黒い散歩
「ちょっと、もっと後ろの方から取ってよ。」
先頭に置かれた牛乳パックを手にする誠に向かって、私は言い放った。誠は、意味が分からずそのまま動きを止める。
「こうゆうもんは、後ろにあるやつの方が新しいんだよ。」
誠を押し退け、奥の方の牛乳に手を伸ばすと案の定、三日ばかり日付が新しくなっている。
現在、春休み中ということで従兄弟の誠とその母・秋代さんが遊びに来ている。私より二歳年下の誠とは、小さい頃からよく一緒に遊び、こんな風に近所のスーパーに足を運んでは駄菓子を買いあさっていた。店の中を狂った様に走り回る誠を叱り付けていると、よく姉弟だと間違われたものだ。そんな誠も来月で高校生になる。今ではすっかり口が重くなり、もはや道路の上でもお構いなしに寝そべっていた昔を想像できない。今日は、母と秋代さんに二人でおつかいに行ってくるように言われ、しぶしぶオレンジ色に染まりつつある空気の中を出かけてきたのだ。
数年前から、誠は私たちと顔を合わせることを億劫がるようになった。それでも無理やり秋代さんが連れて来るのだが、家に着いた途端からテレビゲームが始まり私たちとの会話はない。まぁ、私には誠の気持ちが理解できるし、親戚付き合いなんかより友達との約束を優先したいと考えるのは普通のことだ。
レジへと並ぶ私をよそに、誠はどこかへ消えていた。あまり買い物をしていないので、一つの袋に全ての物を詰め込む。店を出ると、携帯をいじくっている誠が待っていた。無言で私の手から荷物を受け取る。帰り道は、私が一方的に他愛のない話を誠にぶつけるような形になった。やはり、沈黙というのも気まずい。私たち同様におつかいを終えたおばさんや部活帰りの中学生、そして友達と遊び終えて家路をたどる小学生たち・・・。もう家まで百メートル足らずといった所で、母からジュースを買うお駄賃をもらっていたことを思い出した。
「あっ・・・ジュース買うの忘れた。」
立ち止まる私を、くだらなさそうに見つめる誠。たしかに、高校生にもなってお駄賃というのもどうかと思うが。
「さっき、自販機の前通ったよね? あん時、気付きゃあ良かった・・・くそ。」
「・・・・・。俺買ってくるから。先帰ってて。何?」
「えっ・・・あぁ、何にするかってことか。じゃあ、えーと・・・ウーロン茶。」
誠が持っていた荷物を今度は私が受け取り、誠は今来た方向へと戻って行った。私はそのまま家へと向かう。すると、前方に十八、九といった感じの男が歩いてくるのが見えた。上から下まで黒で統一された装いをしている。その男は、道路の左寄りを歩いていたので、私は右側へ移動した。できるだけ人とすれ違うときは、距離をとるということが習慣になっていた。しかし、何気なく前を見ると、男は再び私と同じ方向を歩いているではないか。わざわざ移動したっていうのにと思いながらも、無意識を装って今度は私が左を歩く。すると、男もすぐさま左に移動した。さすがに不審に思い、後ろを振り返ってみたが誰もおらず、前方から歩いてくる者もその男だけだった。私は急に不安感がつのった。少しずつ男との距離は近くなってゆく。男は、周囲を見回すということもなく、ただ前を向き一定の速度で歩みを進めていた。茶髪で癖毛風の髪を型まで伸ばした段カットで、前髪は両目にかかるほど長くしていた。タンクトップの上にシャツをはおり、だぼっとしたズボンにブーツをはいていた。私は、最後に相手の行動を試すつもりで道路の中央まで移動してみた。すると、男はまるで何かの合図に応えるように私と同じ行動をとった。これはもう、私を見てわざとこんなことをするのだと確信した。傍を通り過ぎたくないという思いで、わざと相手と逆の方向を歩こうとしているのを、邪魔してくるところをみると、何か悪いいたずらでもされるのではないかと思ってしまう。だが、一つだけこの場を逃れる方法があった。あともう少しのところでT字路にぶつかるのだが、間に合うかどうか・・・。私も男も右側を歩き、お互い手の届く位置まで近づいた時、私は横道に入り回り道をしようと考えた。ところが、その男も私と一緒に横道に入り込んできたのだ。私はいよいよ怖くなった。男はしっかりと私を目でとらえ、口元にはうっすら笑みが見えた。私をからかって、楽しんでいるかのようだ。わけが分からなくなり、引き返そうとしたのだが、もはや私は男の手中に落ちていた。男が私に向かって通せん坊をする姿は、実に奇妙で気持ちの悪いものだった。両手にはめられた太いリングと、首元に飾られたシルバーアクセサリーがやたらと目につく。女だからって、馬鹿にしやがって。こういう奴は、たいてい相手の反応を見て喜んでるんだ。だから、おどおどしたり慌てたりしたら、こいつの思う壺になる。落ち着け、私。
男は、硬直した私に向かって一歩踏み出す。私がすみませんと言って、横を通ろうとすると私の前に立ちはだかり道をゆずらない。急いで反対側にまわろうとした時、男が突然身を乗り出してきたので、男の肩が私の鎖骨に直撃した。直接体が触れたことと、男から漂う香水を嗅いだせいで私は大きく取り乱した。
「ううっ、うわあああああ!」
私は両手で相手を突き飛ばそうとしたが、逆に両肩をおさえられ、そのまますっぽりと男の腕の中におさまってしまった。男は何が目的なのかは知らないが、私をつかんだまま放そうとしなかった。男の首にかけられたネックレスの髑髏と目が合うと、自分の置かれている状況がひしひしと伝わってくる。私は必死にもがき声を出した。
「だっ、だれかー!!」
その声は、どこかにいるであろう誠に向けたものだった。助けを求め、誠の名前も呼んだ。すると、誰かが急いで駆けつける音がしたかと思うと、誠が走ってくるのが見えた。誠の手からウーロン茶が二本転げ落ちる。誠の姿が見えると男は私から手を離し、誠の方に向かって行った。私は呆然としたまま、男の後ろ姿を追った。何なんだ?あの男・・・。逃げるんじゃないのか?
誠も相手を迎え撃つかのように、男に向かって行く。二人は入り乱れるようにぶつかりあい、乱闘状態になりつつあった。
「誠!待ってて!すぐに人を呼んでくるから!」
私は家へ駆け込み母たちに報告してから、またすぐに誠のもとへ急いだ。二人は家の近くまで来ていた。そこらじゅうに、つぶれた卵やリンゴが転がっている。これは、いつの間にか手放していたレジ袋の中身であった。年下である誠の方がやはり劣勢に立たされており、非常に危ない感じがする。
「誠!気をつけて!今、警察呼んだから!」
警察を呼んだというのは、男に対する脅しであって事実ではない。誠は、男に突き飛ばされて地面に肘をつけているところだった。
「誠っ!」
私は急いで駆け寄ったが、すでに男はいなくなっていた。母と秋代さんも、いつの間にか家の外に出てきていた。
「大丈夫っ?怪我は?」
「平気・・・。」
誠は唖然としたまま、その場に座りこんでいる。誠が無事であることが分かると、私も一気に全身の力が抜け膝をついた。
「ちょっと・・・一体、何が起こったの?」
道路に散乱した残骸を見回しながら、母は理解に苦しんでいた。秋代さんは、冷静にも一つずつそれらを手で拾い上げていく。ぼろぼろに傷ついた牛乳パックが目についた。わざわざ奥の方から取ることもなかったな・・・。
「とにかく・・・ここを片付けないと。ちょっと!ちょっと、薫!」
母の声が頭上に響き、顔を上げる。
「いつまでも、こんな所に座ってないで。さぁ、立って。誠くんも。」
誠には母の声など聞こえていない様子で、どこを見ているのかも分からなかった。私が名前を呼んでも反応はない。
「まーこーとっ!」
肩を叩き耳元で呼びかけると、やっと視線を合わし立ち上がった。
その時、三人の親子連れが私たちの様子をうかがっていることに気がついた。母親とその二人の娘は、中学生と小学校低学年といったところだろう。中学生の娘はショートカットのボーイッシュな雰囲気で、妹の方は髪を長く伸ばしていた。そしてこの後、とんでもない話を聞かされることになる。
「あのぉ、突然申し訳ありません。実は、先日この近所に越してきた者なんですが・・・。」
突如現れた見知らぬ女性からの挨拶。なんというタイミングの悪さだろうか。
「はぁ・・・。」
母は、つぶれたリンゴを手にとったまま曖昧な返答をした。その家族には、実に不可解な姿として映っていることだろう。ところが、突然謝罪の言葉を述べ始めたのだった。
「うちの娘がとんでもないことをしでかしてしまいまして・・・。」
勢いよく母親が頭を下げると、二人の娘も一歩遅れて頭を下げた。一体、この女性は何を言っているのだろうか。そもそも、この家族とは初対面であって、何の関わりもないはずである。ただでさえ、男に襲われた後の混乱から立ち直っていないというのに、更なる厄介事に首をつっこまなければならないのか。私たちが黙ったままでいると、女性の方から口を開いた。
「実は、ついさっきお宅の娘さんと息子さんを襲ったのは、この子なんです。」
その母親は姉の方を指差した。うつむく姉と不安そうに母親の手を握りしめる妹。私と誠は何も言えなかった。一体、どう間違えればこんな展開になるのか。
「あの、うちの子供たちを襲ったのは男性だと聞いてますけど。」
母は、少々苦笑をもらしながら答えた。いくら詳しい事情を聞かされていないといっても、私と誠の様子を見ていれば事の大きさぐらいは判断できる。
「この子、男に変装してたんです。本当に申し訳ないです。もう・・・うっ・・・お詫びの言葉もございません。ですが、どうか、どうか警察に届けることだけは勘弁して頂けないでしょうか。お願いします!!」
母親は妹の頭を無理やり押し付け、自らも頭を下げた。姉も謝罪の言葉と共に頭を下げる。誠は、怪訝そうな表情をむき出しにしていた。この話が嘘かどうかなど問題にもならない。ただ引っかかるのは、なぜ嘘をつく必要があるかだ。なぜ、あの男をかばうのだ。
「薫、どうなの?」
母は、呆れた様子で尋ねる。
「私を襲ったのは、女じゃない。ものすごい力だったんだから。こんな小さな子にやられるとでも思う?」
すると向こうの母親が説明しだした。
「うちの子、この通りがっちりしてますでしょ?年齢に関わらず、非常に力はあるんですよ。それにお宅の娘さん、とてもスリムでいらっしゃるし・・・。」
どうあっても今回の事件を姉の仕業として片付けようとする母親の意志を強く感じ、私は焦燥感にかられ始めた。
「でも、現に誠までもが苦戦するほどの相手だったんですよ。それに誠よりも年上の男でした。」
「この子は、空手を習っていて全国大会にも出場するほどの実力なんです。だから、力任せだけじゃなくてコツみたいなものもあるんですよ。実際にうちの父親を投げ飛ばすことも出来るんです。」
すると、妹の方が右手をあげて、「本当だよ」と言う。まるで、母親の正当さを主張するかのようだ。そんな妹の姿を可愛らしいとでも思ったのか、母と秋代さんは笑みをこぼした。それに対して、私は非常に不快だった。もはや私の母はこんな事件など、どうでもいいとすら感じ始めているのではないか。そもそも母と秋代さんは、私たちが襲われている所を何も見ていないため半信半疑だった。私が嘘をつくとも思えないし、中学生の女の子になせることとも思えない。しかし、向こうの言い分も無視はできない。予想外の展開に先ほどまでの恐怖感は薄れ、誠はまるで他人事のような顔をしている。
「誠!あんたも何か言いなさいよ。」
秋代さんも誠に目をやるが、誠は無表情なままただ視線をそらした。
「ちょっと!!あの男を直接見たのは、私とあんたしかいないんだから、もっとしっかりしてよ!こんな女の子にやられたなんて、恥ずかしいと思わないわけ?」
「薫っ!!」
母に怒鳴られ、私は次の言葉をのみこんだ。誠が、あの時走って駆けつけてくれたことなど、すっかり頭から抜けてしまっていた。
「だけど・・・絶対違いますから!第一、伸長が違い過ぎます。私よりも大きいはずです。」
誠もうなずいてみせるが、それでも向こうはこう言い出した。
「相当、怖い思いをされたんでしょうね。ごめんなさいね。人はパニックになると、記憶が曖昧になると言いますから。それに、こういう事件は男の人が多いから、そう思い込んでしまうのよね。」
「そっ、そんなんじゃありませんっ!!私の精神力が弱いとでも、おっしゃるつもりですか!?」
「ちょっと、薫!!静かにしなさい!!」
母に腕を引っ張られ、後ろに下がるように言われた。私がどんなに大声を張り上げようとも、ただ申し訳なさそうに見つめてくるだけだった。この親子の話が真っ赤な嘘だと分かっているのは、実際に男と接触した私と誠だけだ。母は、怖がりの私のことだから事を大げさに言っているとでも思っているようだし、秋代さんも誠をそれほど、たくましくも思っていないので納得してしまう部分があるようだ。私が色々と犯人の特徴をあげても、何かしらの言い訳をつけてくる。
「ねぇ、本当にあなたがやったの?」
私は、彼女に直接問いかけた。彼女は、はいと答えた。
「どうして、あんなことしようと思ったの?」
彼女は、ん〜と言ってすぐに答えなかったので母親が答えた。
「うちの子、何も考えずにやってしまったようで・・・。」
私から見て、あの男は物盗りというよりも痴漢だったような気がしていた。物盗りならば、あんなにぐずぐずせずに、財布を盗んで逃げるはずである。念のため、さっき起こったことを順序だてて説明してもらったが、一応流れは合っていた。当然吹き込まれたか、どこかで見ていたのだろう。
「なんで、私に抱きついたのかな?」
「ただ何となく。どんな感じかなと思って・・・。」
「このお兄ちゃんが来た時、どう思った?」
誠と女の子の視線がぶつかる。
「逃げようと思った。」
「でもさぁ、すぐ逃げなかったよね?」
「逃げられなかったから、やっつけるしかないと思った。」
いくら質問しても、特に大きな矛盾は見つからなかった。
後日、お詫びの品を改めて送るということで、三人は帰っていった。一方私たちは、妙な虚脱感からしばらく抜けられなかった。結局、あの家族に言いくるめられて終わったのか?私の勘違いが確定したのか?棒立ちになった私を見かねて、誠が声をかけてきた。
「俺だって、あいつらの言ってることが、全部でたらめだってことぐらい分かってるよ。」
私は、誠をにらみつける。
「でもさ、あんなに言っても聞かない奴らを深追いするのは危険だよ。」
「・・・・・。」
言われてみれば、そうである。あの家族には、どうしても偽の犯人を用意する必要があった。しかし、どんな理由があるにしろ、常人のすることではない。そうか、そんなことにも気づかずに、私は一人で暴走してたのか。こみあげる感情を、ただただぶつけてしまっていた。
「そうだよね。私、馬鹿だ・・・。」
「べっ別に、そういう意味じゃないけどさ。」
一気にしぼみ始めた私を、単純な奴だと思ったかもしれない。
そして、今後一切あの家族のことについて詮索しないことを決めた。それが、私たちの安全につながるという結論だった。
「ねぇお母さん・・・私たち、いつまでこんなこと続けるの?」
「そんなの決まってるでしょ。充を脅している連中を見つけるまでよ。」
「まだそんなこと言ってるの!!今日でもう、五回目なんだよ!?お兄ちゃんは、誰にも脅されてなんかいないんだよ!!全部、一人でやったことなの!!」
「違うわよっ!!」
違う、違う、違う・・・そんなわけないじゃない。あんなに真面目だった充が、人を襲うなんて。充は優しいから、きっと悪い友達にでもつかまって、無理やりやらされているのよ。そうに決まってる。私たちに相談することもできずに、一人で苦しんでるんだわ。でも、大丈夫。母さんは、どんなことがあっても充の味方だからね。あなたを助けるためなら、何だってする。何だって・・・。