6.狼少女
「――クソッ、商品に手を出したニックも阿呆だが、奴の一物を噛み千切ったお前も相当イカれてるよ。一週間の懲罰房送りで自分がしたことがどれだけイカれているか自覚しろ」
男はそう言い放ち、独房へ少女を突き飛ばした。重厚な扉はすぐさま閉じられ錠が嵌められる音が響く。
のそりと少女が動き出したのは男が去って物音一つしなくなってからだ。
「……ごっほ、ごほ」
咽れば口中に血の匂いが充満し、息を吸い込めば懲罰房の淀んだ空気と湿った水気が彼女の鼻を殴打した。
全身が軋むように痛みを訴えてくる。普段からここの男たちは反抗的な奴隷に対する対応が酷かったが、実際に反抗した奴隷を懲罰という名目で暴行を振るうのに良心の呵責は感じないようだ。
少女の両手は後ろに回され皮手錠で拘束されているため動かない。なので芋虫のように這うことしか出来ず、その動作はどうやったとしても傷に響いた。
懲罰房の中に光はない。空気を取り入れるための小窓さえなく、部屋内の空気はいつまでたっても淀んだままだ。唯一光が差す可能性がある扉の覗き窓でさえ今は硬く閉じられている。
頭がおかしくなりそうだった。周囲から隔絶した独房は喧騒さえ届かず、暗闇に一人いるのは否が応にも自分が一人なのだという現実を知らしめてくる。
「……わたしはだいじょうぶ。わたしはつよいから、だいじょうぶ」
幼い頃、母から言い聞かせられた狼の生き方は強くて気高いものだった。それを思い浮かべ少女は必死に自己暗示をする。
それでも無意識に尻尾が縮こまり太ももに引っ付いた。
時間は緩慢に過ぎていく。ここでは昼も夜も分からず、無音の暗闇の中では自分さえ忘れそうになる。少女に時間という概念を思い出させてくれるのは日に一度の食事の時だけだった。
ギギィと重たい金属扉が開けられ、自分の鼓動以外の音に毎回ハッと覚醒する。
冷めた料理が載ったトレーは地面に置かれ、這うことしか出来ない少女は犬のようにトレーに顔を寄せて食事を取る。
食べ終わればトレーは直ぐに下げられ、水の入った器だけが残された。最低限衰弱死だけは防ぐためのそれは少女にとっては唯一つの遊びだ。次の食事まで少しずつ舐めるように水を飲んでいく。何かを能動的にするだけで、一人でいることの恐怖が薄れた。
「――まるで獣だな」
「―――」
暗闇の中、食事の六度取り七度目に扉が開いた。
少女をここに運んできた男が首を掴み彼女を引き起こす。喉は唸るが腕を振り払う力は出ず。為すがまま、少女は引き摺られた。
「新客だ。もしかすればこんなクソッタレな環境から抜け出せるかも知れないぞ。せいぜい気に入られるように努力するんだな」
どの口が言うのか。お前もこの最低な環境を作っている一員だ、なんて言葉が飛び出そうになるのを咄嗟に堪える。
悪臭が漂う身体に冷や水をかけられ、汚れをあらかた洗い流した後で、少女は奴隷たちが詰め込まれている商品部屋に押し込まれた。
左右に商品である奴隷が並べられ、中央には客が通る廊下、それを隔てるように金属製の格子が嵌められた部屋だ。少女はその部屋が何よりも嫌いだった。
人に怯えるもの。客に媚びるもの。現実を否定するように無気力なもの。そしてそれをジロジロと無遠慮に眺める客たち。その全てが少女には理解できない者だった。
いつものように少女は部屋の隅で蹲る。ここにいるのは嫌だが、嫌な視線ばかり向けてくる人間に買われるのはもっと嫌だ。
じっと、腕の隙間から新客だと言われていた人間を観察する。男で、腰に剣を佩いている、どうやら武芸者のようだ。目線を向けているのは男の奴隷ばかり、男色の客かと思えば、稀に女も見ている。
奇妙な客だ、と少女は内心首を傾げた。
店の中で、それなりに上等な品は入り口付近に置かれているものだ。普通男なら思わず立ち止まってしまう美女だっているはずなのに、あの男は一度も立ち止まらずにゆっくりと歩き続けている。残すのは低品質という烙印を押された少女が入っている格子の部屋だけだ。
コツコツと脇を歩く商人の足音が響く。そして格子の前で立ち止まり―――。
その日、狼少女は一人の剣士と出会った。
◇
新米探索者であるロイは毎日休む暇もなく動き回っている。ダンジョン以外にも探索者は武具や消耗品などの準備の為に割く時間は多く、土地勘のないロイは地元の探索者よりも余分に時間を費やす必要もあった。
他にも同業者に知り合いが増えつつあるロイは彼らとの付き合いにも時間を使う。ダンジョンの情報収集や、同業者の荒事など注意すべき情報は多く、何も知らない子供だったロイには見聞きする全てが物珍しく感じた。
買い込んで来た荷物を部屋に置いてきたロイは下で待っているはずのライラと合流すべく階下に下りる。
「あれ?」
ロイを出迎えたのは少しだけ困った顔をしたノエルといつも通りのリオン、それと彼の後ろに隠れるように立っていた少女がいた。
「あっロイ」
「どうも。なに、この状況? その女の子はどこから攫ってきたのさ」
「おや、ロイは私がそんなことをするとでも? だとしたら心外ですよ、まさか人攫いなんてことをする人間に見られていたなんて悲しいです」
「そんなこと一ミリも思ってない癖に。それで? その手の怪我といい、今回は何をしてきたのさ」
ぞんざいに口にすれば何故か後ろにいた少女が肩を震わせた。
当の本人は気にもせずに怪我をした手をひらひらと振り、何事もなかったような反応を返す。包帯も巻かれず大した処置もされていないその傷からは、今も少量ずつだが血が流れ出ており、怪我をしてからそれほど時間は経っていないようだ。
「どう考えても噛み傷なんですけど。リオンさん、今日はダンジョンに潜らないって言ってませんでしたっけ」
「ホントだ。あと少しで噛み千切られるぐらいにはがっつりいかれてるね」
人間の子供程度の大きさだが、牙は鋭利だったのか獣染みた傷跡になっている。詳しく見ようと手に触れようとすれば想像以上に痛むのか、リオンは静かにロイの手を振り払う。
「私は治療を済ませたいので。その間、この娘の世話をお願いできませんか?」
「……犬人?」
「違いますよ、ロイ。多分ですけど狼系じゃないですか?」
リオンに押し出されて姿を現した少女は獣の耳を警戒させるように立ててこちらを睨んでいる。
ボロ布を身に纏い、全身が砂と垢に汚れたみすぼらしい姿はとても真っ当な生活をしていたとは思えない。頼りない布から見える肌には至る所に暴行の跡が残され、首下には一際目を引く無骨な首輪が嵌められている。
「奴隷ですか?」
ノエルが少しだけ動揺した様子で尋ねる。
「先ほど引き取ってきました。奴隷とはそれなりにするんですね、おかげで資金が尽きかけました」
「ええ…なんで急に。昨日までそんな話してなかったよね」
「前々から考えてはいたんですよ。ダンジョンを潜る上に人手が必要で、戦えなくてもポーターとして使えばいいですし、奴隷なので危険な目に遭っても文句は言えませんから。とはいっても、彼女が死ぬときは私も死んでいるとは思いますけど」
「……奴隷って話には聞いていましたけど本当に雑に扱われているんですね」
ノエルが少女の頬を指差しながら言った。
言われてみれば彼女の頬は強く打たれたように赤く腫れており、見るからに痛々しい有様になっている。
「それは私がやった傷ですね」
「へ?」
「手を噛まれたので已む無く。中々口を離そうとしなかったので…私の手ってそんなに美味しく見えます?」
おどけた様子に隣にいた少女は気分を害したように鼻を鳴らす。
どうやら警戒はしているが怯えてはいないようだ。
「……物は良い様。噛まれた手をそのまま喉に押し込んで、嘔吐いたところを殴った人間の言葉とは到底思えない」
「リオンさん…女の子になんてことを」
「正直僕もドン引きだよね」
「あれ、私に味方はいないんですか。噛み癖が酷い犬に噛まれた時は無理に振りほどくより押し込んだ方がいいと聞いたんですけど」
「そうだけど、普通女の子にやる?」
ようやく喋った少女の言葉を皮切りにリオンを責める言葉が二人から飛び出す。
昔から村の狩人に着いて山に入っていた彼のことだ。彼の持っている知識の多くは経験に由来した効果的なものだが、その殆どが過激であり、自分が他者にどう思われようと気にしない節があった。
「ということで彼女の世話をお願いできますか? いい加減手当てをしないとやばそうなので」
リオンはそういい手を上げた。
会話をしているうちに悪化したのか、彼の手は見て分かるほど腫れている。
「はいはい、分かったからさっさと手当てしてきなよ。こっちは適当にしとくから、いいかなノエル」
「大丈夫ですよ」
「出来れば口を重点的に綺麗にしてもらえると助かります。また噛まれるのは流石に御免なので」
ふらふらと覚束ない足取りで階段を上っていくリオンの姿を最後まで見送る。余り見かけない彼の弱弱しい姿に少しだけ気をかけつつ、ロイは目の前の狼少女に視線を戻す。
「正直、リオンが君みたいな女の子を連れてきたのは予想外としか言いようがないんだけど……それは置いておいて自己紹介から始めようか。僕はロイ、探索者だ。リオンとは別々にダンジョンに潜っているけど宿は同じだから今後も顔を合わすことになると思うよ」
「同じく探索者のノエルです。見ての通り犬人なので、困ったことがあれば相談してください」
「…それで、君の名前は? リオンが何も言っていかなかったからなんて呼べばいいのかも分からないんだ」
「……イルゼ」
「イルゼね。ノエルからすればその耳は狼系らしいけど」
「母は人狼だったから多分そう」
「ふーん…ねえノエル、人狼と犬人で何か違いとかってあるの?」
獣人でもないロイには種族間の差異というものが外見以外では判別できない。
だからこそ犬人であるノエル本人に聞いた方が早いと判断した。
「そこまで大きな差はないですよ。外見上は目が鋭かったり、毛並みが良かったりしますけどそれも個人差止まりですし。ああでも、人狼は犬人よりも身体能力が高かったり五感が鋭かったりしますね。彼らの多くは狩猟民族ですから、日常的に使うことが多いんでしょう」
「……ああ、それでリオンはこの子を選んだのか」
「どういうことですか?」
ノエルは首を傾げたが、ロイはリオンが少女に何を求めているのかを知り納得する。
数日前のモンスターハウスの一件からなにやら悩んでいたのは知っていた。それがダンジョンに関わる事柄なのは彼の日頃からの行動を見れば自明だろう。なんせこの都市に来てからダンジョンに潜っている時以外は寝るか物を食っているかのどちらかなのだ。
ソロでやっていたリオンが仲間を得ようとして、考えた先が奴隷を買うこと。しかも買ったのは少女とはいえ、身体能力に優れた獣人だ。
実に面倒くさがり屋な彼らしい選択だった。
「言ってたでしょ、ダンジョンに連れて行くって。どうせリオンのことだから明日にでも訓練を始めてそれなりにでも動けるように仕立て上げるつもりだよ。それこそ自分と同じくらいは動けるようにするんじゃない?」
「そんなまさか」
「割とそうだと思ってるけど」
「こんな子供が探索者にすると言われてもピンと来ません。それにリオンさんについていくとしたら並大抵の力量じゃ直ぐにでも死んじゃうのでは」
ノエルは信じられないといった顔で数歳しか歳が変わらないであろうイルゼの頭を撫でた。
撫でられた本人はその手を不快気に睨みつけていたが。
「……私が探索者に?」
「多分だけどね。まぁ、それも明日以降の話だよ。今日は身体を綺麗にしてご飯を沢山食べて寝るのが君の仕事だ。ノエル、悪いけどこの子の着替えに服を一着貸してあげてくれない?」
「別にいいですよ」
「ありがとう。なら裏で水浴びをお願い。流石に男の僕がやるのも問題だし。その間に僕は少しだけ上の様子を見てくるよ」
「わかりました」
言い終わると着替えと布を取りにノエルは上に走っていく。
その姿をイルゼはじっと見つめていた。
「……一応言っておくけど逃げようとしない方がいいよ。話に聞く限り逃亡奴隷は悲惨だ。僕もまだここに来てからは短いけど、その間に何度も逃げ出した奴隷が酷い目に遭っているのをみたことがある」
逃亡奴隷に人権はない。
奴隷であるうちも権利などないに等しいが、それでも奴隷は持ち主の所有物だ。それを他者が勝手にする権利はなく、権利者以外が許可もなく暴行でも働けばその時点でその者は犯罪者になる。
だが、主人から逃亡した奴隷はその限りではない。所有物という庇護下から抜け出した奴隷は、例え道端で突然殴られても衛兵は守ってくれない。
奴隷が安全に道を歩けるのは主人の監視下にあるときか、または首輪を外され奴隷から解き放たれた時だけだ。
「……知ってる。逃げるつもりはない」
「そう、ならよかった。まぁリオンのことだから、適当にダンジョンに付き合っていれば直ぐに首輪も外してくれるよ。あの人は欲求が剣に振り切った人だから」
「う、ん?」
「ハハ、すぐにわかるよ」
目をパチクリさせ首を傾げるイルゼを笑いながらロイはノエルが戻ってくるのを待った。