少女は雨に濡れるだけ
「あはははっ」
少女はお気に入りのワンピースが濡れるのにも構わず、一面の曇り空の下でくるりと体を一回転させた。
遠心力に従ってスカートは広がろうとするが、水を吸ったスカートは重く、べちゃりと少女の太ももにへばりついた。
だが少女は不快感を露わにするでもなく、ますます楽しそうに顔を綻ばせるのであった。
大地が、植物が、動物が空からの恵みに歓喜した。
雫が一滴地面にしみこむたびに地盤は緩む。しかし恵みは永遠に続くものではない。いずれ空には太陽が覗き、乾いたときには一層地盤が引き締まるのだ。
低木に住んでいる蜘蛛は、どうやら巣を作り直す必要がありそうだ、とため息をついた。
少女の可愛らしいスニーカーがステップを踏むたびに地面は少女の痕跡を残し泥をあたりに撒き散らす。
靴下がぐじゅり、と音を立てれば、それが面白いのかその場で何度も足踏みをする。
ぐじゅっ
ぐちゃっ
ぐちゅり
スニーカーは一点の白さもなく泥だらけになってしまった。
少女はその惨状をまじまじと見つめて、まあいっかと白い歯を見せて笑った。
家に帰ったときのことは頭の隅へ追いやった。
普段は子どもで賑わうこの公園に少女を除いて人影はなかった。
貸切となった公園を少女は駆ける。
いつもは順番待ちのブランコも今日だけは彼女だけのもの。
少女はブランコに泥まみれのスニーカーを押し付けて立つ。屈伸するとブランコは少しずつ加速していく。
振り子のようになったブランコはなされるがままだ。十分な角度がついたところで少女はパッと手を離し前方に跳んだ。
少女は風に吹かれるたんぽぽの綿毛のように宙に舞った。その勢いのまま空へ、宇宙へ吸い込まれていっても全く不思議ではないと思った。もっと高く。もっと高く。
しかし永遠にも感じられたその瞬間は、無慈悲な物理法則によって打ち砕かれてしまう。
お前はたんぽぽの綿毛のように軽くはないと、重力が強引に少女を現実へと引きずり落とす。
機械の翼すら持たない少女はその暴挙になされるがままだった。
重力からは何人たりとも逃れることはできない。
よお久しぶりだな、と地面が少女に激突し、いささか過激な挨拶をする。
ぬかるんだ地面が少女を包み込み衝撃を和らげた。
べちゃぐちゃあ
少女は一瞬なにが起こったのかわからなかった。手のひらや膝小僧にじわじわと伝わってくる痛みに気づくと少女は顔を歪ませてわんわん泣いた。
その目から溢れた涙はすぐさま洗い流される。少女の涙を隠すかのように。
しばらくすれば痛みは引いてきたようで、愚図りながらも泥だらけの手で目元を拭った。
少女は立ち上がった。空の下にいるだけで彼女の汚れは洗い落とされてゆく。
ふと、自分の顔が水たまりに映っているのに気づいた。
少女は水たまりを覗きこむと向こう側の少女もこちらを覗きこむ。
「おーい!」
少女は水たまりの向こう側に呼びかけた。でも向こう側から声が届けられることはなかった。
向こう側の私はなんて失礼な女の子なのかしら、と少し憤慨して少女はあっかんべーをする。
当然水たまりは少女を映して、からかい返した。
「真似しないでよ!」
水たまりは少女をさらに苛立たせるのをわかっていながら、動きをそっくりそのまま真似した。少女は怒って水たまりを踏み潰した。そしてその場を去る。
残された水たまりは黒い空の真似をした。
不機嫌になった少女は帰路についた。
濡れたアスファルトがどこまでも黒く鈍く輝いた。
擦りむいた手のひらと膝小僧には瘡蓋が作られ始めている。
雨に濡れてヒリヒリする傷は、早く絆創膏を貼ってくれと悲鳴をあげて少女に訴えかける。
「あっめあっめ ふっれふっれ かあさんがー……」
少女は雨にちなんだ歌を口ずさむが、後で母親になんて言われるかと想像して、ほんのちょっぴり憂鬱になった。
少女は俄かに眩い光を感じて、空を仰ぎ見た。少女の頭上には変わらず分厚く黒い雲が居座り水をぶちまけている。
しかし頭上よりずっと遠方に、日輪が雲の切れ目から顔を見せていたのである。
日は雨粒を照らしてガラスの破片のように虹色に輝く。濡れたアスファルトは光の反射のせいか宝石のような魅力を放っていた。
太陽への喜びは老若男女共通のものだ。少女もまた例外ではなく、この驚喜をすぐにだれかと共有したいと力走した。
「おかあさん、今すぐ外を見て!」
家事を中断して玄関先に立った少女の母親は、帰ってきた娘の惨状に絶句した。そして娘にどう諭したらいいものかと頭を悩ませるだろう。
目をキラキラと輝かせる娘を見て、母親はため息をついた。
そんな母親の気も知らない少女は、びしょ濡れの体を震わせて、小さくくしゃみをした。
明日は晴れるだろうか。