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Bright blue

作者: さとひ

 本は魔法の神器だと私は思います。ページを開くだけで私の知らない世界へ連れ出してくれる、そんな素敵な魔法をかけてくれます。だから私は本が好き。



 日曜日、祖父の代わりに店番をしながら私はお気に入りの一冊を開く。

 店番、とはいえ午後になっても誰一人この店に来ていないから、ほぼ図書館で読書をしているような具合だ。

 特にこれといった特徴はないけれど代々継がれている古ぼけたこの古書店はもう創業百年を超えていると聞く。床は少し軋むし、棚も蔵書も随分と古ぼけているものばかり。蔵書数は一万冊以上あるけれど、最近の本は一冊もなく、どことなく色褪せた雰囲気を纏ったものばかりだ。

 でも、私はここをとても気に入っている。

 私が幼い頃、店主である祖父にこの場所に連れられて私は本に出会った。

 本を開くと、いつもそこには私の知らない素敵な世界が広がっていて、そこを自由に飛び回ることが出来た。弱くても強い敵に立ち向かえたし、そう賢くなくても難事件を解決できたり、人付き合いが苦手でも唯一無二の親友ができたりした。不思議な魔法がそこには詰まっている。

 それから私は本の虜となった。

 私の人生には本がいつもあった。

 でも正確に言えば、本しか、なかった。本の虫になってしまった私は本の世界に取り憑かれたように生きるようになり、いつしか現実世界を拒否するようになった。

 そうしていたら、いつの間にか自分の中の感情というものが泡となって消えていった。書物の世界にしか感情移入しなくなったのだ。

 仕方ない、現実世界はあまりに刺激が少なすぎる。

 そして、こうやって今、十九歳になった訳だがどうしようもない人生を送っている。

 それでも、今こうして本に囲まれて祖父の手伝いをしているのはそれなりにやりがいがある。本は好きな時間だけ読めるし、無駄な人付き合いをしないで済む。私の人生はそんなものでよかった。

 すると、

 「ごめんください」

 いつも来るようなお年寄りとは全く違う高い声。子供のようだが、ずいぶんと落ち着いた話し方だ。足音が小気味悪い古書店に響く。こちらにいますよ、と言おうとしたのだが数日間まともに声を出していなかったせいか、空回りしてひゅーと喉が音を立てた。

 暫くして、その声の主がひょっこりと棚のあいだから姿を現した。膝丈の黒のワンピースを身にまとったツインテールの小さな女の子。小さなポシェットを左肩から斜めに提げている。

 私は声が出てくることを祈りながら、軽く咳払いをした。

 「あ、い、いらっしゃい」

 よかった、声が出た。情けなく酷く、か細いけれど。と思ったのもつかの間、少女は表情を変えないまま私の目をじっと見つめた。他人の目を見るなんていつぶりだろうか。五秒、十秒。

 「あ、あのっ」

 沈黙を打ち破ったのは少女からだった。ポシェットの紐を持つ手を更にぎゅっと握りしめている。

 「ここに魔法の本があるって本当ですか?」

 魔法の……? 児童書、だろうか。でもあいにくここではその類の本は扱っていない。

 「魔法の本、ですか?」

 「はい! おばあちゃまが言っていました。ここには魔法の本があるって」

 魔法の本、だなんて。十年以上ここにいる私でさえそんなこと知らない。からかいに来ているのかと少し疑ったけれど、少女の真剣な目にそれはすぐに撤回した。

 「少し、わからないですけれど一応探してみますね。その、魔法の本。少し待っていてください」

 私はカウンターの椅子から立ち上がり少女に近づく。少女は相変わらず私の方をじっと見ている。近づくと少女が私の腰ほどの高さしか身長がないことに気づいた。随分と幼そうだ。自然と私は彼女の目線まで屈み、目線を合わせる。改めてみるととても綺麗な子だ。茶色がかった長い髪と吸い込まれそうな大きい瞳。透き通るような白い肌。

 「どうかしました?」

 少女は首をかしげてまた私を見つめる。

 ふと、鈴がなるような心地よい声だと思った。

 「あ、いえ。よかったらカウンターの椅子に掛けて待っていてください」

 少女の瞳に映る自分を見るのが気恥ずかしくなって私は立ち上がり、カウンターへと彼女を促した。古書の並ぶ棚へと足を進める。

 「魔法の本……」

 取り敢えず「ま」のカテゴリー部分を一通り探してみたがそれらしい本は見つからない。というより、そもそも何も情報がないのに本を探すなどあまりに無謀すぎる。この蔵書数だ。とても簡単に見つかるとは考え難い。

 少女を長時間待たせるわけにはいかないので、ここは一旦身を引くことにし、カウンターへと戻った。

 少女は大人しくカウンターの椅子に座っている。手元を見ると小さなビニール製の包みを握りしめていた。

私が来たことに気づくと、再び私の目を見た。

 「すみません、今は見つかりそうになくて。また今度きていただけますか? 祖父に一度聞いてみますので」

 「今度って明日でもいいですか?」

 少々食い気味に少女が聞く。

 「いいですけれど、そんなにすぐには見つからないと思いますよ。でも、貴方がそうしたいというならいつでもいらしてください。それほど人が来るような場所でもないですし、本屋に出入り制限などありませんから」

 言い終えてから、こんな長文を話したのはいつぶりだろうとふと考える。

 「ゆりあです」

 「はい?」

 「貴方、じゃなくて……その、ゆりあです。私の名前」

 少し恥しそうに、そして顔を強ばらせながら私を椅子から見上げた。これから何だか長い付き合いになりそうだなと直感的に思った。

 「ああ、それは失礼しました。ゆりあちゃん」

 珍しく口角を少しだけ上げてみる。そして、「私は暦です」と返した。

 「こよみさん、ですか。素敵なお名前ですね」

 ゆりあちゃんは安心したようでようやく笑顔を見せた。可愛くて素敵な笑顔。

 「そうだ。暦さん、飴よかったらどうですか? イチゴ味もリンゴ味も、それから薄荷などもありますけれど」

 どうやらさきほど持っていた包みは飴玉のものだったようだ。ゆりあちゃんは下げているポシェットをひっくり返してカウンターに中身を全部広げた。どうやらこの中には飴玉しか入っていないようだ。

 「お勧めはありますか?」

 予想外のラインナップの多さに悩んでしまい、問いかける。

 「そうですね、私はイチゴ味が好きなんですけれど、このパッションフルーツ味は期間限定なんです! それから、それから……」

 飴の話になると急に目をキラキラさせるゆりあちゃんが面白くて、思わず私はふふふっと笑ってしまった。

 「なっなんですか?」

 「いえ、可愛らしいなと思いまして」

 「こ、子供扱いはしないでください。これは……えっと、少し気分が高揚しただけで」

 顔を赤くして必死に弁解しようとするゆりあちゃんも可愛い。大人びているようで子供らしい。不思議な子だと思った。

 久しぶりに他人と交わした会話は少し刺激的で新鮮で。次に何が起こるかわからないドキドキは初めて本を開く時と似ていて。

それからゆりあちゃんと明日の午後、またここで会うことを約束した。

 本物のパッションフルーツは食べたことがないけれどパッションフルーツ味の飴玉は何だか夏の味がする。その時、蝉の声が耳に入った。全く気づいてなかったけれど、夏はもうすぐそこに来ていたのだ。



 「暦さーん、こんにちは」

 次の日、また誰も来ない古書店で店番をしていると鈴の音が店内に響いた。

 「ゆりあちゃん、いらっしゃい」

 本棚の間からひょっこりと姿を現したゆりあちゃんは私にとってとても懐かしい制服を身にまとっていて、真っ赤なランドセルとたくさんの荷物を抱えていた。

 「鷺川学園、ですか。私も昨年まで通っていました」

 「暦さんも鷺学だったんですか?」

 ゆりあちゃんの目がキラキラと輝き出す。意外と世間は狭そうだ。

 「ええ、祖父も父も通っていましたから」

 「私もおばあちゃまが通っていて、それで」

 鷺川学園はこの書店が出来るずっと前からあるこの町の伝統私立校。小学校から高校まで繰り上がりの学校だ。私はそこにある大図書館がお気に入りで毎日通っていたものだった。

 水色のスカーフとラインが映えるセーラー調のその制服は当時の私よりずっとゆりあちゃんの方が似合っている。

 昔の記憶がサッと脳裏をよぎった。あまり思い出したくもない記憶。ゆっくり瞬きをした。

 ゆりあちゃんはよいしょっといいながら荷物をカウンターの上に置いた。ハンドバッグからは丁寧に丸められた画用紙や粘土細工のようなものが顔を覗かせている。それらをじっと見ていると

 「明日から夏休みなんです」

 と、ゆりあちゃんは言いランドセルもカウンターに置いた。

 「そうですか、楽しみですね」

 「はい。魔法の本、絶対に見つけたいです」

 ゆりあちゃんはまた私の目をじっと見る。

 「その件、なのですが。祖父に聞いても心当たりがないと言っていまして」

 「そうですか」

 ゆりあちゃんは残念そうにカウンターに積まれた私の本を指でなぞった。

 「でも無いと言ってはいないんですよね?」

 「ええ、それは」

 「じゃあ、探してもいいですか?」

 それは一万冊以上の蔵書がある空間で一人の小さな少女がした大きな決心で。真っ直ぐな瞳がの中に私が綺麗に映り込んでいた。

 「ええ。私もその誰も心当たりのない本を一度読んでみたいと、思っていたところです」

 うっすらとほほ笑みを浮かべてゆりあちゃんの目線にかがんでみせる。ゆりあちゃんは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

 「ありがとうございます」

 水色のスカーフとゆりあちゃんの綺麗に二つに結われた髪が揺れる。

 私たちの長い夏が始まった。

 「私は一段目と二段目を見るので暦さんは上の段をお願いします」

 小学生はこんなに小さい生き物だっただろうか。本棚を基準にして改めてゆりあちゃんを見ると本棚の三段目よりも背が低い。私はもうすぐで四段目の真ん中辺りに到達する。もう既に身長は止まっているけれど。

 「ええ、頑張りましょう」

 「じゃあこれを。感謝の気持ちです」

 ゆりあちゃんはポケットから小さな包みをひとつ取り出した。飴玉の包みだ。ゆりあちゃんの周りには常に飴玉がつきまとっているらしい。

 「今日は何の味ですか?」

 「薄荷です。なんだか集中できる気がして」

 薄荷なんていつぶりだろうか、顔全体がスーッとして目が覚める気もする。

 ゆりあちゃんも薄荷の飴玉を口に入れているようで時々強く瞬きをしたりわざとらしく呼吸をしてみたりしていた。

 私達は「あ」のカテゴリーから順に探し始める。こうやってまじまじと一冊ずつ観察するのは初めての経験だ。十年間も関わっているのに、初めて見る本ばかり。古書独特の匂いがつんと鼻をつく。

 「そういえば、ゆりあちゃんはこの夏どこかに行かれたりするのですか?」

 何だか、黙っているのも気まずくて取り留めもない質問をしてみる。今までそんな沈黙は平気だったし寧ろその静けさを求めてきたのに変な感じだ。

 「私のこの夏の目的は魔法の本を探すことですから、特には。両親も仕事ですし。暦さんは?」

 「そうですか、私も特には。この店のこともありますし」

 「なんだか私達、似ていますね」

 ゆりあちゃんの顔が綻ぶ。確かに私達は少し似ている。

 蝉の声と外の通りを通っていく子供たちの声を背景に作業が進む。

 その時、既視感のある背表紙が目に入った。緑地に金色の文字。

 「あ……」

 思わず声が出る。その本をそっと本棚から取り出す。ようやく、見つけた。……ようやく。

 「暦さんどうしました? 見つかったんですか?」

 ゆりあちゃんが屈んだまま私を見上げる。その時、ハッと我に返った。

 「ああ、すいません。昔から探していた本が見つかったものですからつい」

 「別にいいですけど……目的は忘れないでくださいよ」

 「ええ、もちろん」

 その本を小脇に抱えて再び作業に戻る。

ゆりあちゃんは真剣な表情を浮かべたまま一冊ずつ本を取り出して、パラパラとめくった後少し残念そうな顔をしてもとの場所に戻す。私も小学生の頃はこのような感じで本を貪っていたのだろうかと過去の自分の姿が自然と彼女に重なる。

 「暦さんは、私くらいの時どんな子供でしたか?」

 そんな風にゆりあちゃんを見ていると、私の思考を察したかのように突然手を止めて私のことを見上げた。目が合う。

 「そうですね、普通に教室で授業を受け、それ以外の時間は図書館に訪れていたと思います」

 「何だか知的ですね」

 ゆりあちゃんは少しだけ顔を赤くして目を細めた。

 「知的……でしょうか?」

 私は思わず目を丸くして、瞬きをした。ただの根暗な人間のような気がするのだが。ゆりあちゃんの顔を見ているのが少しだけ恥ずかしくなってとっさに本棚に視線を戻す。

 「はい、今まで出会った人の中で一番暦さんが知的に見えます」

 真剣に、なのか冗談なのか。初めて人の感情を察することが出来なくて悔しいと思った。入口から夏の匂いのした風が流れ込んでくる。

 「私はただの本の虫ですから」

 その時、小脇に抱えていた本が私をすり抜けていく。背表紙が床にぶつかり乾いた音を立てた。

 「暦さんはなんで本が好きなんですか?」

 すぐ傍で屈んでいたゆりあちゃんはそれを拾うと体を伸ばして私に向けてさらに背伸びをする。そして両手で大切そうに本を抱えたままそれを私に向けた。

 「それは、自分の知らない世界に飛び込めるからでしょうか」

 ゆりあちゃんの方に体を向け丁度表彰されるかのような形で本を受け取る。軽く埃を払うと今度は落さないようにといつもお客さんが自由に座っている本棚のそばの木の椅子に置いた。

 「知らない世界、ですか?」

 「例えば、勇敢な騎士になって戦にでかけたり、天真爛漫な少女になって大地を駆け回ったり、天才化学者になって世界的研究を行ったり、自分自身とはかけ離れた類の人々の生活を送ることが出来るという所が私は好きです」

 一息で、でもゆりあちゃんに何かが伝わるようにゆっくりと。私はそう言った。そして、肩で息をしてからゆっくりと膝を床につけた。ギシッと床が軋む。

 「それに、本は私の唯一の友人ですから」

 肌身外さないからもはや友人というより私の一部であるのだが。

 「友達……」

 まるで、何かを思い出したかのように。ゆりあちゃんは突然俯いて先程までの顔を一気に曇らせた。

 「どうしのたのですか?」

 「あ、いえ。大丈夫です」

 私が顔をのぞき込むようにするとゆりあちゃんは顔を横に大きく降って強く瞬きをした。

 「ゆりあちゃんにはどのようなご友人がいますか?」

 私はわざと鈍感なフリをして今度は私がゆりあちゃんの目をじっと見つめた。

 「私は……」

 いつもはじっと見つめてくる瞳を俯きがちに逸らす。

 「……」

 ゆりあちゃんは黙ったままだ。

 「今日はもうおしまいにしましょうか」

 「え?」

 「心に蟠りがあっては作業は捗りませんし。それに」

 その時、タイミングよくゆりあちゃんのお腹がぐぅと鳴った。小学校は終業式なのだから今日は給食がないはず。だからまだお昼ご飯は食べていないはずだ。時計は二時を既に回っていた。

 「本は心のご飯とよくいいますが物理的には満たしてくれませんから」

 私はゆりあちゃんの頬をそっとつつく。子供の頬なんて触ったことが無かったので、予想以上の滑らかさと柔らかさに驚く。幾ら十九といえど己の劣化を感じた。

 「私も昼食はまだですし、もしご両親が家にいないというのなら一緒にどうですか。近所に素敵なカフェがあるのですが」

 「いいんですか?」

 ゆりあちゃんは目を丸くして緊張と喜びが混じったような、そんな顔をして私を見つめた。

 「ええ、私には珍しく他人のことについて……いえ、友人のことについて知りたいと思いまして」

 「行きます! 是非」

 ゆりあちゃんはお返しのように私の頬に指を当てた。小さくて細い人差し指。

 私はその小さな手をとる。

 「こうするとまるで姉妹のようですね」

 嬉しそうに私を見上げてゆりあちゃんが笑う。私も何だか嬉しくなって笑って見せた。彼女といると自然と表情筋が緩んでしまう。これが楽しいとか幸せとかそういった類の感情なのだろうか。そうなのだとしたら私は今、幸せだ。

 カフェで私は珈琲とパスタをゆりあちゃんはストロベリーオレとサンドイッチを注文した。そして、両親のこと、鷺川学園のこと、本のこと、それからお互いのことを日が暮れるまで語り合った。

 ゆりあちゃんは自身が左利きなこと、得意科目は国語だということ、スポーツが苦手だということ、背が学年で一番小さいということ、朝はパンを食べるのだということなど色々なことを教えてくれた。私は右利きだし、背は学年で一番小さくはないけれど、なんだか共通点が多いような気がした。

 自分はこんなにも長く話すことが出来たのか、というくらい随分と盛り上がった。人と話すのも関わるのも、苦手で嫌でたまらなかったのに不思議だ。やっぱりゆりあちゃんは私にとっても特別な子である。

 無邪気に笑いながらストロベリーオレを口にするゆりあちゃんは子どもらしくて、生き生きとしていて、何より輝いていた。



 「じゃあ、どうしてこの公式がうまれたのですか?」

 「それは、おそらく昔の数学者の方に聞く他ない気がしますが」

 カウンターに肩を並べて座って、ゆりあちゃんの夏休みの宿題をみてあげていると、一定刻ごとにこの会話をすることになる。ゆりあちゃんはかなり理屈っぽい。質問をするときも飴玉を口の中で転がしてやはり私の目をじっと見る。

 「納得いきません! というより早く本を探しましょうよ」

 「課題をしっかりするというのが学生の本業です。ノルマを達成してから探しましょう」

 私がそういうとゆりあちゃんは不満そうに頬を膨らませて握ってる鉛筆を額に当てた。

 暑さも最高潮に盛り上がっている八月半ば。もう本を探し始めて三週間目になるが一向にその魔法の本は姿を現さない。もはや幻ではないのかという程、手がかりすら見つからないのだ。

 「暦さんはいいですね、宿題をしなくてもいいなんて。一日中好きなことが出来ますし」

 「しかし、私も昨年までは同じように夏は課題をこなしていましたから」

 「それはそうですけど」

 「それに、私はもう学生ではないのでよく考えれば毎日が夏休みのようなものです」

 カウンターに積んである本を一つ手に取る。魔法の本を探している最中に気になる本や以前から読みたかった本を複数発見した。それらが現在狭いカウンターの三分の一を占めてしまっている。

 「それなら、私が夏休み期間中の時は魔法の本探しに集中して欲しいですね」

 皮肉っぽくゆりあちゃんは積み上げられた本を暫く眺めると、算数のプリントに視線を戻した。

 「すみません、いつもの癖で」

 気になった本をキープしているといつの間にか相当な量になっていることがよくある。

 「本当に本が好きなんですね」

 積み上げられた本を見上げた。これが私をつくっていて私を心を支えている。

 「確かに本があれば一人でも平気ですしね。飴玉も同じです」

 ゆりあちゃんの鞄から顔を出しているあのポシェットがふいに視界に入る。

 「飴玉ってすごいんですよ。これが一つあれば暫くの間一人でも、寂しい気持ちが小さくなります」

 ゆりあちゃんはポケットの中から包みを幾つか取り出して机に並べた。

 くしゃくしゃになってしまっているそれが物憂げにこちらを見つめている。

 「私、一人でも平気そうだねってよく言われるんです」

 ゆりあちゃんがそのうちの一つをぎゅっと握りしめてそんなことを口にする。いつもと違う低い声。

 「しっかり、しているからでしょうか。当時の私とは大違いのような気がします」

 「やっぱりそう見えてしまっているんですね」

 ゆりあちゃんの右手が強く鉛筆を握りしめ、震えはじめた。初めて見る表情。

 「そんなこと、ないのになぁ」

 言葉を少し途切れさせながらゆっくりと発せられたその言葉はなんとなく何かを諦めてしまっているような感じがして。

 「それは、どういう」

 そう言いかけたところでゆりあちゃんはは顔をうつむかせたまま

 「素直で子供らしく生きるってどうしたらいいんでしょう」

 紛れも無くそれは彼女の本音。

 現実世界はとても面倒臭くて仕方ない。時に自分らしさを否定されて、誰かの考えを押し付けられて。皆、自我をいつの間にかどこかに忘れてしまっている。もっと小説の主人公みたいに素直にものを言えたらいいんだけれど、思ったことを素直に口にできるほど美しく地球は回っていない。

 ざわめく街の中で本当の自分を見つけてもらえないまま徒に時が流れていく、それが世の中。

 ゆりあちゃんを見ていると綺麗に昔の私の姿と重なって。私に似ている、ゆりあちゃんは私にすごくすごく似ていた。だからこそ、私は。私はゆりあちゃんの方に体を向けて、深呼吸をした。

 「私は貴方くらいの頃から、人生を本に捧げていました。そして、それに伴いこの世界を拒絶していました。それは今も変わらず」

 本を初めて開いた時、あまりの衝撃に目が眩んだことを覚えている。その中はあまりにも輝きに満ちていて、希望に溢れていて、私が現実世界でどんなに手を伸ばしても届かない壁を想像の翼という飛躍器具でひょいと軽く飛び越えてしまう、そんな世界が広がっていた。しかし、それはこの世界を諦める、という合図の他なくて。

 その時、まるで示し合わせたかのように積み上げられた本が儚く一斉に崩れ落ち、二人の足元を埋め尽くした。

 「私はファンタジーの世界に知らず知らずのうちに逃げ込んでいたようです。そこに自分の居場所など何処にもないのに」

 本たちを拾い上げながら、ゆりあちゃんの顔をもう一度見つめる。今、目を逸らしたらゆりあちゃんはずっと遠くに消えてしまう気がして。それに気づいたゆりあちゃんが顔を上げた。必然的に目が合った。

 蝉の鳴き声と無駄に暑さを帯びた風が空調の効いたこの空間に流れ込んでくる。

 「後悔、しているんですか?」

 ゆっくりとゆりあちゃんの口が開く。

 その時、私のお気に入りのあの本が目に入った。私が初めて出会った世界。

 現実世界でうまくいかなくなった私を救ってくれたそれは、もう十年以上私と寄り添っていて、全体的に色褪せている。でも私にとっては輝きを絶やさないものであり、かけがえの無いもの。これとの出会いが私を変えたのだ。いい意味でも悪い意味でも。

 「どうでしょうね。してるとも言えますし、してないとも言えます」

 「そこを知りたいかったんですけど」

 「本との出会いは何事にも変え難い出来事ですが、あまりに私は逃避しすぎたと今更ながら反省しているところです」

 どんなことでも現実でこの身に起こる出来事すべてに目を瞑り、何とも関わろうとしなかった当時の自分が突然うらめしく思った。

それに比べて、

 「ゆりあちゃんは十分子供らしいと私は思いますよ。あとはいつでも素直になれる一歩を踏み出すだけかと」

 私の名前を呼ぶ顔、本を必死に読んでいる顔、飴玉を嬉しそうに渡してくる顔、ストロベリーオレを美味しそうに飲む顔、そして私の目をじっと見つめる顔。あの顔が作られていたというのならゆりあちゃんはかなりの演技派女優だ。ゆりあちゃんは素直じゃない訳ではない、ただそれを外に出す方法に迷っているだけ。

 「でも、その一歩の踏み出し方がわかりません」

 私と同じ。その踏み出さなければならない一歩は小さいけれどそれに反して物凄くエネルギーを使わなければならないから、簡単に出せる一歩ではない。だから私は逃げ続けていた。エネルギーを使って、それでもしダメだったら。何も変わらなかったら。きっと私は私ではなくなる。

 やらないで後悔するよりやって後悔した方がいいなんてよく言うけれど、なんていい加減な言葉なのだろうと昔から思っていた。

 「それは、自分の心と向き合う他ない気がします」

 「こころ、ですか」

 ゆりあちゃんはゆっくりと胸に手を当てた。

 「皆がそれぞれ何かを我慢し続ければ、世の中は上手く回ります。でも、その我慢は確実に自分自身を傷つけてしまっているんです。ゆりあちゃんは心が強いせいか、それに気づいていないだけで」

 ゆりあちゃんみたいに心が強い人は、同時に脆さも持ち合わせているもの。

 例えるならば、ダイヤモンド。あんなに硬くて傷つきにくいのに、ハンマーで叩けば粉々に砕けてしまう。ゆりあちゃんはきっと、そういう子だ。

 だから、ひょんなことでゆりあちゃんのゆりあちゃんたらしめる何かが失われてしまう。

 私も胸に手を当てる。心臓のゆっくりとした鼓動が掌に伝わって、生きていることを実感させてくれた。私は今もここに足を置いて生きている。生きているのに。

 ゆりあちゃんにかけたはずの自分の言葉が直接ブーメランと化して私の心に帰ってくる。胸が痛い。

 俯いてシャツをギュッと握りしめた。

 二人の間に沈黙が降りてくる。蝉の声が一層頭に響いた。



 「じゃあ、一緒に踏み出してくれますか?」

 またもそれを破ったのはゆりあちゃんだった。顔を上げるとあどけない微笑みを浮かべたゆりあちゃんが右手を私の方に差し出していた。ピンク色の包みが手のひらに乗っている。

 「私と?」

 「はい、心に聞いた結果です」

 私がそう聞き直すと、少し得意そうに、でも私の目をじっと見たままゆりあちゃんはそう答えた。

 こんなに小さい子が一歩を踏み出そうとしているのに、なんて自分は……。ふいに目頭が熱くなってきたのをぐっと我慢して、私はそれをつまみ取ると、ゆりあちゃんの小さな右手を優しく握った。

 「暦さんと一緒なら私は頑張れそうな気がします」

 ゆりあちゃんの手はとても暖かい。

 「それでは、魔法の本を探しましょう!」

 今までの重い雰囲気を振り払うようにゆりあちゃんは、私の方にキラキラの視線を向ける。算数の課題はもう彼女の視界にはいないようだ

 その時、私はハッとした。魔法の本って、もしかして。

 「あの、その事なのですが」

 もし、それがゆりあちゃんのお婆さんが言う魔法の本ならば。私はゆっくりとあのお気に入りの本を崩れた本の山から拾い、ゆりあちゃんに差し出した。

 「おそらく、こういうことではないでしょうか」

 私がそういうとゆりあちゃんはキョトンとした目で私を見上げた。

 「ゆりあちゃんのお婆さんは、きっと貴方にそういう一歩を踏み出して欲しかったんだと思います。ここだけではない、新しい、いろいろな世界を知って欲しいと」

 ゆりあちゃんはその本をゆっくりと私の手から抜き取った。

 「じゃあ、魔法の本って」

 「きっと、この世の中に存在するすべての書籍のこと。そう私には感ぜられます」

 私は本屋を見渡した。ここには一万以上の世界が、一万以上の可能性が詰まっている。

もっと言えば、この世界には無限大の世界が、可能性が広がっているのだ。

 そしてそれは人生において大切な出会いとなってゆく。私の様に道を踏み間違えなければ、少しずつ現実世界も輝いていく。

 「これはゆりあちゃんに差し上げます。私が初めて体感した、世界です。きっとゆりあちゃんも気に入るかと」

 薄らと笑みを浮かべてゆりあちゃんの頭にそっと手を置いた。柔らかくて、ふわっといい香りがする。

 「でも、これは暦さんの大切な本じゃ……」

 「いいんです。私はまた別の世界を探しに行きます。一緒に前に進むのでしょう?」

 今度はその世界に逃げるのではなくて、一歩を踏み出す勇気に変えるのだ。そうすれば私も、きっと。

 これからは自分の人生という名の小説にのめり込む番だ。主人公はもちろん私。

 「はい!」

 ゆりあちゃんはその本をギュッと抱きしめて、何かを噛み締めるように目を閉じた。

夏の下旬、止まっていた私の歯車が再び動き始めた気がした。

 その時、不本意にもお腹がぐぅ、と鳴ってしまった。そういえば、昨日の午後から十分にものを食べていない。やはり、読書に夢中になりすぎるのは体によくないと痛感した。

 「お昼ご飯、食べに行きましょうよ。あそこのカフェに」

 「ええ、そうしましょうか」

 無邪気に笑って、私の手を握るゆりあちゃんを愛しいと思った。人はこうやって愛情とか友情とかそんなものを育むのだろうか。ゆっくりでいい、それでもいいから現実世界でも強く生きていきたいと、そう思った。

 ゆりあちゃんはやはりどんな小説に出てくる人物よりもずっと魅力的で、私をドキドキさせる。

 古書店を出ると急に物凄い熱気に全身を包まれて汗が吹き出した。

 「これも、一歩ですよね」

 ゆりあちゃんが私の方を見上げてニヤリと笑う。そう、こういう肌に触れる温度とか、街の声とか、本の世界だけでなく実際に出会わないとわからない世界だってあるのだ。

 私はふと、上を見上げる。すると、そこには大きな入道雲と青く澄んだとても眩しい空が広がっていた。

 空ってこんなにも美しかっただろうか。

 「上を向いて歩くのも、悪くないですね」

 神様はなかなか私の方を見て微笑んではくれないと思っていたけれど、それはただ私が本の世界という殻に閉じこもっていて神様が私を見つけられなかっただけ。

 時々、こうやって空を見上げてみよう。私はここにちゃんと生きています、と。

 「何だか、私も頑張れそうな気がしてきました」

 なんだか、ゆりあちゃんの顔を見るのが急に気恥しくなって、私は空を見上げたまま、つないでいる手をギュッと握り返した。

 「でも、私は本に夢中になっている暦さんが好きですよ」

 「それは……照れますね」

 「あの本を読み終えたら、また暦さんが見てきた素敵な世界、教えてくださいね」

 「ええ、もちろんです」

 「私は毎日、飴玉を持ってきますから!」

 ゆりあちゃんは小さなポシェットを私の方に掲げる。今日はどんな夢が詰まっているのだろう。

 「ええ、楽しみにしています」

 私とゆりあちゃんは陽炎が揺れる街道を進んでゆく。

 私の物語はここからスタートするのだ。ゆりあちゃんと一緒に。

 私はもう一度空を仰いでそっとそれに向かって手を伸ばした。



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