手野泊地
戦前、手野武装警備が手野武装社と呼ばれていた頃。
武装警備がはじまってしばらくした頃に、手野武装社は海と空について国を除き右に出る者がいなくなった。
その本拠地とされたのが、小笠原諸島にある手野島である。
日本海軍は、この手野島について、特別に指定を行って、泊地として使用することを承認。
1926年、手野要港部として指定を受け、指揮は手野武装社が行うものの、その要港部司令官は海軍中将の地位を得ることとなった。
ただし、親補職とはなることはなかったが、1938年以降の司令官については親補職となっている。
要港部であるがために、手野武装社は日常から横須賀鎮守府の指揮監督を受けることとなったが、後の法整備により、軍政については横須賀鎮守府司令長官から、軍令については海軍大臣からの指揮ということとなった。
なお、戦時中においては軍令についても横須賀鎮守府からの指揮を受けることとされた。
手野要港部となったため、それにふさわしい整備が国と手野武装社の協同で行われることとなった。
現在でも、このときに整備が行われた数多くの設備が現役であり、特に、乾ドックは、戦艦の整備の為に造られ、いまでも数多くの大型艦が整備を受けるために使われ続けている。
要港部となったため、守備部隊、軍需品のための部隊、艦船兵器の修理のための設備などが設置されることとなる。
また、司令官以下幕僚となる副官、知港事、機関長、軍医長、主計長がそれぞれ置かれた。
彼らは全て軍籍を有する者とされ、要港部条例によって定められた所掌を司るものとされた。
1941年11月20日付で要港部から警備府へと改編された。
この時点から手野警備府と称されるようになり、他の警備府とは異なり、手野武装社の戦力をそのまま固有の艦艇戦力として扱うこととされた。
通称号を手と称し、軍政、軍令ともに海軍大臣からうけるものとされた。
小笠原諸島の立地から、仮想敵国とされた米国へのにらみを利かせるためのものとされ、一時期は鎮守府に昇格するという動きもあったようだ。
だが、純粋な海軍組織ではないということと民間組織にそれほどの権限を与えることが承認されないということなどにより、警備府へとされたようだ。
ただし、その組織は鎮守府とほぼ同等であり、それのために工廠部も設置された。
これらの補償という噂もあるものの、手野武装社社長は大本営の一員として名を連ねることが特に許された。
これらのものも、戦後米軍に接収され、一時期はテック・カバナー総合軍事会社が使用していた。
それ以後、1970年代になり、手野武装社が手野武装警備として再出発を果たした日に、全てが返還され、爾後今に至っている。




