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絶命日

作者: 阿井りいあ


 希美子さんが、来週末七十歳の誕生日を迎える。

 その三日後、「絶命日」を迎えるのだそうだ。

 私はそれを、喜んで良いのか悲しんでいいのかわからない。

 



 いつからだったかはわからない。私は世の中の事に疎いから。でも、七十歳になったらいつでも死んでいい、という法律が出来たのが、割と最近だという事くらいは知っている。


 昔は、おじいちゃん、おばあちゃんになったら、自分の死後の事を考えて「終活」ということをしていたらしい。これでいつお迎えが来ても大丈夫。とはいうものの、それがいつなのかわからない恐怖。事故や病気で苦しみながら死ぬのは嫌だって、人は思い始めた。


「病院代だって馬鹿にならないもの。それに、病気にビクついて、好きなものを食べられないとか、やりたい事が出来ないなんて勿体無いわ」


 希美子さんはいつも、そんな風に言って滅多に病院には行かなかった。


「でもおばあちゃん、腰が痛いんでしょ? 一回くらい診てもらえばいいのに」

「この歳になったらあっちこっち悪くなるものなのよ。病院に行ったら、あっちも悪いこっちも悪いって余計な薬を買わされちゃうじゃない? 生活するのに問題なければ必要ないわ。湿布でも貼っておけば大丈夫だから」


 今より楽になるならもらっておけばいいのに、と私はいつも思っていた。けれど彼女は、長生きしたいわけじゃないのだから好きに生きるわ、と顔を綻ばせて言うんだ。


 「死んでもいい権利」が出来る少し前は、自殺者多数でそれが社会問題になっていたと聞く。これは私も何となく聞いた覚えがある。

 天寿を全う出来るとしても、それがいつになるかわからない恐怖。覚悟が決まる前の突然死。室内なのか、外なのか。事故で怪我に苦しむのか、病で苦しむのか。


 先のわからない苦しみの恐怖に耐えられない人が多くなって、自殺者が増えたんだそうだ。


 増え続ける税金。老人向けの政策。減っていく子どもと既婚者。


 それらを解消するために定められた法律が、「七十歳を迎えたら死んでも良い権利を持つ」というもの。……だったと思う。


「未来を作っていくのは若者なのに、当選したいがために老人に優しい世の中を作り過ぎなのよ。選挙権も老人は剥奪したらいいんじゃないかしら」


 希美子さんはおっとりとした優雅な雰囲気を漂わせつつも、こうして時々過激な事を言った。私は曖昧に笑いながらそれはどうだろう、と思っていた。


 七十歳の誕生日を迎えた人は、その後いつでも死んで良いし、そのまま生き続けても良い。もちろん、死ぬ事を選んだ人は、然るべき場所で、然るべき手続きをしなければならないけれど。

 賛否両論のある政策だったけれど、恐怖のあまり適当な場所で自殺し、人様に迷惑をかける人はかなり減ったみたいだった。七十歳まで耐えれば、楽に死ねるからって若者の自殺者も少し減ったという。


 ちなみに、その死ぬ手続きっていうのは中々に面倒なものらしい。戸籍を辿ったりだとか、遺書の用意とか、遺産相続とか? まぁ、役所の手続きなんてそんなもんだ。

 ただ、お金も結構かかると聞いた。死ぬのにさえお金がかかるだなんて、これもまた妙な話だと思う。あとはよくはわからない。私はこの手のことに疎いから。


 だというのに、面倒な手続きをしてでも眠るように最期を迎えられる安楽死を求める人は多かった。いつ死ぬかわからない恐怖に晒されるより、自分の死ぬ日を決められるなんて最高じゃないかって。


「老人は暇なのよ。そのくらいの手間なんかどうってことないわ」


 なるほど、それは一理ある。けどその暇な時間に、老後の楽しみとか、友達とのお茶会とかはしないのかな?


「老人の暇な時間は通院に使われるのよ。勿体無いと思わない? 私はそのくだらない通院用の時間を使って遊んでるから平気よ」


 彼女の病院嫌いは筋金入りだった。


 そういえば以前、朝のニュースで言っていた。最近では自分のお葬式に本人が参加するのが流行してるとか。

 ……それは、どんな気持ちで参加するのだろうか。とんでもない自虐ネタにしか思えなくて、笑えもせず、泣けもしない混沌とした葬式になる未来しか見えないのだけど。

 いわゆる渾身の「老人ギャグ」ってやつだ。周囲の迷惑を考えた方がいいし、その案を実現した企画者は少し考え直した方がいい。少なくとも私はそう思ったね。


 けどこうして、「死」に対するイメージが少し明るくなっていったんだ。楽に終われる、その事実が人々の心を軽くしたんだろうね、きっと。


 だけどね、死ぬのは権利であって、義務じゃない。

さっきも言ったように、いつか来るその日まで、生きたいと思う人は生きていても構わないのだ。運命に身を任せ、それが事故や病気、寿命かもわからないけど、死ぬ時がその時なのだ、と考える人もたくさんいる。

 残される家族は引き止めるも勧めるも、色々あるだろうけど、死ぬかどうかを決められるのは本人のみ。そりゃそうだ。権利があるんだから。


 そうして、死ぬ事を選んだ人は、死ぬ日も自分で決められる。誕生日の真逆であるその日を、人は「絶命日」と呼ぶようになった。


「希美、おじいちゃんは七十歳になる前に病気で亡くなってしまったでしょう? おじいちゃんの事は大好きでしたし、私がそうしたいから自宅介護をしたけれど、そりゃあもう大変だったの。その時にね、思ったのよ」


 誕生日に死ぬ事を選んだと彼女が告げた時、語り始めはこんな感じだったと思う。


「私は、家族にこんな苦労をかけたくないわって思ったの。いつまで続くかわからない病の苦しみを味わうくらいなら、眠っているうちに気付いたら死ねる安楽死を選びたいもの。私は臆病者ですから、出来れば痛いのも苦しいのも嫌なんですよ。そう、ただそれだけなんですよ」


 そうやって嬉しそうに微笑んだ彼女を見たら、もう誰も何も言えなくなった。


 それでもみんな、それなりに引き止めはしたけれど。これから楽しい事がいっぱいあるかもしれないとか、病気になってからでもいいんじゃないか、とか。みんなおばあちゃんが大好きだからね。


 でも彼女は元来頑固な性格で。

 自分の意思を曲げる事はなく一人で着々と準備を進め、ついにこの日を迎える事となったのだ。




「ふふ、綺麗な絶命院でしょう? どうせなら奮発して素敵なところで死にたいと思ったの。近場にあってラッキーだったわ。最期の運をここで使えたのね」


 希美子さんの誕生日当日。この日から入院する事になっていた。絶命院には三日間お世話になる。二日目は段取りの確認の為に。そして最期の一日に安楽死する。

 え? 絶命院が何かって? そんなの決まってる。安全に安楽死出来る施設だ。……安全に安楽死ってすごい字面だけどね。


 病院でも安楽死は出来たのだけど、それだとどうしても追いつかないからって新たに建てられるようになった施設が絶命院。お医者さんも絶命科なる分野が出来たらしい。


 彼女は今やたくさんある絶命院の中でも、高級な場所を選んだみたいだった。その代わりお葬式はしなくていいと言い張った。知人にも説明済みだから、と。

 でも、どうしてもという家族の意見に珍しく折れた彼女は、それなら近しい身内だけで、と妥協案を出した。しんみりしたお別れは嫌なのにって文句を言っていたけど、お葬式の日くらい残された遺族にしんみりさせてやるべきだ。


「だって、せっかくだもの。最期まで心から笑っていたいじゃない」


 希美子さんの死に目標は「明るく笑顔で」らしいからね。それは家族の負担の方が大きくない? とは思ったけど、死に逝くのは彼女なのだし、そのくらいのワガママは許せるかな?


 だからその日の夜は、みんなで誕生日ケーキを囲んで楽しく過ごした。彼女の大好きな、イチゴのショートケーキだった。


 二日目の段取りも問題なく終えた絶命日の前日。少し話したくなって、私はみんなが家に帰ってから一人、希美子さんの前に現れて口を開いた。本当にいいの? って。


「……あら。なぁに? 今更よ」


 それはそうだろうけど。直前になって怖気付いて、やっぱりやめた、ということが出来ないように、入院前に契約書を書かされるから本当に今更なんだけど。


 それでも聞きたかったんだ。どうしても。

 死ぬのは、怖くないのか。寂しくないのかを。


「やだわ、おかしな事を聞くのね?」


 コロコロと笑いながら、希美子さんは朗らかに言った。


「死が終わりだとは思わないの。私にとっては新しい出発なのよ。そりゃあ怖いわ。でもね、それは入学式や、入社式、結婚式の時と同じ怖さなの。新しい環境に立たされる前は、いつだって怖いものなのよ」


 希美子さんはそんな風に言うけれど。

 私はやはり死ぬのは怖いと思う。自分がこの先どうなってしまうのか、このまま消えてしまって、無になるだけなんじゃないかって。今もよく考えるから。


 無になるのは、怖いって。


 死んでも、残された人の中に思い出は残る?

 きっと生まれ変わる? なぜそれを知り得るのだろう。

 成仏した後のことなんて、誰にもわからないじゃないか。


 私は死ぬのが怖いよ、と素直にそう溢せば、彼女はそうね、と一言答えて、それから穏やかに微笑んで私に言ったんだ。


「それはきっと、一人になるからだわ。本当の一人に。孤独に。だから、お願いするわ」


 ────私の最期の瞬間まで、側にいてちょうだい。




 三日目がやってきた。

 希美子さんの願いを叶えたいから、私は今日の朝からずっとベッドの近くにいた。


 朝ご飯を食べ、歯磨きをして、顔を洗って。

 それから……死化粧をして。


「生きてるうちの死化粧も悪くないわね」


 そう言って微笑んだ彼女は、確かにいつもより綺麗に見えた。


「じゃあ逝くわね。今までありがとう。しっかりやるのよ?」


 別れ際は、ちょっとそこまで行ってくる、くらいの気軽な態度だった。だけど家族はそういうわけにもいかない。

 やっぱりやだよ、とわんわん泣いたり、何も言えずに黙って涙を堪えていたり。


 私はその様子を、ただぼんやりと眺めていることしか出来なかったから、一番薄情者かもしれない。


 それでは離れてください、と医師が言うのでみんな部屋の外へと出て行った。ちゃんと最期は看取れるようにガラス張りになっているけど、彼女の近くには絶命科の医師と看護師さんしかいない。

 昨日言っていた、「本当の一人になる。孤独になる」という言葉の意味を、なぜか今深く理解出来た。


 こうして希美子さんは、自らの望み通りに息を引き取った。苦しむ事もなく、眠るように。


 ちょっとそこまで行ってくる、といったように────




『やっと、貴方と触れ合えるわね』


 希美子さんは、それはそれは嬉しそうに言った。


『貴方が視えるようになってから、ずっと私が貴方を導いてあげたいと願っていたの。待たせてごめんなさいね? 私ったら健康だから、七十まで死ぬ気配もなかったんだもの』


 そうして差し出された手を、私はやれやれといった気持ちで見つめ、そして手を取った。


「君は本当にやる事なす事突拍子もなくて。だから心配だっただけだよ」

「そうかしら? 楽に死にたいと思っただけの、ただのぐうたらですよ、私は」


 ぐうたら、ね。私には、そうと決めたら一歩も譲らない頑固なおばあちゃんとしか思えないけれど。

 まぁ、そこが素敵なところでもあるんだけどね。


「君だけ楽に死ぬなんて狡いな。私はかなり苦しんだのに」

「貴方のおかげで私は死ぬ権利を使う事を決められたのよ? 貴方の苦しみとの戦いは、貴方の妻を苦しみから救ったのよ」

「物は言いようだ」


 まったく、私は昔からずっと彼女には敵わないのだ。死んだ後の今もそれは変わらないだなんて。


「さぁ、逝きましょう? 決して手を離さないでくださいね」

「どうしたんだい? そんな可愛らしい少女のような事を言うなんて」


 からかって笑えば、彼女は頰を膨らませて言い返してきた。


「確かに私はいつの間にか貴方よりおばあちゃんになってしまいましたけど、女の心にはいくつになっても乙女が住んでいるものなのよ」

「悪かったよ。少し意地悪をしてみたくなっただけさ。君はいくつになっても可憐だよ」

「またそうやって誤魔化すんだから」


 じとりとした横目で私を睨む希美子さん。でも、私はそれすら愛おしく感じた。


「手を離さずにいたら」


 彼女は睨むのをやめて、ポツリと呟いた。


「生まれ変わった時、また近くにいられるかもしれないでしょう?」


 ────ああ、それはいいな。


 私の返事は空気に溶け込み、互いの手を強く握る感覚だけが残る。


 「死」とは、孤独だ。その筈なのに私は今二人で一緒に消えようとしている。彼女のおかげで。




 今日は希美子さんの絶命日。

 喜んでいいのか悲しんでいいのか。相変わらずよくはわからないけど。


 今消えて逝くこの瞬間、私は確かに幸せだった。

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