侯爵家のアルフレッド 6
その距離わずか数ミリ。
唇が、アリアナの顔の仮面の口元と思しき場所に触れるまさにその刹那、木目調の茶色い仮面で覆われていたアルフレッドの視界が突如開けた。直後に、握っていた手から温もりがすとんとなくなり、続いて聞こえるどさりという何かが地面に落ちる音。
慌ててアリアナに目を向ければ、彼女が倒れていた。
「アリアナ様!!」
仰向けに倒れたアリアナの体を揺さぶってみるものの、返事はない。顔が見えないせいで彼女が今、どういう状態なのか分かりづらい。息をしているのかすらも、仮面が邪魔なせいで確認できない。
「どうしよう、もしかして死んじゃった!?」
思わずそんな言葉を口走ると、今の今まで空気に徹していた――――と思えるくらい存在感を消していたドゴモンが後ろから駆け寄って来て、アリアナの首に手を当てる。
それから一呼吸ほどしてから手を離すと、ドゴモンは大きな安堵のため息を吐いた。
「大丈夫です、気絶しているだけです。ちゃんと領主様は生きてます」
「よかったぁ……」
勿論本気で彼女が死んだだなんて思ってはいなかったが、何の前触れもなく急に倒れれば、不安にもなる。
原因の一つには、このうだるような暑さにもかかわらず顔を完全に仮面で密封状態にしていることも挙げられるだろう。
だが、異性にほとんど免疫のなさそうな彼女のことだ。
一番の要因は、やはりアルフレッドの先の行為だということは彼も分かっていた。なにせ自分がにこりと笑いかけるだけでも、秋に色づく真っ赤な葉並みに皮膚を朱に染める程だ。だから、あまりやりすぎると気絶しかねないなと、極限ぎりぎりを責めていたつもりだったのだが……。
手を離さなかったり、強く握り締めたり、耳元で好きだと囁いてみたり。
その辺りまでは確かに計算だった。
けれどその直後の、仮面越しにキスをしようとしたのは……完全に計算外だった。なぜそんなことをしようとしたのか、アルフレッドは自分でもよく分かっていなかった。ただ、耳元から顔を離して仮面のアリアナを目にした瞬間、アルフレッドの一挙一動に振りまわされて戸惑っているのがダダ漏れの彼女が、無性に可愛く見えた。
こんな不気味な仮面を被っているのに。
顔なんて全く見えないというのに。
声だってまるで男の人と遜色のない低い声なのに。
異性として唯一そそられたのは、魅惑的な身体つきだけだったはずなのに。
地面に倒れている彼女は、改めて目にしても、やはり可愛いとは程遠い見てくれだ。背丈もアルフレッドよりも少し高めなのもあるだろうが。
なのに、無表情で気持ちの悪い仮面すらも、とても愛おしく思える。
だから彼は思う。
きっとこの暑さで頭がやられたのだろうと。汗が目の中に入ったせいで、視界がボンヤリ歪んでるのが原因に違いないと。
どこからどう見ても、いつもの遊び仲間の女の子や、自分を振ったあの女性の方が可愛らしくて美しいはずなのだから。
けれど、心配そうにアリアナの身体に手を添えるドゴモンを見て、胸の内がもやもやする。いや、むしろむかむかと言ってもいいかもしれない。
「とりあえず、領主様をどこかへお運びしないといけないですね。向こう側に行けば領主様の馬車がありますんで、そっちまで連れて行きましょうか」
「僕が運ぶよ」
ドゴモンが、ちょっと失礼します……と言ってアリアナの身体を持ちげようとした時、アルフレッドはこれまた無意識に声を上げていた。
理由なんて分からない。分からないが、とにかく彼女に自分以外の男の手が触れるのが、なんだか無性に嫌だった。
「えーっと、あの獣道を通ればあっち側に出られるんだよね?」
「はい、そうですけど……。大丈夫ですかい? あの道相当細いんで、領主様を担いだまま歩くのは大変かと……」
「平気」
そう言って、アルフレッドはドゴモンを押しのけるようにしてアリアナの前にしゃがむと、持ち上げようとする。
だが、彼女の身体は数センチ浮いただけで、これ以上は上がらない。
何度か奮闘したものの、時間が経てば経つ程腕がぷるぷる震え出し、遂には彼女を元の地面の上に戻してしまう。
「…………」
「…………」
その場に微妙な空気が流れる。
それはそうだろう。ドゴモンの心配していた、道が細すぎて云々の前に、まず抱き上げることすらできないのだから。ゴールが見えるどころかまだ始まってすらいない状況だ。
しかしこのままアリアナを、固い地面の上に寝かせておく訳にもいかない。
見かねたドゴモンがおずおずといった感じですみません、と口にすると、アリアナの身体をいとも簡単に抱き上げる。彼の手にかかれば、それくらい造作もないことだろう。
「…………し、仕方ないですよ! こっちの勘違いで、午前いっぱい慣れない力仕事をアルフレッド様に押し付けてしまったんですから。無理をしちゃあいけません」
「うん……」
出会った頃は、細っちい腕だのへなちょこだのもっと鍛えろだの言っていた男と、同一人物とは思えない台詞である。それだけアルフレッドに気を遣ってくれているのだろう。
だが、事実アルフレッドはへなちょこだった。午前中の作業以前に、元より筋力も体力も劣る彼が、全力の状態だったからといってアリアナを軽々抱きかかえられたと問われれば、自信はない。
可愛いとか綺麗とかもてはやされてきたアルフレッドにとって、筋肉は不要のものだったのに、それがないことが悔しいと思うなんて初めての経験である。
生まれて初めて、あの筋肉まみれのガイアや三番目の兄を羨ましく思った。
「あのぉ、アルフレッド様……」
やっぱり意味の分からないもやもやを抱えながら、木の根っこにつまづかないよう細心の注意を払い、ゆうに二メートルは超えているであろう大木の如きドゴモンの後ろに続いて獣道を歩いていると、ドゴモンがやはり午前のドゴモンとは違う弱気な声でアルフレッドの名を呼んだ。
「なに?」
「いやぁ、その、領主様とアルフレッド様は、その……………………そういう関係、なんですかい?」
「……そういう関係?」
「い、いやね、ほら、さっきもなんかすごく親密な関係でしたし、というかむしろ完全に二人だけの世界っつう感じだったんで……」
もごもごと口を動かしながら一瞬アルフレッドに顔を向けたドゴモンは、いかつい顔に似つかわしくなく、思春期の少女のように頬をポッとピンクに染め上げていた。
「あんなピンクの世界ってぇか、色気たっぷりに迫っているところを見たら、さすがに俺達も察しますよ」
「僕とアリアナ様の関係……そう、だね。今はまだ違うし、素顔も一度も見せてはもらえないけど、いずれそうなればいいなぁって思ってはいるよ」
そう、まだ、アルフレッドとアリアナは恋人でもなければ夫婦でもない。しかしそんな未来にする為に、彼は今ここにいる。ドゴモンに言った答えは、その通りだった。
するとドゴモンはすごくほっとしたようなため息を漏らすと、嬉しそうな声で、
「それは良かったです。いや何、実はね、俺達も心配してたんですよ。領主様ってこう言っちゃなんですが、変わってるでしょう? なんでも、物心ついた頃からずっと仮面を被ってるらしくて」
「!? そうなの? 子供の時から?」
「そうです。だから素顔も何にも知らないんですが、そのせいだとは思いますが今まで浮いた話がひとっつもなくてね。そりゃあ俺達も、最初はビビりましたよ? ガキのくせになんかけったいな仮面つけた変わり者だなぁって思って、むしろ気持ち悪いとすら感じてた時もありました。それからしばらくして前の領主様が亡くなってあの方が後を継いだ時は、もうここも終わりだと皆で嘆いてたもんです」
やはり最初の感想は皆同じらしい。相手が子供だろうと、曲がりなりにも貴族の娘で自分達より上の立場の人間に面と向かっては言わなかっただろうが、そう感じてしまうのは無理もないことだ。
「…………だけどね、領主様は本当に良い方なんですよ。社交シーズンだから王都で他の貴族の方々と交流を深めたりして遊んでてもいいのに、いっつも領民の生活のこと、最優先に考えて下さって。今日だって、泥にまみれる仕事なんて俺達に任せてたらいいのに、民と苦楽は分かち合うものだって言って一緒に作業をしてくれたりね。顔は分かりゃしませんが、少なくとも心はすごく綺麗なお人なんですよ」
なんでアリアナがこんなところにいて、なおかつあんな、貴族には見えない格好をしていたのかが、ようやく分かった。実は密かにそのことがアルフレッドは気になっていたのだ。
アルフレッドとの約束を蹴ってまで領地に戻るアリアナらしい行動である。
「だからようやくアルフレッド様みたいな、仮面を被ったアリアナ様の内面を好いてくれるお人が現れてくれて、俺は――――いや、俺達領民は本当に嬉しいんです」
「ドゴモンさん…………」
心なしかドゴモンの声が震えている。気のせいでなければ、もしかしたら泣いているのかもしれない。声とともに、先程から鼻をずずっと啜る音も聞こえてくるのだから。
アリアナが綺麗な心を持っている、というのは理解できる。そしてそれはアルフレッドには全くないものだ。
自身も侯爵家の出身であるから、勿論侯爵家の領地もある。そこを支配しているのは現在はアルフレッドの父であり、数年もすれば一番上の兄が後を継ぐのだろう。その為に、兄は今必死で領主としての仕事を学び、暇さえあれば領地を見て回ったり領民と会話をしたりしている。
しかし、アルフレッドは四男であるし、兄のように背負うものもないので、ただただ民達から与えられる旨みのみを享受していた。そしてこれから先もずっとそれを受けられるよう、アリアナに接近しているのだ。
なのに今、そんな自分がとてつもなくちっぽけで恥ずかしい存在のように思えた。
一番上の兄も、商人になった兄も、騎士団の団長になった兄も、それから理由は分からないが仮面で顔を隠しているアリアナも。
皆、自分がしなければならない道を見つけ、意志を持って己の足でまっすぐ歩いている。アルフレッドだけが唯一、生きる目的もなく、気持ちの赴くまま惰性でだらだら生きている。そして、ただ楽な生活をしたい……という浅ましくも卑しい理由で、アリアナをからかい、惑わし、彼女をものにして伯爵家に取り入ろうとしている。
「僕は…………」
「あ、あれです、あれが馬車です!」
言葉にならない何かを口からポロリと落とす刹那、ドゴモンが急に大声をあげる。残念ながら彼の巨体のせいで前方にあるであろう馬車は全く見えないが。
しばらく進むと獣道も終わりを告げ、元の足場のいい道に戻る。
ドゴモンの言っていた通り、道の端には馬車が停まっていた。彼はアリアナを手にしているにもかかわらず、特に苦もなさそうな様子で手際よく扉を開けると中の椅子の上にアリアナの身体を横たえた。
「しばらくすりゃあ領主様も目を覚ますとは思います。っと、あれ? そういえばお付きの人がいないなぁ。……すみませんアルフレッド様。ちょっと人を呼んでくるんで、領主様を見といてもらえませんかね?」
「うん、勿論」
その返事を聞くや否や、ドゴモンは誰かを呼びに道の奥へと消えた。
残ったのはアルフレッドと、そして物言わず横たわるアリアナの二人だけ。
アルフレッドにとってアリアナという人間は、伯爵家の女領主という肩書きを持った女性であり、自身の将来の生活を保証してくれるかもしれない存在で。それ以上でもそれ以下でもない。
だから彼女の仮面の下の素顔についても興味がなかった。
けれど今、内側に閉じ込められたアリアナという人間の素顔が無性に見たくなった。
それは美醜が気になるから――――というよりも、本当のアリアナを知りたい、もっと彼女に近付きたいという欲求がアルフレッドの心を掻き立ててくるからだ。
勝手に仮面を外すなんて、おそらく自分勝手にも程がある行為なのだろう。それはアルフレッドも理解している。理解して尚、アリアナの顔と伸びる手の距離はどんどん縮まっていく。
そして遂に彼の両手は、アリアナの素顔と外界を隔てる壁に触れた。