第一〇話 初操縦権(訓練校・学校)
前話は、第九話 初筋トレ(リアクションホイール)です。
「ふうー、筋トレ終了っと、エっちゃんお疲れ」
「お疲れ、様、です、これ、結構、キツイ、です……」
「お、結構良い回転数になったね、頑張った頑張った」
基礎体力に差があるのだろう、息を切らせたエリスと較べて、ソフィは汗をかいただけだった。
二人はクランクを持ってギャレー(調理室)に行き、そのまま二十分ほど出てこなかった。きっと服を脱いで清拭シートで汗を拭いているのだろう。その想像すらグーンの股間を苛んだ。
「一八三〇、右舷後方異常なし」
「一八三〇、左舷後方異常なし」
サルバとグーンが当直監視結果報告を行っていると、一人ソフィだけがキャビン(乗務員室)に出てきて、そのままコックピット(操縦室)に跳躍してきた。
汗を拭いてサッパリした顔のソフィを、別の意味でサッパリした顔のサルバが出迎えた。グーンにはもう何が何だかサッパリだ。
「二人ともお疲れ、献立の件だけどさ」
「お疲れ様っす姐さん」
「お疲れ様ッス」
ソフィはニッコリ笑って続けた。
「オカズはアタシ?エっちゃん?二人とも?」
「ぶふぉ」
「げーっほげっほげっほ」
突然の詰問にグーンは鼻水を噴出した。サルバは急激に息をのみすぎてむせ始めた。
「気付かねぇと思ったか?おめぇら就業時間にナニやってんだよ!」
「あイダイダイダ」
ソフィは声を潜めて怒鳴るという器用な真似をしながら、サルバとグーンの耳を抓り上げていた。エリスまでは声が届いてはいないはず。
もちろんサルバとグーンの二人も、声を潜めながら悲鳴を上げるという器用な真似をした。
「俺じゃねっすよ姐さん!」
「ちょ!先輩ナニ言ってんスか!」
「どっちでもいいよ、連帯責任だ馬鹿野郎!せめて消臭スプレーくらい使え!」
ソフィは相変わらず声を潜めながら怒鳴り、耳をひねり上げる手を止めてくれた。
痛む耳を気にしながら、グーンは噴き出した鼻水をポケットティッシュで拭い、丸めてポケットに入れた。
一方サルバは、まだ耳を押さえて痛がっていた。裏切りの代償だ。
「良かったな、エリスが生娘で、あの臭いに気が付かなくてよ。
サルバ、とりあえずギャレーにツラ貸せ。エリス寄こすから。
グーン、特例で操縦権限受け持って当直監視しとけ。操縦系統いじんなよ、絶対」
「イエスマム……」
操縦席の背もたれに引っかけていた肘を離し、ソフィはキャビンの床に下降していった。
そのままギャレーに引っ込んでいったソフィを見送ってから、グーンはサルバに口を開いた。
「バーレてやんの、ぷぷっぷー」
「テメ新人、先輩をかばえよ!」
「告げ口しなかっただけ、充分かばってるうちッスよ」
サルバは頭を抱えて自らの行く末を悲観した。
「くっそ、お説教かよ……ユーハブコントロール」
「アイハブコントロール、ホントに良いんスか、初日の俺が操縦権なんて」
「しょうがねぇだろ、ちょっとトイレって時間じゃ済まねんだから。エっちゃん来たから俺行くわ」
ちょうどエリスが操縦席に跳躍しようとしていたところに、サルバは降り立った。
「あ、サルバさん、ソフィさんが打合せでお呼びです」
「おう、さっき聞いてる。休憩時間なのに交代させちって悪いね」
「いえ、行ってらっしゃい」
そうエリスはサルバを見送って、操縦席に跳躍してきた。
ごそごそと這い上がり逆立ち姿勢でシートに滑り込むエリスを、グーンはあんまりジロジロ見つめないように務めた。
「いらっしゃいエリス。悪いけどモニターで当直監視の手伝い頼むな」
「うん」
「俺は左舷後方やってたから、そっちは右舷後方やって」
「了解」
しばらくの間、二人は言葉を交わさず、監視任務を遂行した。
「一八四〇、左舷後方異常なし」
「了解」
グーンの報告に少し遅れて、エリスの報告が入った。
「一八四〇、右舷後方異常なし」
「了解」
行程表に当直監視結果を書き込む音だけが、操縦席には響いていた。
「っし、次は十分後っと。あの筋トレきつそうだったじゃん、全身運動になったんじゃね?」
「うん、筋肉痛になりそうで恐いくらい」
「この業務が終わったら、俺もやるんだろうなぁ、気ぃ重いなぁ」
グーンは副操縦席で足を組む姿勢をしてみたが、微小重力下ではちっとも楽ではなかった。手はモニターの監視画面の上を忙しく動き回っているが、せめて手と目以外は楽にと思ったゆえの行動だった。
「でもグーンくんは体育科だったんでしょ?」
「あ、呼び捨てでいいって、俺も呼び捨てにしてるし」
「ありがとう。じゃあグーン」
「うん、そっちのほうが聞き慣れてて良いな」
頭の上で逆さまのエリスに、グーンは微笑みかけた。エリスの顔は思っていたより近く、慌てて顔をそむけたが、ふわりと香るエリスの髪の匂いに今さらになって意識した。
ごまかすためにも、視線はモニター監視画面に向いた。
「で話戻るけど、体育科なら体力は余裕なんじゃないの?」
「どうだろ、俺、半年前からは資格試験対策で勉強やっててさ、身体鍛えてねぇんだ」
「半年前から……そっか」
「うん、ホラ、俺の行ってた訓練校、バカばっか集まる所だったから」
グーンは照れて頭をかいた。
思い返した訓練校は、野菜や乗り物の絵に名前を書くのが入学試験という、びっくりするほどバカな学校だったし、授業内容も同様だった。
ついでに通っているクラスメイトもグーン以上のバカばっかりだった。どいつもこいつも乗り物、遊び、女、賭け事に夢中だった。勉強はからっきしのくせに、身体を動かすことだけにはやけにムキになる奴ばかりで、その傾向は空間遊泳を目当てに選択した体育科では、より顕著だった。
この会社の入社試験に合格できたのが学年で十人中グーンだけだったくらいの、おバカどもだった。
そのことを話すとエリスは声をあげて笑い、しかしこう続けた。
「でも社会に出た後の資格とか、免許とか、色々取らせてくれる学校だったんだよね」
「まぁそれが目的で入ったガッコだし、せめて資格や免許くらいはなぁ。卒業だけならバカでもできる、ってね」
グーンはそこで一度区切って、当直監視の報告の時間だとエリスに促した。
「一八五〇、左舷後方異常なし」
「了解。一八五〇、右舷後方異常なし」
「了解」
グーンはその報告を書き込みながら、エリスに次の話題を提供していた。
「エリスの通ってた学校ってどうだった?」
グーンの書く手を見つめていたエリスはその言葉で、腹の前で組んでいた自分の手に視線を移した。
「私の行ってた二女(第二女学院)は、普通の学校だよ」
「普通って、どう普通?何々科とかって専攻分かれてんじゃん?」
「二女にあるのは普通科、商業科、特進科だったから、グーンの学校ほどじゃないよ」
グーンは書き終わった行程表を戻して、モニター確認しながらそう続けた。
「商業は簿記会計ってわかっけど、フツー科やトクシン科って何?」
「普通科は公務員試験や大手企業就職を目指す科で、特進は正確には特別進学科っていって、大学進学を目指す科」
「うお、大学!」
「え、そんなにビックリする所?」
「だって大学ってことはエリートじゃん、俺には一生縁のない所だって思ってたから、そんな凄い学校出身者が同僚にいるってだけでも、自慢の種になるくらいだって」
「でも私が通ってたのは商業科だから、そんな頭のいい人たちとは一緒じゃなかったよ」
「それでも凄ぇよ、エリス頭いいんだな」
「周りの見る目はそうなのかもね、でもそのぶん、校則とかが厳しかった」
「どんなふうに?」
「色々。例えば、服装検査は毎朝だったし、バイト禁止、他校の異性生徒との交流禁止」
「俺の学校もタテマエとしてそういう校則あった気はするけど」
「それに、在学中の操縦免許取得は全面的に禁止だったんだ」
「え、そっか、そりゃ、うーん……そんじゃ肉体労働系の会社じゃ結構しんどいんじゃ?」
「そう、スタートラインから違うからしんどい」
なんだかトーンダウンしたエリスがそう呟いた。モニターコンソールを見つめているようで、でも実は見つめていないその顔は、先ほど笑っていた顔とはまるで違っていた。
次話は、第一一話 初到着(航路・航海)です。




