ・・・」

 疲れた声で聞いた事もない地名を並べる。でも楽しそうに旅の話をする。父さんが前から「一度はやってみたい」と言ってたバックパッカー旅行は、想像以上にハードだったんだろう。母さんが着ているTシャツもジーンズも、かなりブカブカになってる。

 ベッドに寝て天井を見上げながら、俺は母さんに尋ねてみた。

「なぁ」

「なあに?」

「俺とツキノワ、どこで出会ったんだろう」

 一瞬、母さんが息を詰まらせた。見ると、その背は強張ってる。

 少しの間、沈黙が流れる。

 そして、ゆっくりと口を開いた。

「さぁ…分からないわ」

「分からない?」

 母さんは洗濯物を畳みながら答える。

「だって、ツキノワを拾ってきたのは浩介だもの。どこで出会ったのか、知ってるのは浩介だけよ」

「俺、覚えてないよ。覚えてるのは交通事故の時に抱きしめていたのが最初」

「その前は?」

「全然記憶にない」

「そうでしょうね。凄い大怪我だったから。その前後の記憶もかなり飛んだでしょ」

「う、ん…まぁ、ね」

 確かに事故以前の記憶はほとんど残ってない。どれもこれもおぼろげだ。

 俺は額の傷を触ってみる。それは今も変わらず俺の額を貫いてる。

「なぁ、この怪我ってさ。どれくらい深かったんだろ?」

「どれくらいって…?」

「今まで、大ケガだったとは聞いたけど。詳しく言うとどれくらい?」

 母さんは、やっとこっちを見た。洗濯物を置いて、ベッド横の椅子に座る。そして、俺の額の傷を右手で撫でる。

「脳まで達していたわ」

「なっ!」

 思わず絶句してしまう。母さんは傷を撫でながら、かなりショッキングな内容を語り続ける。

「正しくは硬膜も、くも膜も破れて、脳が見えちゃうような状態。浩介もツキノワも、同じくらいの傷だったわ。何の異常も後遺症も残さず回復したのは幸運だったって、医者も言ってたわ」

 寒気がしてくる。生死の境をさまよう大ケガだって聞いてたけど、まさかそこまでだったなんて!

「す、凄いなぁ…いったい、どうしてそんな事故にあったんだろう」

 なんの気なく聞いた事だったけど、そういえば、どうしてあんな事故に遭ったのか詳しく知らない。車が雨でスリップしたとしか聞いてない。

「どうしてって…またいつか教えてあげるわ」

「あ、いや、出来れば教えて欲しいんだけど」

 母さんは真面目な顔で俺の顔を見据える。

「いまだに、夜はうなされてるんでしょ?」

「あ、うん、まあ、たまに」

「なら、今は事故の事は気にしないのが一番よ。退院して、マスコミも消えて、ツキノワだって帰ってきて…いつか事故の事を思い出しても平気でいられるようになったら詳しく教えてあげるわ。」

 俺としては今すぐ教えて欲しかった。でも、母さんの張りつめた雰囲気はこれ以上の質問を許すようには見えなかった。

 母さんは誤魔化すように窓の外を眺める。俺も母さんの視線の先にある町の灯を見る。

「ツキノワ、帰ってきたら一杯可愛がってあげないとね」

「そだな、カツオブシとかホッケとか、沢山食わせてやらないとな」

「そうね。早く会いたいわ」

 そんな話をしていると、扉がガラリと開いてパジャマ姿の紗理奈が帰ってきた。手にはお湯の入った洗面器とおしぼりがある。

「戻ったよー。それじゃ、兄貴の体拭くわね」

「お、おい、いいよ。もう自分で出来るよ」

「ダーメ!病人は大人しくしてなさい!」

「病人って、ただの打ち身と筋肉痛だぜ。もうほとんど治まってるし」

「うっさいわね!さっさと服を脱ぎなさい!」

 紗理奈もすっかり以前の調子を取り戻した。おかげで俺はタジタジ。そんな様子を見て母さんはクスクスと笑っていた。 





  《なぁ、ツキノワ》

  《ん?》

 病棟の消灯後、俺はツキノワに語りかけた。

 ベッドの横では簡易ベッドに紗理奈と、今夜は母さんも寝てる。二人を起こさないように、そしてツキノワとの会話を独り言としてでも聞かれないように頭の中だけで会話をする。

  《母さんの話だけど…》

  《うん、僕も気が付いた》

  《ああ。母さんはウソをついてる》

 ツキノワとの出逢いについて尋ねた時、母さんは背を強張らせた。何かを隠そうとしたんだ。

 窓を見ると、街の光が見える。この窓は南向きで、山は北側。だからツキノワのいる森は見えない。ま、姿が見えなくてもツキノワと話せるし、視覚から居場所も分かる。おかげで俺もツキノワも寂しくない。

  《恐らく、ツキノワと俺が出会った経緯を聞かせたくないんだろうな》

  《もしかしたら、そこに僕の秘密があるのかも》

  《そうだな…俺たちがテレパシーで繋がってる理由も、きっと分かる》

 

 俺は病院にいる間、ツキノワに「結局、お前は何者なんだ?」って尋ねた。

 答えは、僕にも分からない、だった。

 ツキノワの最初の記憶は、例の交通事故。俺が夢に見た映像だ。

 意識を取り戻した時、ツキノワの頭に囁くような声が時々聞こえてきた。それは俺の声だったそうだ。

 お互い怪我が治り、普通に生活が出来るようになった頃、俺の声はますます大きく頻繁に聞こえてくるようになった。しばらくすると声だけじゃなく、視覚・味覚・触覚・痛覚も届くようになった。おかげで人間の常識を知り、勉強も俺と一緒に受けることが出来たわけだ。

 人間並みの知識を手に入れて、ツキノワは気が付いた。自分が他の猫と全く違う事に。体は猫なのに、頭は人間に近かった。人間の言葉は完全に分かるのに、猫の言葉が分からない。他の猫みたいに気まぐれでもないし、群れずに単独で行動するのも寂しくて嫌だった。

  《だから、俺とずっと一緒にいたんだな》 

《うん。そして、浩介君なら僕の声が聞こえるようになると思って》

 俺の感覚を受け取ったり遮断したりが自在に出来るようになってしばらくして、ツキノワはもう一つの事に気が付いた。それは、俺がツキノワと同じ夢を見ている、という事。ツキノワが例の夢でうなされてる夜は、必ず俺もうなされていた。ものは試しと思って俺が寝てる間に色々と考えてみると、その考えに従った寝言を呟きだした。例えば塀の上でハトを睨んでいた時を思い浮かべれば、俺は「まてぇ〜焼き鳥ぃ」と寝言を言ったりしたそうだ。

 そこでツキノワは考えた。このままなら、もしかして浩介君も自分の感覚を自由に受け取れるようになるんじゃないか…と。いつか自分と話が出来るようになれば、どんなに楽しいだろう、と。

  《…だからって、腹の上で寝るなよ》

  《う、ご、ゴメン。だって暖かいし柔らかいし》

  《あと、布団のど真ん中に居座るなよな。朝、寒いんだぞ》

  《うぅ、うー、ゴメンなさい》

 結局、ツキノワも俺も、どうして俺たちが特別な関係になったのか分からなかった。分かるのは、科学者は研究材料として、警察なら犯罪捜査に、他にも軍事利用とか色々な理由で俺とツキノワを欲しがる、力尽くでも奪うということ。幸い、このテレパシー能力は気付かれてない。ツキノワだけが特別な存在だと思われてる。そして人間に森の中からツキノワを探すのは不可能に近いだろう。

  《お前の毛なら家に沢山残ってるだろうけど、あれだけで満足してくれるかなぁ》

  《無理じゃない?》

  《だな》

 ふと横を見ると、紗理奈と母さんがスヤスヤと寝ている。静かな寝息を立てて寝る妹の横顔に、ふと頬が緩んでしまう。

  《こうやって見てるだけなら、可愛い妹なんだけど》

  《僕にとっては優しいお姉さんだよ》

  《はぁ…昔は俺の後をついてまわってたのになぁ》

  《今は浩介君が引きずられてるね》

 すっかり生意気になってしまった妹と並んで寝てる母さんも見る。今まで何も疑わず、普通の母親だと思ってた。でも、何かを隠してる。多分、ツキノワが特別な猫になった理由について知っている。ツキノワが特別なネコ・・・ツキノワが・・・?

 ツキノワが特別なネコだというなら、ツキノワと心が繋がってる俺は…?


 視界が暗くなった。頭を何かに殴られたような感覚すらしてしまった。

 平凡だと思ってた俺は、最初から平凡じゃなかったのか?

 普通の家庭だと思ってた沢渡家は、普通じゃなかったのか?

 俺は、俺は本当は、いったい・・・


 喉が渇く。

 鼓動が早くなる。

 視界が歪む。

 息が詰まる


  《ねぇ、浩介君》

 冷や汗が流れるほどの不安に襲われる俺の頭に、ツキノワの強い思考が流れてくる。

  《僕は人間じゃない。でも、紗理奈ちゃんも父さんも母さんも、好きだよ。大好きな家族だよ》

「あ、ああ、そうだな、そうだろうよ」

 俺は、それでも必死で動揺を押さえ込み、ツキノワの言葉に頷く。

  《そして、浩介君も家族だよ。大好きな家族》

 頷こうとして、キョトンとしてしまった。

 言われた内容を考える。考え込んでしまう。そして、そのままの意味だと気付いた。

「ん、う〜、なんというか、ハッキリ言われると恥ずかしいな」

 本当に照れる。なにしろ心が繋がってるから、お互いに秘密もウソもない。だから本当にツキノワが俺や家族の事が大好きだって分かってしまう。あ、俺の事も全部バレてるんだよな。

 ふとツキノワの視界を見れば、山頂の木の枝で町を見下ろしている。月明かりの下、町の光が星のようで綺麗だ。

  《だから、みんな家族だよ。それだけは間違いないから、安心して》

 言われて、納得してしまった。どんな秘密があろうと、父さんと母さんと紗理奈と一緒に暮らしてきた事実に何の変わりもない。そりゃ、小遣い増やせとか、宿題しろってウルサイとか、文句はある。でも、結局は俺にとって大事な家族なんだ。それだけは間違いないんだ。

「…結局、んなことはどうでもいいのかな」

 俺は呟く。自分に言い聞かせるように。心の隅に巣くう、言いしれぬ不安の影を塗りつぶすように。

「浩介、どうしたの?」

 横を見たら、母さんが起きあがっていた。赤い非常灯の下、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。そうだ、本当に俺のことを心配している事は間違いないんだ。

「あ、ゴメン。起こしちゃったか」

「ええ、なんだか独り言を言ってたみたいだけど、考え事?」

「あ、うん…退院した後の事を考えると、どうしても不安でさ」

 俺は適当な事を言って誤魔化す。といっても、本当に不安な事なんだけど。

 母さんは頷いてる。どうやら誤魔化せたみたいだ。

「後の事は大変だけど、どうせマスコミなんてすぐにどっか行っちゃうわ。少しの間だけ我慢しましょ」

「だね」

「さ、今は寝ましょう」

「うん。お休み」

  《お休み、浩介君》

 ツキノワも村主が用意してくれた寝床へ向かう。寝床もその周囲にも、カメラとか何もないのはツキノワの鼻で確認済みだ

 母さんも、すぐ再びスースーと寝息を立てる。

 俺も、窓から見える三日月を眺めながら、眠りについた。



          ツキノワ 1 リンク  終

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