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第五五話 再びのバンボ入り中編(貞操観念、家庭事情、グーンの過去)

前話は、第五四話 再びのバンボ入り前編(私娼窟、食事、カクテル、タバコ)です。

 現在時刻〇六三〇(マルロクサンマル)、大型船バンボ店内。現在十七号船クルーは全員、この船に食事その他を楽しみに来ていた。

 さらにはロリエとエリスの二人は、店員ティウと一緒に入浴まで済ませていた。サルバは店員アンと現在も入浴中だ。恐らくやってることは入浴ではないが。

 グーンが留守番をしていたところに、船長とソフィが追っ付け来店して、食事を済ませたところだった。


「ところでよ、店員さん」

「はい」


 船長の話しかけにティウが応じた。


「風呂だけ貸して貰う訳にはいかねぇかい? カミさんと楽しみたいんだ」


 その申し出にティウは困り顔となった。

 この店では風呂だけの提供はやっておらず、むしろ売春のオマケでのサービスなのだ。

 これはメインベルトでは売春は決して違法ではなく、逆に入浴施設は許可制であり、バンボの風呂は無許可であることが関係していた。宇宙での水の扱いとは、このように神経質にならざるを得ないのだ。

 だからティウは困り顔のまま、ライフリーに答えた。


「実は先ほどもご相談をいただいたのですが……」

「ああ、花代(娼婦を買う料金)は払うよ」

「それでしたら問題ありません。承りました、ご案内いたします」


 ライフリーは快諾し、ティウは二人を連れて二階に向かっていった。


 再びその場には店員が誰もいなくなり、ロリエ、エリス、グーンが残された。

 ロリエはタバコの余韻に浸っているのか、ソファに身を預けてゆったりとしていた。

 だからグーンはエリスを話し相手にすることに決めた。


「エリっさん、私服持って来てたんスね」

「うん、ソフィさんが爆発しそうだからって急かされたから、船の手荷物全部持ってきちゃって、それで」

「結果的に正解ッシタね。俺一人だけジャージなの、恥ずかしッスよ」

「グーンもお風呂入ってくればいいのに」

「……あー、エリっさん、ちょっと」


 グーンはエリスのとてもいい匂いがする髪に顔を寄せて、ナイショ話をした。


「それ、女買ってこいって言ってるも同然ッスよ、気を付けた方いいッス」


 エリスは途端に意味を察して、赤面した。

 風呂に入ってこいという言葉は、そういう意味になるのだ。


「ご、ごめんなさい、そういう意味じゃ……」

「大丈夫、分かってるッスよ。ただ……ね」


 グーンは「実は金が無ぇんで風呂入れねんスよ」とは言わなかった。これを言っちゃおしまいだ。

 それを聞いてエリスは、なんだか申し訳なさそうな顔つきになった。

 あえてグーンは明るく楽し気に、話題を提供してみた。


「いい機会なんで、普段話せないこの方面を話題にしてみましょっか」

「えっ」


 グーンのその言葉で、エリスは娼婦との性交渉の話題かと身構えていた。

 しかしグーンはその誤解を否定し、貞操観念についての話題だと訂正していた。


「ああ、違うッスよ、エロ話じゃなくて、貞操観念についてッス」

「あ、ああ、うん、なぁんだ……」


 エリスはそのグーンの弁解を聞いて、しきりに自分の髪を撫でつけた。これは彼女なりの照れ隠しの動作なのだろうか。


「俺は婆ちゃんに、男も女も結婚までは清い体でいるべきだって教わって育ったんスよ。俺もそう思ってますし、だからこそ、その、こういうところで散らすのははしたないって思うんス」

「……」

「エリっさんはお婆さんに、どう教えて貰ったッスか?」


 その問いかけを聞いて、エリスは少し真面目な顔に戻った。上気した顔色も徐々に戻っていった。

 エリス自身もその教えを聞いたことがあった。事あるごとに近所の大人やメディアや学校授業などによって、結婚への憧れと純潔の教えがセットで延々と植えこまれていたのだ。ちょっと察しの良い子なら気が付かないはずがない。

 だがグーンがその考えをエリスに問うた真意は何か。

 十中八九、問いの形を借りた持論の強要なのだろう、そうエリスは見破った。「こういう教えを守っている自分に対して、娼婦を買ってこいとは破廉恥極まりない、反省せよ」と。例えグーンがそうハッキリ認識して発言している訳ではないとしても、心の奥底にそういった傲慢さが横たわっているだろうことは、容易に想像できた。

 しかしエリスはそれを顔にも態度にも出さない。何しろ今までにもそういう無自覚の傲慢を持つ人を、いっぱい見てきたからであった。

 エリスが考えているうちに、船長夫妻の案内を終えて、ティウが戻ってきた。


「お待たせいたしました、戻りました」

「ティウさんお帰りなさい。グーンの話を聞いてどう思いますか?」


 二人はティウにねぎらいの言葉をかけ、エリスは今しがた聞いた、グーンの貞操観念を語って聞かせた。この店で娼婦を買いたくないというくだりは、流石に口を噤んでいた。

 グーンはティウにまで自らの思想めいた部分を晒すつもりはなかったのだが、酒の席で話題を提供した以上は仕方ないと開き直って、黙っていた。

 そして、エリスは答え辛いその質問を、他者に丸投げしようとして、ぴしゃりと跳ねのけられていた。


「私は部外者ですので、エリスさんが答えるべきですよ」

「うん、俺もエリっさんのお婆さんの教えを聞きたいんで、お願いシャス」

「じゃあ、グーンの貞操観念と合うかどうか分からないけど」


 仕方ない。エリスは説得目標をグーンが持つ無自覚の傲慢の排除と定めて、彼女の祖母の教えを披露することにした。

 軽く目を閉じて、祖母の教えを思い出しながらゆっくり話した。


「自分の行いに責任が持てる歳になったら、何事も好きになさい。でも子どものうちは判断は大人に任せて、その意図をよく読み取りなさい。そう教えられた」


 その言葉を聞いて、グーンは理解が追い付いていない顔、ティウは驚きの顔、ロリエは我関せずの顔をしていた。


「つまり?」

「これ以上は言い辛いよ、グーンを傷つけちゃいそうで」

「大丈夫だからバシッと言っちゃってくだせえ」


 エリスはグーンに聞かせるのは忍びないという顔つきをしていた。しかしグーンとて何となく察している。グーンは子ども扱いなのだろう、と想定していた。

 ここで話を止めておく選択権をエリスは提供したが……。


「そっか、じゃあ言うね」

「ウッス」

「子ども時代はグーンと半分同じで、成人した後はグーンと違う」

「エリっさんのお婆さんにまで、俺は子ども扱いッスか」

「ううん、グーンのは禁止で、私のは見学。つまりグーンへの教えは、私の子ども時代にも至っていない」

「ふごっ」


 グーンはその言葉を聞いて、豚の泣くようなイビキのような不思議な音を立てた。

 自分が子ども以下……。こうだろうと想定していたよりも酷いエリスの言葉に、グーンは血の気が引く思いがした。

 グーンは、自らの祖母が自らをそう評価していた疑念を、今眼前に突き付けられた。しかも自ら気付くことなく、他人に指摘されて初めて気付くという体たらくで。


「ほら、やっぱり傷ついた」

「……く、くっそ、婆ちゃんは俺をその程度にしか見てなかったのか……」

「お婆さんを恨むのは逆恨みだよ。グーンが招いた評価だよ」

「ふごっ」


 エリスによる言葉のナイフが、再びグーンをえぐった。


「ただ……」

「ただ?」

「グーンはその教え、小さい頃からそう心がけていたんだよね?」

「そッス」


 すっかりふてくされた顔つきになったグーンが答えた。


「小さい子どもの頃に言われた注意は、難しい部分を省いたものに決まってるから、成長したグーンに合致した教えのはずがないじゃない」

「え」

「えって何?」

「教えは一生モンのはずじゃなかったんスか」

「そんなはず、あるわけないじゃない。子どもの成長に伴って、内容は高度になっていくのが普通だよ。そうでしょ?」


 グーンは、エリスが自分をより高く評価したがっている気遣いに気が付いていた。それは有難いことなのだが、同時に、十八歳になるまで必死に自らを律してきた努力を、全否定されているとも感じていた。


「そうかも知んないッスけど、それじゃ教えを忠実に守ってた俺が、まるで馬鹿みたいじゃねッスか」


 そしてエリスは、そんなグーンの縋りつくような拘りを看破し、一刀両断にぶった切って見せた。言葉による体罰はさっきの二発で留めようと思っていたが、この一発はグーンの自業自得だ。


「さっきの考えに自力で至れなかった以上、そうだね」

「くっ……」


 グーンの表情は、苦虫を噛み潰したようなものになっていた。涙もうっすら滲んでいるのかもしれない。三発も下げたから、ここからは上げなければ。


「でもねグーン、愚直に教えを守れる忍耐力を持つことは、美徳だよ」

「……」

「それに現在どういう評価なのかは、聞いてみないと分からないじゃない。もし私のお婆ちゃんなら、ひと足飛びに、好きになさいっていう言葉が返ってくると思うよ」

「そうなんスか?」


 グーンの表情が少し和らいだ。


「そうよ。だって私とグーンで、人間性にそんな開きがあるとは思えないもん。ならば私と同じ程度の評価が貰えるはずだよ」

「そうなんスか」

「私のお婆ちゃんとグーンのお婆さんが一緒なら、って前提だけどね」


 グーンの表情がさらに和らいだ。


「……つまり、エリっさんのお婆さんによる評価がもしあるとすれば、俺はエリっさんと同程度に評価されるはず、ってことッスよね。ウチの婆ちゃんはともかく」

「そう」

「ウチの婆ちゃんとエリっさんのお婆さん、どちらの評価を信じるのかは、俺自身が考えて判断すべき、ッスか」

「そう。良く出来ました」


 エリスはニッコリ微笑んで、グーンの頭を撫でた。くぅ、子ども扱いするなと邪険に振り払うこともできない、だって笑顔が可愛いじゃないか。

 そしてその後にエリスは真顔でグーンに向き合って、言った。


「そんなグーンだから言えるんだけどね」

「何スか」

「無自覚の傲慢に気を付けて」

「え、なんかあったッスか?」

「私がうっかりした発言をしたあとで、貞操観念を話題に出して、グーンが純潔主義を語ったこと。あの流れであの発言は、自説である多数派意見の強要にしか聞こえなかった。慣れてたけどちょっと辛かったの。グーンまでこんなこと言うなんて、って」

「ああ……、言われてみれば確かにそうッス。すいませんッシタ」


 グーンはソファに座ったままではあったが、深々と頭を下げた。

 それを受けてエリスも深々と頭を下げた。


「こちらこそ、指摘で気分悪くさせてごめんなさい」

「いや、俺じゃ気付けないこういう指摘を、これからもしてくれると嬉しいッス」

「うん」


 グーンは深く座り直して、再び口を開いた。


「確か、自分の行いに責任が持てる歳になったら、何事も好きになさい。でも子どものうちは判断は大人に任せて、その意図をよく読み取りなさい。ッシタよね」

「うん」


 エリスの祖母が言う「責任が持てる年齢」とはすなわち、定職について収入を得ている年齢ということだろう。何事もというのは、仕事や活動でも、生活やお金でも、もちろん男女の恋愛や性交渉についても、ということだろう。

 しかし責任が持てない被保護者のうちは、保護者の指示に従った方が良いとも言った。

 ただしその場合も、思考放棄して従うだけではいけない。指示の裏にはどんな事情があるのか、指示を受けた自分に足りない部分はなかったのか、理性でなく感情で動いていないかなど、常に考え続けることが必要だとも言った。

 そういった前段階を踏まえて、好きにする判断を自分でしろ、ということだ。


 一、責任が持てないうちは、保護者の指示に従った方が良い。

 二、指示に従うだけではなく、内容を理解して意図を掴め。

 三、意図を理解できて責任をとれるようになったら、あとは自分で判断しろ。

 そのグーンの解釈をエリスに話した。


「そう。その解釈で正しいよ。お婆ちゃんはこうも言ったの」


 エリスは祖母の教えの続きを語った。

 人間がモノを覚える順番というものは、やりたい事を見つけて、やり方を知って、やってみて、成功失敗に限らずやった結果を得て、より良いやり方を見つけようと最初に戻って、それを繰り返して初めて経験になる。

 だから、やりたい事があって方法を知っているなら、チャレンジするべきだ、と。

 そしてチャレンジの時に、若さは武器になる。何故なら歳をとってからは、自分から見て初体験でも、周囲から見れば出来て当たり前、失敗は即座に失望に繋がる。一方で若ければ、失敗しても若気の至りで許される場合が多い。だったら若いうちにチャレンジしないと損だろう、そういう教えだ。

 ただし世の中には、取り返しがつかないことがいくつかある。人の生死に関わることはその最右翼だから、もしそれに取り組むのであれば、事前に人間力を上げて熟考しなさい。それを実行するなら、考えられる全てのリスクと天秤に掛けて考えるクセを付けておきなさい、とも言われた。

 これを短く言うと「若いうちの苦労は買ってでもしろ」っていう言葉になるんだよ、と。


「すげぇッス、エリっさんのお婆さん。論理的ッス……」


 グーンはそのエリスの祖母の考えに感銘を受けた。

 一、何事も若いうちにチャレンジしろ。

 二、チャレンジの前によく考えろ。

 三、チャレンジを実行するなら全てのリスクと天秤に掛けろ。

 最近のグーンは、三行にまとめる努力をしていた。


「そうだよ、そんなふうに頭を使えるグーンなら、物事の善悪は自分で判断できるはずだよ」

「ウッス……」


 そこにティウの感想が差し込まれた。感銘ではなく、意見の一致に驚いていた様子だ。


「驚きました。お婆様のお考えは、私の考えと全くそのままでした」

「そのままですか、嬉しいです」

「それに、先ほどの下げて上げるエリスさんの手腕、見せて戴きましたよ。お見事です」

「ティウさんにお見せするのは恥ずかしかったです」


 グーンは思考の海に沈んでいった。

 感銘は受けたが、やはりこの意見は、優秀な子どもを持つ少数派の意見だ。グーンの中にある常識に照らせばそう判断できた。

 多数派の意見とは、子どもが優秀かそうでないかに関わらず、婚前交渉を禁止することだ。これはやはり変わらなかった。

 エリスの言葉を受けて変わったのは、あくまでグーンの心であって、世の多数派と少数派の教えの違いは厳然と残っていた。


 ここでシアリーズ・ハウラニコロニーでの家庭事情を説明しよう。シアリーズに限らずメインベルト全体での事情と言い換えても良いかもしれない。

 ご存じのように、メインベルトでは大家族が主流だ。

 何故なら法制度が、大家族に有利で小家族に不利なように作られているからだ。

 これ以外にも家庭側から見て、生活費の圧縮、家庭教育機会の平均化、老人介護の人手の確保など、様々な恩恵がある。

 もちろん行政側から見ても、子育て世帯の極限化による行政サービスの圧縮、子育て世帯と出稼ぎ世帯両方からの税収、保育園や老人ホームというサービスの省略など、恩恵は多々ある。

 家庭側からも行政側からもウィンウィンの関係なのだ。感情を全く度外視すれば。


 そして一般家庭での結婚とは、実家が近所同士の両家が、幼馴染同士の子どもたちを高校のうちにお見合いさせて、就職先も同じか近くの会社を選ばせ、数年たったのちに結婚する、というプロセスを踏むのが普通だった。

 これは、近所同士が結婚することによって、どちらかの実家が賃貸契約解除してもスムーズに合流できて、それでいて近所付き合いや生活環境が変わることを防止する、そのためだった。シアリーズの住宅には持ち家という概念がなく、全ては賃貸住宅会社を仲介とした行政からの貸出物件扱いだった。

 だからこそ、自家だけではなく他家の都合も考えることが大事なのだ。


 繰り返すが、感情を度外視すれば、の話だ。


 グーン自身、そういった多数派意見を背景にした祖母の干渉を、過度なものと受け取って息苦しく感じていたことも事実だ。そうでなければ、優秀な姉と何かにつけ比較されることに嫌気もささなかっただろうし、勉学にも躾にも厳しい日常に対する反抗をしたりしないだろうし、それによって県内有数のバカ学校と名高い訓練校に通う羽目になったりもしない。初等・中等学校時代の逃げ場は空手道場だったことを思い出した。

 そういった祖母の干渉を煩わしく思っていたグーンは、入学した訓練校で、自分よりももっと程度の低い、もっとこじらせている、もっとタチの悪い連中を見て、ああはなるまいと心に刻んだのだった。

 だからそれからは、祖母の薫陶に沿う形で、良い子を演じていたのだ。忘れていた。


 エリスの祖母の教えは、根っこの部分の考える力を育てるタイプのものだ。グーンの祖母の教えと違って、アレコレ指図するタイプのものではない。

 これは、メリ建の周囲の先輩方やエリスに影響を受けた今だからこそ、理解できる考えであって、以前の自分には理解できなかっただろうことは、自分自身が良く分かっていた。

 何しろ入社以来の問題解決に役立ったのは、訓練校での経験と、空手と、祖母の教えた価値観だったのだ。自分で判断したことはだいたい失敗している。入社式の買い物しかり、彗星カケラしかり、ソフトスーツ購入決意しかり。


 翻って先ほどの、結婚まで純潔を守るべき、という思想を考え直してみた。

 一族や近所や学校など、人間が多数集まれば、頭の良い人悪い人さまざまな程度が集まる。そんな中で純潔をどうするかは自分で判断すべき、などと声高に言い始めると、特に程度の悪い人間は水が低きに流れるように、楽なほう、楽しいほう、考えなくて良いほうに都合よく解釈して、勝手な真似を始めてモラルが崩壊する。

 だから、純潔を守るべきという対外的な表明は正しい。


 しかし対内的な方針が別にあるということは、それだけ子が信用されていた証だ。

 ということはやはり、自分はある意味、祖母に見限られていたのだろう。


 そこまで考えが至って、グーンはエリスが羨ましく感じていた。

 そんなエリスは現在ティウと、論戦の張り方なる内容で、楽しく言葉を交わしているようだった。理解の及ばない世界だが、そういう話題で知的なやり取りができることも羨ましい。

 しかしその個人主義的な考えを聞いて、本当にこれでいいのかな、危なげだな、という感想をグーンは抱いていた。


「ところで、貞操観念についての話に戻って貰って良いッスかね?」

「あ、ごめんなさい。うん、戻ろう」

「俺の方こそごめんなさいッス、楽しく話してるとこに水差して」


 グーンはエリスとティウに頭を下げた。


「さっきの話に照らすと、純潔を守るか自由にするかも、個人の判断ってなるッスよね」

「まあ、そうかな」

「ところが判断の能力がない奴もいて、そのタガを外さないためにも、普通の家庭では表向き、純潔を守ることが素晴らしいことだっていう価値観を、全ての子どもに植え付けてるワケッスよね」

「うん、学校教育ではそうだね」

「?」

「お婆ちゃんからは、学校教育はそうせざるを得ない事情があってそう教えているのだから、それはそれできちんと勉強しなさい。でも最終的には自分で判断なさい。信じるも良し、テストで良い点を取る道具と割り切るも良し、いずれにせよ妄信だけはいけないよって教えられたの」


 なんと。


「……そんな教育を受けてたんスか。子どもにゃ酷な教えッスよ、それ」

「え、そお?」

「だって、大変じゃないっすか。大人に教えられたことを守るだけのほうが、子どもにゃ楽ッスよ。言われたことを守るだけなら二ステップの労力で済むところ、言われて考えて別意見を調べて比較して判断して守るなんて、えーと、七ステップもかけてるんスよ。労力の無駄、時間の無駄って考えちまうッス。そんなの早く済ませて他の楽しいことに時間を使いたくなるモンじゃないッスか、だって学校から帰って寝るまでの時間は有限だから」

「だからこそ、子どもに楽を覚えさせないために、そう教えたんだと思うよ。初めは七ステップかかる問題でも、そういう判断を繰り返すうちに慣れてきて、もっと早く判断できるようになるんだよ」


 使わない筋肉が衰えて、いざ必要になった時に力が発揮できないのと同じように、使わない脳も衰える。だから脳も鍛えるように心がけるんだよ、とエリスは祖母に小さい頃から教えられたらしい。

 そして鍛えた脳は、鍛えていない脳よりも多くのことを早く正確に考えることが出来て、それによって最適に体を動かすことができる。


「すっげぇスパルタ教育ッスね、それ。まさか俺のほうがマシだったとは思わなかったッス」

「グーンはそう教えられなかったの?」

「婆ちゃんからは、アレ駄目コレ駄目って禁止されただけッス」


 それが子どもに鬱屈感と反発心を芽生えさせ、グーンのようにグレる結果となる。


「うーんむしろ、その禁止の羅列の中から共通性を読み取る努力を、子どもに強いているって意味では、グーンのお婆さんも同じく厳しいと思う。決してどちらがマシって話じゃないよ」

「え、共通性? 丸暗記じゃなく?」

「丸暗記は思考停止の第一歩とも教えられたよ」

「ふごっ」


 グーンは再び妙な声を上げた。


「私のそれは、禁止の羅列から共通性を読み解く、方法論を教えられた感じかな」

「ムッズカしいこと考えてたんスねぇ……」


 グーンは呆れたと言っていい。その話を聞いて自分も努力してみようと奮起するほどには、まだグーンは至っていなかったからだ。


「じゃ、一般的な貞操観念からは、どんなことが読み取れんスか?」

「簡単よね、これは政府による洗脳。でもそうせざるを得ない事情がある、必要悪」

「洗脳……」


 先の貞操観念は、全てのメインベルト人民に、共通の価値観として流布されている。

 そのために、幼年、初等、中等学校を通じてそう教育されるし、各種メディアでもそう喧伝されるのだ。そしてこのような教育を連綿とされ続けた大人からも、そう諭される。

 全ての人民と言うからには、おおむね下限とされる理解力を基準とした、つまりバカにでも理解できるスローガンが必要だ。それが純潔を守り、婚前性交渉を悪とする、単純化された考えだ。

 この共通の価値観を壊しかねない人物、考え、年齢層は、そのスローガンの信奉者自身によって厳しく規制するように仕向けられた。


 何故このような価値観を流布しなければならなかったか。それは旧時代の反省だ。

 旧時代、行き過ぎた個人主義(哲学用語ではないほうの意味。利己主義に近い)が蔓延しすぎて、自治体や国家という枠組みどころか、地域コミュニティや家庭そのもの、場合によっては個人すら崩壊しかかったという、苦い歴史があった。

 詳しくは省くが、それはもう色々な問題が噴出した。

 だからこそ人類は宇宙進出を一大契機として、例えば無線帯域を制限して全世界的ネットワーク通信を違法化することによりパーソナルデバイスを一掃したり、例えば世帯人数による累進ベーシックインカム配給を通じて核家族を冷遇し大家族を優遇したり、例えば世代間を分断することによって子どもへの過保護を抑制したり、その他もろもろを取り入れて、社会を再構築したのだ。

 冷たく広大な大宇宙は、人類が群れずに生きられる場所ではなく、個人的甘えを容認できるほど豊かではないのだ。

 今度こそ崩壊しない、強靭な社会を目指して。

 これらを総合して、政府肝いりの貞操観念による家族構成誘導、すなわち大衆操作・洗脳とエリスは表現したのだ。

 しかしエリス自身、この価値観を仕方ないこと、必要悪と割り切っていた。


 パチパチパチ。ティウによる拍手が店に響いた。思わずグーンも拍手を重ねた。


「見事な考察です。お若いのに素晴らしいです」

「ありがとうございます、でもお婆ちゃんの教えのおかげなんです」

「やっぱエリっさん頭良いッスね、なんであの教えが洗脳なのか、なんとなーく分かった気がするッス」

「なんとなーく?」

「だって半分も理解できてねッスもん」

「難しかったか、ごめんね」


 エリスは長くしゃべったことにいささか疲れたのか、ほぅっとため息をついた。


「でも結局、エリっさんの貞操観念ってのが何なのか、ハッキリしねぇんスけど」

「基本はグーンと一緒だよ。安売りはしない。でも結婚までかどうかは私が決める」

「そッスか、実はちょっと安心したッス」

「え、なんで」

「純潔を守ることが政府の洗脳なんて聞いたからッスかね。てっきり洗脳された内容の逆張りが正解って思っちゃうッス」

「決め付けも、思考停止だよ、グーン」

「ウッス」


 苦笑いを浮かべたエリスの瞳は、まるで出来の悪い可愛い弟を見るような色になっていた。


「実はお婆ちゃんの個人的な貞操観念は、違ったの」

「エリっさんと意見が一致してなかったってことッスか」

「対外的には、私の貞操観念と一緒だったよ。でも本当は、って内緒で教えてくれたの」


 一拍置いてから、エリスは話し始めた。


「お婆ちゃんは、結婚前の性交渉も積極的に経験すべき、って持論だった。全くの未経験でいるまま結婚初夜でぶっつけ本番よりは、数多くの練習を重ねるべき、って」


 そっちか!グーンは驚いた。

 ティウもまた目を丸くして話を聞いていたが、思わずといった風情で口を開いていた。


「たとえその練習相手が、特定の相手でない、不特定多数とでも?」

「え、はい、そういう解釈になりますね」

「ビックリしました、先ほどから拝聴して、ことごとく私と同じ考えの方だなと思っておりましたが、まさかそこの部分まで一緒だなんて」


 ティウは口に手を当てて驚いていた。


「本当にエリスさんとの出会いは、神に感謝しなくてはいけません」

「私こそ、ティウさんと出会えて良かった。本当にお婆ちゃんの生まれ変わりみたいです」

「それはないですよ、私はエリスさんより年上ですから。でもある意味……」

「?」


 何か意味深なセリフを言いそうになって、ティウは慌てて口を噤んだように見えた。

 ある意味、エリスさんのお婆さまとの再会を、神様がお許し下さったのかもしれません、だろうか。


「まぁ、先ほども申し上げましたが、私もセックス積極派なんです。こういう商売をしているから、ではなく」

「はい、わかります」

「私は、技能は上達してこそ技能ではないかと思っています」

「……セックスを技能と言い切りますか」

「技能です。仕事や生活やスポーツや勉強と一緒です。むしろ特別視することこそ差別です」


 ティウは婚前交渉どころか、不特定多数とのセックスまでもを肯定していた。

 とはいえ確かに言われてみれば、仕事も様々な現場を経験して腕が上がる。

 空手の組手も色んな相手と戦うことによって試合運びが上達する。

 勉強も様々な問題文を解くことによって応用力が付く。

 ならば、セックスだけが、未経験のほうが尊いなんてはずがない。

 そう思い込まされているのは、政府の都合による大衆操作、洗脳だ。


「私は納得いった。グーンはどう?」

「なるほどッス。エリっさんのお婆さんの話を聞く前までの俺なら、たかが練習で価値ある純潔を捨てるなんて破廉恥な、って思ってたところッス。でも……」


 グーンは少し言い辛そうに頭を掻きながら言った。


「言うのは簡単ッスけど、こればっかりは相手が必要なことッスし」

「あら、お相手ならいらっしゃるじゃありませんか、お互いの隣りに」

「へ?」


 その言葉にグーンとエリスは何気なくお互いを見て、確かに隣同士で座っていることに気が付き、赤くなって一斉に距離をとった。


「お二人、お似合いだと私は思いますけど」


 ティウは口に手を当ててくすくすと笑っていた。


「か、からかわないで下さいよ」

「そッス、歯止めが効かなくなったらどうすんスか」

「大丈夫ですよ、社会人一年生とはいえ、もう大人ですもの。なんならお二人に混ざって、私が手ほどきして差し上げても良いくらいですわ」


 余計に顔が真っ赤になっていく二人。

 童貞と処女の初セックスを監督指導する、経験豊かな娼婦の図。なんだそれ。やだ憧れる。


「ティウさんよ、そのくらいにしてやってくんないか」


 突然会話に参加したのは、ロリエだった。


「今ですら色ボケ猿が六人中二人もいるのに、このうえ二人とも色ボケ猿に変わっちまったら、職場が大変なことになっちまう」

「それは申し訳ありませんでした」


 ティウは叱責を受けても笑顔を絶やさない。ロリエもまた笑顔だった。つまりからかっていただけということだ。


 ティウは皆に、追加の飲み物が欲しいかを聞いた。ロリエは先ほどのバーボンをロックで、エリスはソフィが飲んでいたカルーア・ミルクを、グーンは船長が飲んでいたオールド・ファッションドを注文していた。

 一言言ったらまた背景に徹する気でいただろうロリエに、エリスが水を向けた。


「ロリエ先輩は、純潔派、中庸派、積極派のどれですか?」

「アタシ? ……アタシはどれでもないよ。それに、他人様(ひとさま)に何かご意見できる立場にねぇからさ」


 すっかり氷が溶けて薄まってしまったゴッド・ファーザーを、ロリエはクイッと飲んだ。 結局回答をはぐらかされたことに、怪訝な顔をするエリスとグーンだった。だが二人は追及することは早々に諦めた。なぜなら、それ以上話すつもりがないロリエを問い詰めても、彼女は決して話さないだろうことが、今までのパターンから分かっていたからだ。

 ティウが三人分のカクテルを持って戻ってきた。


「エリっさんのお婆さんの話、もっと聞きたいッス」

「え?なんで?」

「さっきのお婆さんの考え、俺ショックだったんス。みんなアレ駄目コレ駄目って干渉するタイプの大人ばっかりで、考えの根っこを教えてくれる大人がいなかったんス」

「……」

「エリっさんのお婆さんのエピソードん中に、なんかヒントがある気がするんス。オナシャス」

「うん、わかった……」


 エリスは、思い出せる祖母の記憶を、おおむね時系列に沿って話し始めた。


次話は、第五六話 再びのバンボ入り後編(エリスの祖母、古い曲、同族発見)です。

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