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第七四話 記念日(介護養育法、家族事情、オムツ交換、民族食、民族衣装、新聞)

前話は、第七三話 もうひとつの帰省(親子事情、政策方針、児童養護施設)です。

◆パジャマパーティー


 かつてエリスが育った地区を見に行くと言って、二人が出掛けてから約半日。

 夕方ごろに帰ると言っていた二人は、夜が更けてから帰ってきた。

 しっかりとお互いの手を握って。


「グーン、エリスちゃん、おめでとう」


 姉ファリは開口一番、そう言った。


「ただいまー。遅れてゴメって何イキナリ?」


 グーンが怪訝(けげん)な顔で姉を見たが、その姉は満面の笑みでズバリ言い切った。


「だって弟が童貞喪失した記念日だもの!」

「ぶほっ」


 息を呑んだグーンがむせて吹き出した。しかしかつてのように鼻水までは出さずに済んだ。

 その言葉に全員の視線が二人に集中した。いや〇歳児のナチュラは除く。


「おめでとう二人とも。照れた姿が初々しいね」

「おめでとう。早く孫抱っこさせて。今度は男の子がいいわ」

「いやでもまだ未完のプロジェクト残ってるんだから、せめてあと三年はちゃんと避妊を」

「今年のテトは目出度い事ばかりで、アタシ死んでもいいくらい幸せだよ」

「で、痛かった?大きかった?下手だった?早かった?苦かった?放置された?」


 全員が一斉に喋ったそれらの言葉を聞いて、エリスは繋いでいた手を放して、グーンの背中の後ろに隠れた。


「ほ、ほらぁ! みんながイジメるからエリっさん隠れちゃったじゃないッスか!」

「あ、グーンの口調がちょっと砕けたわね。そのほうがいいわよ」

「お母さんまでイジんないで! してねーから! 何もしてねーから!」

「いいのよ、後ろ指さされることは何もしてないのは分かってるわ。人間の摂理だし」

「そーゆーんでもねーし! 誤解ッス!」


 グーンはエリスを背中に隠したままリビングから廊下に出た。


「……とりあえず部屋で着替えてきます!」

「し、失礼します」


 グーンとエリスは足早に自室に向かった。


「サーセンエリっさん、デリカシーのない家族で」

「ううん、ビックリしただけ。かばってくれてありがとう」


 そう言いつつ、二人はスーツを脱いでカバー付きハンガーにかけていった。

 それまではエリスはトイレで着替えていたが、初めて一緒の部屋で下着を晒して着替えたことに、実は着替えが終わる間際まで二人は気が付かなかった。

 しかし二人の動きは、テキパキとしてむしろ自然だった。まるで今までがお互い意識しすぎていたかのように。

 二度の遠征で、合計二か月ほどは船の中で共同生活を営んでいた経験があるのだから、それも道理だろう。


「そういや、体調の方どッスか?」

「びっくりして引っ込んじゃったみたい」


 二人は昨夜寝た時と同じ、ジャージ姿になっていた。

 グーンはともかく、エリスはパジャマを持って来ていない訳ではなかったが、さすがに照れ臭かったのだ。


「この後どうするッスか?」

「とりあえずリビングに行くしかないよね……」

「根掘り葉掘り聞かれるッスよ?」

「でも帰るまでずっと隠れてる訳に行かないし、観念するしか」

「そッスねぇ」


 食事もしてきたし、シャワーも浴びたし、でも眠るには早い。


「あ、そうだ」


 エリスがひらめいた。


 その数分後、グーンとエリスは布団を畳んでリビングに持ち込んできた。


「戻りましたー」

「改めておかえりー。なんで布団持ってきたの?」


 リビングの床に布団を下ろしながら、エリスは言った。


「今晩はみんなで一緒に寝ませんか」

「お、パジャマパーティー? いいわね、ジャージだけど」

「あはは……」


 そして座卓や小さな家具を片づけたリビングに、全員ぶんの布団が敷かれた。完全に人数分ではないが、全員が横になれる。

 そして全員が着替えてリビングに戻ってきた。グーンとエリスを除いて全員パジャマ姿だ。

 広大な布団の海に、ナチュラは大喜びでハイハイしている。

 とはいえ乳幼児にとってそろそろ眠る時間だ。だから大人七人と乳幼児一人は布団に入り、明かりを暗くした。

 興奮して寝付けなかったナチュラを、父母は二人で挟んで童話を話していた。

 その間大人たちは、じっと黙って寝付くのを待った。

 やがてナチュラは寝息を立て始めた。

 そのまま布団に横になったまま、ようやく大人たちは静かに話し始めた。


 そう、パジャマパーティと称して全員で横になれば、こうして時間が稼げる。

 さらに寝付いたナチュラを巻き込んでしまえば、姉ファリのハイテンションな追及が封じられるのだ。

 エリスは案外策士。グーンは心のメモにそう記した。


「でエリスちゃん、今日は楽しかった?」


 姉ファリが、コソコソ声で追求してきた。

 しかしその質問は想定内だ。だからあらかじめ考えておいた答えで誘導した。


「いえ、ガッカリとショッキングが半々でした」

「え、そんなにグーンって下手クソだったの?」

「姉ちゃんデリカシー無いぞ。エリっさんの家無くなってたんだぞ」

「え」


 グーンとエリスは、今日の想定内かつガッカリな児童養護施設の印象、そしてこれまた想定内ではあったが目の当たりにしてショッキングだった、訪れたアパートが取り壊されて、近所の住民も誰もエリスと祖母を覚えていなかったという事実を、全員に向けて話した。


「あちゃー、そりゃゴメン」

「気の毒になぁ。でもエリスちゃんはもうウチの子だから安心してね」

「ゼータ、その言い方じゃかえって傷つけちゃうわよ」


 父と母は慰め方についてコソコソと言い争いを始めたが、それは放置して、エリスは思い出の場所巡りをしたことについては、行って良かったと語った。

 そして多分二度と訪れない、とも。

 その気持ちは全員に伝わったようで、その場の空気を神妙なものにした。


「そんな訳で、私もダイ・ヴォン家に御厄介になる踏ん切りもついたんです。ですからグーンのお父さんが先ほど仰ってくれた言葉は、とても嬉しかったんです。ありがとうございます」

「そ、そうか。こちらこそありがとうエリスちゃん」


 恐らくリップサービスであろう言葉をエリスがささやいた。


◆初めての彼氏の家庭問題


 そのタイミングで、グーンはさらにファリの好まなさそうな話題で、しかし避けては通れない話題に舵を切った。


「ですけどお父さん。ちょうど家族が全員揃っている今だからこそ、相談しておかなければいけない事があるんですが、例の件についてどうですか」

「ん、んん、んー……」


 グーンの固い口調に父親は途端に口ごもり、事情を知らないエリスが当然の質問をした。


「グーン、例の件って何?」

「婆ちゃんの老後の面倒を見る件ッス」


 介護養育義務の解説は、ややこしくて時間がかかる。

 なのでまずは、家族相互介護養育法の、第一章概要、第二章定義、第三章内容に次ぐ、重要な第四章対象を抜粋しよう。

 ちなみに下記にある過成年者とは、未成年者と同じく成人の義務と権利を持たない市民のことだ。暫定最高寿命とされる一〇〇歳から成人年齢一八歳を引いた、八二歳が終わって八三歳となる年に、行政府主催の卒人式の場で、各種免許所持、選挙権と被選挙権、飲酒ギャンブルなど、成人式で得たほとんどの権利が再び禁止され、労働・教育・納税の義務から解放され、そして成人の保護者に庇護される権利を得る。

 

家族相互介護養育法(抜粋)

第四章 対象

第四条 介護養育の権利を持つのは、以下のいずれかの者とする。

  (A)十八歳未満の未成年者のうち家庭にいる血族

  (B)八十三歳以上の過成年者のうち家庭にいる家族

  (C)生活困難と認められた家族

  (D)生計を持たない六十歳以上の家族

 二、介護養育の義務を負うのは、以下のいずれかの者とする。

  (A)既に養育専従者である家庭にいる血族

  (B)介護養育対象者から、二世代離れた家族

  (C)十八歳以上八十三歳未満の成年である家族

  (D)既に養育専従者である家庭にいる姻族、または特に認められた者


 現在、祖母(第四条D)の介護義務を負っているのはグーン(第四条二B)だ。

 近い将来グーンの子(第四条A)ができると、父母が祖父母(第四条二B)となり、養育義務が発生する。

 その際に、義務負担者が負う義務は、そのうちの誰か(第四条二A)にまとまることになる。

 これをグーンと父母のどちらにするか、という話だ。


 なおその場合、十中八九でグーンの父母が担うことになる。

 ある程度放っておける元気な老人(第四条D)の介護義務より、世話しなければ死ぬ乳幼児(第四条A)の養育義務のほうが優先されるのは、当たり前だ。

 そして法令では記されていない、世間常識とか通例とか暗黙の了解とか言われる何かによって、祖父母が担わないと社会的に白い目で見られるシステムになっていた。


 つまり事実上の引退勧告だ。


「グーン、その件だけど、何とかならない? 私もゼータも、今仕事から抜けるのは困るのよ」

「今になってそれ言いますか」


 グーンは知っていた。父も母も現在の仕事を辞めたくないのだ。

 どこで何をしているのかは守秘義務で知らないが、二人とも同じ組織で研究職らしいので、辞めたくないのに無理もないところもある。

 しかし、介護を誰が担うかの問題は周知のことだ。おおまかな方針を考えておくことも、そのために手を打つ余裕も、今までの数年であったはずだ。

 嫌だ嫌だだけで回るほど世の中甘くないんだよ、とグーンは祖母にそう言われて育ったのに、親がそう言っちゃってるじゃないか。


「何とかってつまり、アレッスか。遠くに就職したばかりのはずの孫が、いつのまにか家に出戻って、老人の世話をして過ごす、そんな姿をご近所に見せると」

「そんな世間体の悪いことは言わないけど」

曾孫(ひまご)もいる老人を独り暮らしさせてる時点で、充分世間体悪いッスよ」


 確かに、父母が祖母の世話を嫌だと言うなら、グーンしかいない。

 グーンの言葉の荒れに気が付き、エリスが止めようと口を開こうとした時、別の声が入った。


「はぁいグーン、いっぺんストップ」

「え、姉ちゃん……」

「やっぱりアンタじゃ説得は無理。時間の無駄よ」

「でもダイ・ヴォン家の男子として、説得のひとつやふたつ出来ないと」

「あのねグーン、アンタは利害対立構造の当事者なの。第三者挟まないと無理って言ってんの」


 グーンの要求は、両親は引退して祖母の介護。自分は金を稼いでそれを支える。

 両親の要求は、自分たちは研究を続けて結果的に稼ぎ、祖母の介護は誰かに委託。

 つまり焦点は、両親が引退するか研究続行かという点であり、確かに対立だ。


「……こういうツマンナイ話、アタシ好みじゃないんだけどね」


 ファリはゆっくりと父母に向いて、宣告した。


「父さん母さん、ダイ・ヴォン家潰して全員エリエール家に合流しなさい。数年なら何とかするわよ」


◆ファリ無双


「え、ちょっと姉ちゃん? 何言ってんの?」


 そんな大事(おおごと)を、今ファリが咄嗟に考えて言えるはずがない。

 事前にアテントや義理の両親と話し合って、必要ならこう言っていいよと伝えられた内容なのだろう。その証拠にアテントは不安げながら静観の構えだ。

 しかしファリはそんな事は匂わせなかった。

 だからそこまで読み切れないグーンは、姉ご乱心と慌てた。


「そうだぞファリ。ダイ・ヴォン家を潰すなんて、正気か」

「いたって正気。ていうか、これが一番穏便な妥協策なの」


 一呼吸の間をあけたファリは、語り始めた。


「引退を望む要求と、現状維持の要求じゃ、噛み合う訳ないじゃない。だから猶予ののちに引退っていう折衷案を、現状第三者のアタシが用意するってワケよ」

「家を潰すのが穏便? どういうことだよ姉ちゃん」

「あのねグーン。

 家を潰す必要性については、この件に関わりたくないって言ってたアテントの元の実家のリソースを、エリエール家名義で頼るためには、合流が必須だから。

 これをしないで、利害の対立した水掛け論がこのままヒートアップしたら、このヒトたちきっとロクなこと言わないわよー。

 エリスちゃんを専業主婦にして婆ちゃんの面倒見させればいいーだの、グーンたちに子ども作らず仕事に邁進させてその金で家政婦雇えばいいーだの、いっそ婆ちゃんが倒れても知らんぷりして見殺しにすれば楽だーだの。

 アンタだって、肉親のそんなセリフ聞きたくないでしょ」

「っ!」


 わあぁ! 誰がそこまで言えって言ったよ!

 口を挟んだグーンへの返答の形をとっているが、その言葉は明らかに父母への牽制だ。

 なにしろ、父は実際にボツ稿ではそんなことを口走っていたので、間違いない。

 グーンはあっけにとられて黙り込んだ。

 そして父親は、その牽制に反応した。


「そ、そんなこと、俺は言わないぞ」

「あーら、ナチュラの出生祝い式でこの話をした時も、自分の現状維持のために周りを動かして辻褄合わせるような、そんな現実味のない突飛な提案しかして来なかったじゃない。私たちの婚約の時も、アテントがいた家に頼ればいいなんて言ったセリフ、アタシ忘れてないわよ? 誰のせいでエリエール家なんて立ち上げる羽目になったか、覚えてないの?」

「……」


 ナチュラの出生祝い式は、資格試験の都合で欠席したことを、グーンは思い出した。

 そんなグーンの知らないところで、父母は前科アリだったらしい。

 父親は苦々しい顔で黙り込んだ。


「ちょ、ちょっとファリ。あなた言い過ぎよ。お父さんに謝り……」

「あ、そうそう。アタシのここまでの話を、言い過ぎだの脅迫じみてるだの人材価値を考えろだの言うのはやめてね。こっちの要求は最初から一貫して、引退以外に増えてないんだから。譲歩付き大サービスでね」

「……」


 母親の発言をファリが被せて、止めて、釘を刺した。

 ボツ稿で母が実際に発言した内容だ。

 母親も苦々しい顔で黙り込んだ。


「それでも血縁者だし年長者だからと思って、そんな暴言吐かれても穏便に済ませたけど、さすがにそろそろ勘弁してよ。二、三年猶予あげるから大人しく引退しなさい」

「さっきは数年って言ったのに」

「充分に数年じゃない。そんな細かい所で交渉できる立場だと思ってるの?」

「……」


 そこでファリは突然グーンに振った。


「グーンも多分、今すぐ結婚とは考えてないでしょ? 独身寮追い出されちゃうし、仮にエリスちゃんが産休に入ることになるとしても、せめて新人教育終わって経験積ませてから入らせたいわよね?」

「お、おう」


 とっさのことに思わず肯定したが、独身寮だの新人教育だの何故知ってるのだろう。


「あと婆ちゃんは、慣れたご近所さんに囲まれてこの家で暮らしたいんだ、って半年くらい前に言ってたよ。だからそのくらいのワガママは聞いてあげてよね。住み込みの必要まではないけど」


 ファリは具体的には言っていないが、祖母に苦手意識が薄いはずの父親が来ることになるだろう。

 いや、今となっては父は全員に苦手意識を抱いている可能性がある。


「……この歳でまた苗字が変わるなんて……」

「あのね、今回で頷かないなら私が法的手段に訴える予定だったから、頷いておいた方がいいわよー。これ最後のチャンスだからね」

「わ、わかった。職場に相談してみる。だが駄目と言われたら」

「何、職を辞して野に下るだけで口封じに暗殺者の手が伸びるような、後ろ暗い研究やってたわけ?」

「いや、別にそこまでは……」

「なら駄目なんて言われるはずないじゃない。猶予期間中のリマインドはしてあげる」


 リマインドとは、きっと週に一回くらいのペースで、催促の電話を入れることなのだろう。それとも日に一回だろうか。


「研究も後継者に譲って、なるべく早く身綺麗にしておいた方がいいわよ」

「ん、うん……」

「まさか後進の育成怠ってるの? 養育能力に欠ける人に孫預けられないわよ?」

「い、いや、いる! いるけど、アイツらに説明するドキュメント作るより、自分でやったほうが早いし……」

「その考えが研究職の駄目なところなのよ。まんま老害じゃない」


 小さな頃から、姉ファリの攻撃を受けて育ったグーンは、その攻撃性を有効活用するとこういうことになるのかと恐怖し、矛先が向かった両親に少し同情した。


◆家系断絶記念日


「姉ちゃん、どう猶予を作り出すって言うんだよ」

「カラダを張ってよ」

「?」

「父さんと母さんが引退するまで、産んでは妊娠し続けて産休とりまくって、婆ちゃんのそばで子育てするの。どう、カラダ張ってるでしょ」

「張りすぎだろ!」


 大声を出してしまったグーンの声に、ナチュラが身じろぎした。

 全員で息をひそめた。


「ちょっとお父さんお母さん、子どもにこんなことさせて平気で居られるんスか!」

「ん、んん……」


 両親を非難するグーンを留めたのは、ファリ当人だ。


「でもねグーン、今回のこの問題点ってのは、ダイ・ヴォン家の構成員が少なすぎて枯渇寸前だからこその問題だったのよ。三世代四人なんて一番効率が悪いも同然じゃない。もっといれば自由度も上がるのよ」

「そうだけど」

「だから次の世代では、こんな職業継続の不自由をなくすために、構成員を増やすの。アンタもエリエールの人間になるのよ、ガンガン子作りなさい。ね、エリスちゃん」

「は、はい、お手柔らかに……」


 グーンは暴君ファリを初めて尊敬した。

 普通とは逆に、親のワガママの尻ぬぐいを子が行う決断に、男気を感じたのだ。

 姉ちゃん、男前だ。俺もこうあらねば。


「ファリ、すまない。本当に恩に着るよ」

「家立ち上げと、今回の猶予で、貸し二つだからね。恩に着るヒマがあったら、キリキリ返してちょうだいね」

「まずは明日早速、家系移動と廃絶の手続きに、役場に行くよ……」

「あら駄目よ。明日はみんなで初売り行くの。人数いないといっぱい買えないじゃない」

「勝手に決めんな。明日は道場にエリっさんを紹介しに行くんだよ」

「午後にしなさい午後に。午前中は初売りの福袋買うんだから」

「フクブクロウ? なんですかそれ?」

「エリスちゃん知らない? 福袋ってのはねぇ……」


 その夜もまた、遅くまで起きっ放しで寝不足となった。

 これだけ話してナチュラはよく起きないものだと感心した。


◆有給休暇三日目:エリスの隠された特技


 さて、次の日の朝。

 グーンは顔に、生暖かいプニッとした物体が乗って、モゾモゾ動いていることに気が付いた。

 目を開けてみると、どうやら夜中の間におしっこをしてパンパンになった紙おむつを履いたナチュラが、大人たちの身体をハイハイで登頂していたせいだとわかった。

 全員で床で寝たことで、朝誰よりも早く起きたナチュラにとって、楽しいアスレチックフィールドが出来上がっていたのだ。


「くかぁぁぁ……おはようナチュラちゃん。オムツパンパンだな」


 グーンが何の気なしに身体を起こすと、隣で寝ていたエリスの肩にもかかっていた布団が、グーンの身体とともに落ちた。


「さむ……」

「あ、サーセンエリっさん。はい布団」


 グーンは自分が()いでしまった布団をエリスに返した。


「うーん、あ、もう朝……?」

「オザッス。〇八三〇(マルハチサンマル)ッス。それよりオムツ替えてあげたいんスけど」

「あーおはよう。……ファリお姉さんに聞かないと」


 それを聞いて、グーンは寝ている祖母をまたいで、姉の近くに寄った。


「姉ちゃん、姉ちゃん。オムツどこ」

「うー、そこの赤いバッグ……」

「了解、交換しとく」


 オムツを取り出したグーンは、そういえば自分は宇宙服の時のオムツしか交換したことがないことに気が付いた。

 オムツを両手に持って、ナチュラと姉を交互に見るグーンに、エリスは助け舟を出した。


「グーン、お姉さんのバッグから、ベビーパウダーとウェットティッシュも出して」

「ウッス、どうぞ」

「さてそれじゃ……ナチュラちゃん捕まえたー、きゃー、こちょこちょこちょー」


 キャッキャと喜ぶナチュラのズボンを、手早く降ろした。


「オムツ替えるからねー、はいころーん」


 エリスはナチュラを横にすると手早くオムツを抜き取り、ウェットティッシュで陰部を拭き取り、ついでに肛門周りも綺麗にしてからベビーパウダーを薄く塗って、履かせるタイプのオムツを右足ー、左足ーと声をかけながら通して、ギャザーを立ててからズボンをはかせた。

 全ての動作を、楽し気に声をかけながら遊びじみて行うことで、ナチュラはその間ご機嫌だった。

 もちろん使用済みのオムツも手早くクルクル巻いて、ゴミ箱に入れていた。

 この間、約一分少々。

 エリスはメチャクチャ手慣れていた。


「うわなにその手際、すげえ……」

「児童養護施設で慣れてたんだ。赤ちゃんも入居してたから」

「そうだったんスかぁ。オムツマイスターっスね」

「何それ」


 エリスは寝起きのはずなのに手早い仕事を披露したあと、流し台で手を洗って、さむさむと言って再び布団にもぐった。

 グーンはバッグから取り出したものを元通り仕舞ってから、一緒の布団に戻ってきた。

 少し冷えた身体は、布団の余熱とエリスの体温ですぐに温まった。


「あ、見て」


 ナチュラは両親がくるまっている布団に掴まり立ちをして、じっとしたまま難しい顔をしていた。

 そして香ってくるウンコ臭。

 交換したばかりのまっさらなオムツにする清々しさを、赤ん坊なりに知っているのだろう。

 エリスとグーンは苦笑いしながら、再びオムツ交換セットを手に取った。


 二度目のオムツ交換をすると、ナチュラがニコニコ顔で布団にやってきた。


「ナチュラちゃんおいで、一緒にお布団に入ろう」


 エリスは自分とグーンの間の布団を大きく開いて、ナチュラを招いた。

 すると言葉がわかっているのか、ナチュラは布団の中に這いこんで、方向転換してエリスと向かい合わせに寝転んだ。


「んー、ナチュラちゃん言葉分かるの。えらいねー、ご褒美の抱っこ抱っこぎゅー」

「キャーハー」

「慣れてんのはオムツだけじゃねッスね、ホント凄い」


◆バインミー


 そうして三人で布団の中で抱っこしあって戯れていると、全員が次々と目を覚ました。


「お世話ご苦労さまねー。朝食の用意しておくよ」


 起き抜けは膝が痛むのか、祖母がキッチンにゆっくり歩み寄って、やがて手早く何かを焼き始めた。

 パンの焼ける香りだ。


「スンスン、ああ懐かしい香り」


 母親が目を覚まして、みんなに挨拶した。

 そしてナチュラの姿を見つけて、おはよーと言いながら顔をナチュラの腹に軽く押し付けて、くすぐるように動かした。キャッキャ。

 一昨日ここに来た時は、母はこんな子どものあやし方をしていなかったはずなのに、いつの間にかやり始めていた。母がどこでこれを知ったのかなど考えるまでもなく、エリスの仕草だ。

 やがてアテントとファリも起きて、最後に父が起きた。

 その頃にはエリスは祖母の料理を手伝い、グーンは布団を畳んで部屋に運んでいた。


「できたよ。いっぱい作ったからいっぱい食べておくれ」

「バインミー、懐かしい」


 祖母の実子である母イーナが、そうつぶやいた。

 そこにあったのは、バインミーを大きく切ったサンドイッチだった。

 ちなみにバインミーとは、米粉入りフランスパンのことで、ただのフランスパンではない。

 初任給の帰省の時も食べたグーンは、エリスにもそのサンドイッチを勧めた。


「それじゃいただきます。あ、美味しい」

「テトだから紅白(なます)をいっぱい作ったんだけど、余らせても困るからね。バインミーケップにたっぷり使ったよ」


 祖母はとても嬉しそうに話した。

 何しろ今まで、祖母のそばで一緒に料理を作る者がいなかったのだ。

 今回の帰省では、高頻度でエリスが手伝っていた。


「美味しいです、お義祖母(ばあ)さん。今回も食べられて幸せー」

「あら、アテントくんもバインミー好きなのね。自分で作ってみてもこの味出ないのよ」


 母親はアテントの言葉にそう合いの手を入れた。

 その彼女に声をかけたのは、意外にも実母である祖母だった。


「イーナは婆ちゃんに習わなかったのかい?」


 この場合の婆ちゃんとは、母親から見た祖母で、グーンから見て曾祖母だ。グーンが生まれる前に亡くなっているので会ったことはない。


「ええ。婆ちゃんが亡くなったあと、教わっておけばと後悔したわ」

「そうかい。アタシのバインミーケップは母さん譲りだよ。エリスちゃんに伝えておくから、いつか習いなさい」

「そうします」


 バインミーケップはバインミーで挟むという意味になり、サンドイッチのことだ。

 母は祖母に直接教わるのを嫌がるだろうと、エリスを介することにした。その配慮は母親にも伝わっているのか、すんなり受け入れられていた。


「グーン、食べ過ぎ」

「え、まだ五個ッスよ」

「エリスちゃん、君たちの初任給の頃にもグーンくんは帰省したんだけど、その時は十一個も食べてたよ」

「えっ、それじゃ人数考えると足りないですね」


 そう言ってエリスは腰を浮かせた。祖母はそれを抑えて言った。


「それじゃアタシがバインミーを炙っておくから、エリスちゃんは調味料と材料をテーブルに運んで、そっちで作ってくれないかい」

「わかりました、お願いします」


 祖母はバインミーに切れ目を入れて、グリルで焼き始めた。大きすぎてトースターには入らないのだ。

 エリスはキッチンからテーブルに、マーガリン、ヌクマム(魚醤)、瓶詰めレバーパテ、続いてボウルいっぱいの紅白(なます)、輪切りハム、玉ねぎサラダを並べた。

 軽く焼きあがったバインミーを祖母が持って来ると、礼を言ったエリスが切り口にマーガリンとレバーパテを手早く塗って、ナイフで四分の一に切り分けた。


「それじゃ具材はお好みで入れてください」

「へぇ、自分で作るのか、面白いね」

「だって、私も食べたいんですもん」

「あはは」


 手巻き寿司ならぬ、手巻きバインミーを全員でたっぷり楽しんだ。

 一度目は祖母が炙ってエリスが塗った下ごしらえを、二度目は祖母とエリスが炙って母イーナが塗って、三度目以降はエリスが炙って祖母と母が塗った。

 ヌクマムの代わりに醤油ドレッシングでもいけた。ただの塩コショウも良かった。レトルトハンバーグもなかなかのものだった。

 そして母イーナは、彼女の祖母譲りのバインミーケップの味付けを知ることができた。

 ひょっとしたら、祖母がエリスにテーブルで調理をさせたのは、母に味付けや調理の実際を目の前で見る機会を与え、実際に自分で作る経験をさせ、その結果を自分の舌で味わうことができるように、配慮した結果なのかもしれない。

 もっとも、バインミーそのものとヌクマムとレバーパテの入手が困難なのは、後で思い知ることであった。

 大丈夫、その製法や入手方法はエリスに伝えてあった。


◆テト初売り


「ふぅご馳走様。それじゃ着替えましょう」

「食休みもナシかよ、了解」


 姉ファリの号令がかかった。彼女は一刻も早く街に繰り出して、店にもよるが一〇三〇(ヒトマルサンマル)には始まる初売り式で、福袋を買う目的があるのだ。

 それに逆らえない全員が渋々従い、エリスはファリに女性が集まる部屋に拉致されていった。

 そして着替え終わった全員が再集合して、足の痛みを心配して残ると言い出した祖母とナチュラを家に残して、全員で外に出た。

 六人全員がアオザイ姿だ。知られていないが男性用のアオザイもあるのだ。


「おおー、エリっさんのアオザイ姿なんて初めて見たッス、お似合いッスよ」

「ふふ、ありがと。これ、お婆ちゃんのなんだって」

「俺たちのも、死んだ爺ちゃんの奴ッス」


 道を往く人たちは、ある人はアオザイ、ある人はチャイナドレス、ある人はチョゴリなどと、各々のルーツの民族衣装を着ていた。スーツ姿も多い。

 しかしエリスは、同じアジア圏の服装である和服を着ている人を見なかったことを、不思議がった。


「ジャパン出身者は、旧暦の正月じゃなくグレゴリオ暦の正月で祝うんスよ、なぜか」

「へー、だから見かけないんだね。確か十五号船のコバヤシ監督もジャパン系だよね」

「苗字はそうっぽい響きッスね。見た目はあんまりそれっぽくねッスけど」

「この時代、人種は混ぜこぜだからね」


 訪れた商店街は、けばけばしい飾りと喧騒に満ちていた。

 姉ファリはそれを見てニッコリ微笑んだ。


「この下品な賑やかさが良いのよー」


 エリスもまた喜んでその風景写真を撮り、ついでに全員のスナップ写真も加えていた。

 母イーナと姉ファリのアオザイ姿は、かすかに黄色い肌もあいまって異国情緒たっぷりだ。特にファリの長い黒髪はとても素敵だった。

 父ゼータとグーンはノンラーという笠で黒い肌を隠し、こちらも濃厚な異国情緒を醸し出していた。

 一方で美形白人であるアテントとエリスのアオザイ姿は、どこかコスプレじみていた。

 串焼き団子を頬張るグーンと母イーナは同じ顔つきで、まるで合成写真だ。

 福袋を両手に四つずつぶら下げさせられている男性三人の写真は、悲しみを誘った。


「はー楽しかった、ただいまー」


 昼過ぎごろに帰宅して、グーンとエリスを除く四人は、せっかくのアオザイを汚す前に着替えて、楽な格好に変わっていた。


◆ゼロG空手道場


 しかしグーンとエリスの二人は、一度家に帰ったあと笠を置いて荷物を持ち、すぐに外に出かけていた。


 そして向かった先は、グーンが長年通ったゼロG空手道場だった。

 道場の前の通りにも、中の掛け声が聞こえてきていた。

 二人は自動ドアから入って、グーンはロビーの受付に話しかけた。


「押忍。以前こちらの道場の門下生でした、ダイ・ヴォン・グーンッス。お久しぶりッス」

「あらっ、グーンくんなの? 大きくなったわねぇ」

「押忍、アザッス。こちらテト初売りの土産です。皆さんでお召し上がりください」

「ありがとう。館長も師範も喜ぶわ。彼女さんを連れてきたの?」

「え、えへへ、婚約者ッス」


 その言葉と同時に、エリスは優雅に会釈した。

 受付のおばちゃんはとても喜び、館長や師範にも挨拶していきなさいと勧めた。


「その間、稽古を見学したいんスが」

「もうすぐ終わるから、もちろん良いわよ。彼女さんもご一緒にどうぞ」

「お邪魔いたします」


 アオザイ姿のままのグーンとエリスは、稽古場のガラス扉の前で一度立ち止まり、先にグーンが押忍という挨拶と同時に入室した。

 そして振り向いてエリスを中に招き入れて、稽古場の板張り床に二人で正座した。

 中では道場生が自由組み手を行っていた。

 とはいえ重力下である居住ブロックでは、一見ゼロG流以外の空手と大差なかった。

 師範も道場生も、きっと気が付いてはいても、グーンとエリスには一向に視線を寄こさなかった。

 やがて自由組み手が終わって、全員で神棚に座礼を行い、稽古が終わった。

 するとようやくグーンのまわりに人が寄ってきた。


「押忍、お久しぶりッス!」

「押忍。グーンお前女連れかよぉ、偉くなったもんだなオイ」

「あはは。押忍、師範。お久しぶりッス」

「押忍。おおー、こりゃ懐かしい顔だな。でっかくなったなグーン。押忍、お嬢さん初めまして。グーンが五歳の頃から教えていた師範です。よろしく」

「はい、よろしくおねがいします」


 こんな風に、汗臭い男たちが寄ってたかって汗臭い挨拶をし、汗臭くもボディランゲージでじゃれていた。エリスに縁遠い世界だ。

 おまけにグーンは空手着を持って来ていたらしく、恥ずかしげもなくその場で手早く着替えていた。久しぶりに身体を動かすようだ。

 グーンのアオザイの下は、いつもの開襟シャツとスラックスだった。

 その間にも、グーンを知らない道場生は更衣室で着替えてさっさと帰っていった。

 放置された形になってしまったエリスは、特に道場生から話しかけられることもなく、そのまま数分のあいだ見学を続けていたが、受付のおばちゃんに手招きされてロビーに出ていった。


「ごめんね、男どもがじゃれてるの見てても、つまんないでしょ。あんな板の間じゃなくて、ベンチに腰かけて楽にしていていいわよ」

「ありがとうございます。グーンの帰省の挨拶に着いてきたのはいいんですが、当たり前ですが皆さん初対面ですし、話しかけられなくて」

「いいのいいの、あいつら大きな子どもだから、放っておけば。新聞とカップ飲料の自販機しかないけど、ゆっくりしていってね」

「はい、ありがとうございます」


 エリスは暇つぶしに新聞を手に取ってつらつらと眺めた。

 火星メインランド議会の総統(フューラー)選挙が公示された記事、火星の政局のメインベルトへの影響の記事、同日行われるシアリーズ総督選挙にシアリーズ市民が選挙権を持っていないことの是非を問う記事、開票まで特別テロ警戒期間に入る記事、木星人民日報の抄訳ヘッドライン、メインベルト独立過激派と独立穏健派の抗争、アースユニオンの動向記事、などなど。

 どれも興味がない。

 地球で大人気二・五次元アイドールグループがメインベルト上陸、オリンポス・ゲームズとオリンピック・ゲームズの両金メダリストが激突・宇宙遊泳自由形百メートルの結果記事、世界遊泳二〇一九を目前に次期開催地誘致レース過熱、劇団エイトフォーのドール舞台風と共に去りぬ上演開始、事業家コルゲート・カオ氏死去の訃報、などなど。

 こちらも興味がない。

 結局エリスは、現代ミュージックシーンの記事を読んだ後は、カップ飲料のホットミルクを静かに飲んでいた。

 そのうち受付のおばちゃんがエリスのそばに寄ってきて、当たり障りないが広範囲にわたる内容の雑談をしていった。特にグーンとの出会いを根掘り葉掘り聞かれた気がする。

 やがて賑やかな男たちの声が迫ってきて、空手着に囲まれたアオザイ姿のグーンがロビーに現れた。


「エリっさん、お待たせしちゃってすいませんッシタ。帰りましょ」

「うん。それでは皆さん、お邪魔いたしました」

「押忍、お幸せに!」

「押忍、グーンまた来いよ」

「押忍、アザッシタ」


 二人が帰宅した頃には、もう一八〇〇(ヒトハチマルマル)になっていた。


次話は、第七五話 最後の晩餐(食事作法、都市ブロック、タバコ)です。

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