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僕はインスマス面になれない

作者: 佐雪 さゆな

 

 日本の小さな離島で、僕たち魚人の子孫はひっそりと暮らしていた。

 高校生になった僕は、普通の人間と同じように毎日、島にある唯一の高校へ通っている。とても歴史のある古い高校で、正式な学校名は『魚人育成 高等学校』だけれど、島の人たちはみんな親しみを込めて『いあいあ高校』と呼んでいた。



          ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 夏休みが過ぎ去って三日目。

 布団から起き上がった僕は、すぐに枕元に置いていた手鏡を手に取って、自分の顔をじっくりと観察する。そして何の変化もないことを確認して、溜め息を一つこぼした。

 僕と同じ学年の生徒で、まったく変化せずに『人間』のままの姿をしているのは僕一人だけだった。


 ちらりと時計を見ると、予定していた起床時間はとっくに過ぎ去っていた。慌ててパジャマを脱ぎ捨て、制服に着替えていく。

 着替え中に背中を触ってみたが、そこには何の背びれも付いていなかった。




 学校に到着した僕は、すぐさま自分の教室へとダッシュで向かう。

 三階までのぼり、慌てて教室に駆け込むと、すでに担任の先生が来ており、僕のことをじっとにらみつけてきた。

 担任は頭のはげ上がった初老の男性で、無愛想な上に、なかなか魚人に変化できない生徒のことを『腐った魚』と罵倒することがあり、生徒たちからは嫌われていた。

 僕は愛想笑いを浮かべながら自分の席に着く。するとすぐに隣の席の友人、佐伯が小さな声で話しかけてきた。

「昨日、山田と橘が『海に帰った』らしいぜ」

「え、ほんと?」

 僕が目をぱちくりさせていると、佐伯が何度も頷きながら言った。

「あの二匹、付き合ってたって話だろ? いいよなぁ、好きな子と一緒に海へ帰れるなんて。ほんと、うらやましいよ。おまえもそう思うだろ?」

「う、うん。そうだね」

 僕の脳裏に、幼なじみの彼女の顔が浮かんだ。

「海に帰るまでに、俺にも彼女ができたらいいんだが」

「大丈夫だって。佐伯も最近はすっかり魚人っぽくなってきたし、女の子たちが色めき立ってるよ」

 僕がそう伝えると、佐伯はニヤニヤと魚人っぽいゆがんだ笑みを浮かべた。それから彼は何を思ったのかいきなり立ち上がり、声を張り上げた。

「海が俺を呼んでいる!」

 そう叫ぶと佐伯は教室から走り去っていった。彼は今日も海に入り、いつものように泳いでくるんだろう。

 一見するとただの奇行にしか見えないけど、この学校に通う生徒にはよくある行動だ。海に呼ばれていると、本能が感じるらしい。


 担任も慣れたもので、まるで佐伯など最初から居なかったかのように振る舞い、形式だけの出席確認をすると、背中を極端に曲げながら、足を引きずるようにしてのそのそと教室から出て行った。

 僕がきょろきょろとあたりを見回すと、教室には僕を含めて四人しか居なかった。四月のころ四十人も居たクラスメイトたちは、もうほとんどが海へ帰っていた。


 この『海に帰る』という現象が僕にはいまいち理解できなかった。


 魚人の子孫である僕たちは、生まれたときは普通の人間と同じ容姿をしているけれど、大人になるにつれ、身体的にも精神的にも、大きな変化を遂げていく。

 皮膚にうろこが付き始め、手には水かき、背中には背びれが現れ、背中は極端な猫背になり、頭からは髪の毛がさっぱりと抜け落ちて、口が嫌に大きくなっていく。それに目が飛び出してまばたきしないようになり、首の左右にはエラが現れる。

 こっそり友だちに聞いた話だと、この容姿――特に顔つきを『インスマス面』と呼ぶらしい。けれどそう呼ぶと、大人たちが激しく怒るから、みんな口に出さないようにしていた。


 こんなインスマス面になったら普通はパニックになるはずだけど、誰もそうはならない。心も変わってしまうからだ。自然と魚人への変化を歓迎するようになっていく。体が変わっていくことに何の不安も感じることがなくなり、そして猛烈に海が恋しくなって、自分が海に帰れる日を今か今かと心待ちにする。

 小学校のころ、近所に住んでいた加藤とよく「あんな姿になりたくない」と愚痴をこぼし合っていたが、そんな加藤も、中学のときにはすっかり魚人の容姿になり、僕が見守る中、本当に幸せそうに笑いながら勢いよく海の中へ入っていった。加藤とはそれ以来、一度も会っていない。


 海に帰って、どうするのか。なんでも海底に完璧な魚人だけが住んでいる楽園があるそうだ。

 みんなそこで幸せに暮らしているらしい。

 本当に幸せなのかは僕には分からないけれど、夜な夜な海の方から楽しげな詠唱のような声が聞こえてくるから、たぶん幸せなんだろう。




 あたりにチャイムの乾いた音が響き渡る。一時間目が国語だとはっと気づいた僕は、急いで鞄から教科書を取り出す。その直後、教室のドアが勢いよく開いた。

「よし、授業を始めるぞ」

 そう言いながら国語の教師が入ってくる。

 まだ予鈴の段階だったが、この先生はいつも早めに授業を始めてしまう。

 国語の先生は大柄な男性で、なぜかいつもジャージを着ていて、風貌はどう見ても体育教師だった。そして彼は魚人じゃなくて、普通の人間だ。信奉者と呼ばれている。

 信奉者たちは昔から魚人のことを尊敬しており、ともにこの島で生活している。彼らのおかげで本土との交易も容易にできるため、この島の経済を成り立たせる上で重要な役割を担っていた。


 さっそく先生が黄色のチョークで、黒板にでかでかと意味不明な文字を書き込んでいく。僕を含めた生徒たちが一斉にノートを開き、慌てて文字を書き写していく。

 国語の授業だったが、この時間で日本語を教わることはほとんどない。いつも決まり切ったように、意味の分からない言語を覚えさせられる。

『いつかそのときが来れば、おまえたちにも意味が分かるようになる』

 とよく先生は言っているけど、僕にはいつまで経ってもさっぱり意味が分からなかった。何かクトゥルフ? というものを目覚めさせる呪文らしいけれど、具体的なことを先生は決して言おうとしなかった。



 授業が始まって十五分ほどが経ち、僕の眠気が限界に近づいていたころ、突如として大きな警報音が鳴り響いた。

 先生がチョークを放り投げて窓際に駆け寄る。クラスのみんなも(僕以外は三人しか居ないけれど)慌てたように窓側に移動する。

 僕は一度大きく体を伸ばし、あくびをしてから窓の方へ向かう。

 さわやかな風をほおに感じながら窓の外を見ると、海岸沿いに五人ほどの人影が見えた。はっきりとは分からないけれど、どうやら全員武装しているようだ。

「くそっ、またアメリカ海軍のやつらか」

 先生が吐き捨てるように言う。

 彼らがこの島に来るのは今月だけでも、もう三度目だ。

「ほんと、こりない連中だな。俺たちをバケモノ扱いしやがって」

 クラスで一番頭の悪い間宮が馬鹿にしたようにそう言ったが、先生がすぐに間宮を怒鳴りつける。

「バカ野郎! 先週やつらに襲われたときは、三丁目の村松さんが全身に銃弾を浴びて軽傷を負っただろ? 甘く見てると、おまえも火炎放射器で保健室送りになるぞ!」

 この前の授業で見せられたビデオで、火炎放射器の怖さを僕たち生徒はみんな知っていた。

 間宮やほかのクラスメイトたちは、おびえた様子で教室から出て行き、地下室へ向かった。

 アメリカ海軍が襲ってきたら、生徒たちは地下室に逃げ込むことになっている。地下室は避難シェルターと呼ぶにはあまりにお粗末な造りをしていたけれど、そこに逃げ込めば、何かよく分からないねばねばした生物が僕たち生徒のことを守ってくれる。

 その生物に特に名前は無かったけれど、鳴き声が特徴的だったから、僕たちはその生物を『てけりちゃん』と呼んでいた。


「なにぼさっとしてるんだ、おまえも避難しろ!」


 先生が僕の方を見ながら怒鳴ってくる。

 周りを見たら、残っているのは僕一人だけだった。

 この先生は普段も怖いけれど、怒るとさらに怖くなる。魚人も真っ青になるほどだ。これ以上怒られる前に、僕は素直に地下室へ向かうことにする。

 いつも兵士たちは市街地の方へ向かっていくから、僕は何一つ不安は感じていなかった。

 海岸の方から何発も銃声が聞こえてくる。

 みんなは銃声は嫌いだと口をそろえて言うけれど、僕は銃声の冷徹な感じが好きだった。



 廊下に出ると、ほかの生徒たちはとっくに避難したのか、うろうろしているのは僕一人だった。廊下の奥にある階段まで早歩きで進む。ちらりと振り返るが、先生が僕のことを見ている、なんてことはなかった。

 一つ息を吐いてから、僕はゆっくりと階段を下りていく。



 初めは僕の足音だけがあたりに響いていた。けれど、やがて下から、ものすごい勢いで誰かがのぼってくる足音が聞こえてきた。

 誰か先生が来てるなぁ、と僕がのほほんとしていると、二階あたりの踊り場でばったりと、のぼってきた人に出くわした。

 僕はその人を見た瞬間、思わず飛び上がってしまった。

 目の前に居たのは、迷彩服を着用し、頭にヘルメットを被り、サングラス? のようなものを付けた大柄のアメリカ海軍の兵士だった。何かにひっかかれたのか、ほおには目新しい大きな傷が付いていた。

 兵士は大きな銃を構えている。銃の狙いは、明らかに僕だった。

 僕が悲鳴を上げるよりも早く、兵士が声を張り上げた。

「オマエは、ニンゲンか!」

 片言の日本語だったが、意味は十分に通じた。

 僕は首振り人形のように何度も頷く。

 ばっと兵士が僕の手首をつかんできた。一瞬、僕の頭は真っ白になったけれど、はっと授業で教わったことを思い出し、僕は手を広げて見せた。兵士たちは水かきがあるかどうかで、人間と魚人を見分けているらしいと習った。

 兵士はまじまじと僕の手を見つめてから、そっと僕の手を解放してくれた。それから何か早口の英語で話しかけてきたけれど、英語が大の苦手だった僕には、何を言っているのかほとんど分からなかった。

 ただ「ソーリー」という言葉だけは聞き取ることができた。

 兵士は校舎の入り口の方を指差すと、僕の背中を強く押してくる。僕が抵抗すると、兵士は「キケン!」と声を荒げた。どうやら僕に、外へ逃げろと言いたいらしい。

 まだ授業中だから僕は外に行くつもりはなかったけれど、つい勢いにのまれて、頷いてしまった。それを見て兵士は小さく頷く。

 そのとき、地下からバタンと大きな音が聞こえてきた。誰かが地下室の扉を強く閉めたんだと僕にはすぐに分かったけれど、兵士は緊張した面持ちになると、無線機に向かって早口の英語で話し出す。

 無線の向こうから返事が来ると、兵士はもう一度、僕の方を見ながら外を指差した。それから兵士は銃を構え、慎重な足取りで階段を下りていこうとする。

 僕は慌てて兵士を呼び止め、力強い口調で言った。

「グッド、ラック!」

 それだけを伝え、僕は兵士に言われたとおり玄関へ向かった。


 僕がのんびり歩いていると、やがて大きな銃声が鳴り響き、すぐに兵士の悲鳴が聞こえてきた。それからすぐに猛然としたスピードで兵士がこちらへ駆けてきたかと思うと、あっという間に僕を追い抜き、「テケリ! テケリ!」と叫びながら外へと逃げていった。




 昇降口まで来ると、そこにはロープで拘束された女子高生の姿があった。とてもよく知っている子だ。毎日のように一緒に学校へ通い、お互いのことはなんでも知っていた。

 彼女は僕を見るなり、大きな声で助けを求めてきた。

「けんちゃん、ロープをほどいて!」

 僕のことを『けんちゃん』なんてなれなれしく呼ぶのは、彼女だけだ。

 僕は急いで彼女の元へ駆け寄り、それからゆっくりとロープを外していく。久しぶりに間近で見た彼女の体は、すっかり灰色がかった緑色に染まっていた。雪のように繊細で真っ白だった彼女の肌は、今はざらざらで至る所にうろこが付いている。

 すべてのロープが外れると、彼女は満面に笑みを浮かべ、明るい口調で言った。

「ありがとう、けんちゃん。なんだか私って、いつもけんちゃんに助けられてばっかりだね」

「僕だって、いつも君に助けてもらってたよ」

 彼女は、ふふっと柔らかく笑んだ。そんな彼女の笑顔が、僕はとても好きだった。

「ねえ、けんちゃん、とってもいいニュースがあるの」

「な、なに?」

「私ね、昨日の夢で、海底に眠る神殿を見たの! それもはっきり! もう、本当に神秘的ですごかったの!」

「そ、そうなんだ」

 ぼくはそうとだけ答えた。『よかったね』なんて言葉を口にしたくはなかった。

 彼女は水かきの付いた両手で、僕の手を握ってくる。それから彼女は、僕が一番聞きたくなかった言葉を口にした。

「今まで本当にありがとう、けんちゃん。私、これから海に帰るね。けんちゃんが来るのを、心待ちにしてるから」

 彼女の期待に満ちたまなざしが、僕の心にすっと針を刺した。

 僕は少しだけ間を置いてから、正直に打ち明けることにした。

「僕は、魚人にはなれないと思う。そういう人も、少しだけ居るし、僕もそうなんだと思う」

「そっか、残念だね」

 彼女は笑顔のままそう言うと、僕のことなんかもう忘れてしまったかのように駆け出して、外へ出て行こうとする。

「待って!」

 思わず僕は彼女を呼び止めた。彼女がくるっと向き直り、僕の方へ視線を向けてくる。

 いま伝えなかったら、きっと一生後悔する。そう感じた僕は、消え入るような小さな声で、けれど強い想いを込めて言った。

「僕は君のことが、ずっと前から、好きだった」

 彼女は一瞬きょとんとした表情になったが、それから満面に笑みを浮かべた。

「ありがとう。私もけんちゃんのこと、好きだったよ。でも――」

「でも?」

「私ね、今は、海に恋してるの」

 そう言い残すと、彼女は外へ駆けていった。彼女は一度も振り返らなかった。




 とぼとぼと歩いて外に出ると、昇降口のすぐ前で、担任の先生がタバコを吸っていた。

 僕はそんな先生の姿をぼーっと眺めていたけれど、やがて自分の教室へ戻ることにした。僕が少しだけ歩を進めたときに、担任が声をかけてきた。

「君も私も、腐った魚だ。腐ってるんだ」

 僕は立ち止まる。それから少しだけ迷ってから先生に歩み寄り、彼の隣で立ち止まる。

 先生も魚人の血を引いているはずだったが、頭がはげ上がっただけで、それ以外の体の変化は特に起こらなかった。最近でこそ背を曲げて足を引きずるようにして歩いているが、それはただの加齢が原因だそうだ。

「君の家族は今はどうしている?」

 不意に先生が尋ねてくる。

「僕が小学生のころに、両親がそろって海へ帰りました。妹も居たんですけど、彼女も去年に海へ」

「ということは、今は一人暮らしか」

「そうです」

「ちゃんと食べているか?」

 僕は苦笑いを浮かべる。

「僕って料理が壊滅的にへたくそで。今までは、幼なじみの子が――ほら、たった今、外に出てきた女の子が、料理が得意でよく作ってくれたんですよ」

 僕は彼女が作ってくれた玉子焼きが何よりも好きだった。

 先生はゆっくりとタバコの煙を吹き出すと、海の方を眺めながら言った。

「このままだと君は海へ帰ることができずに、無理やり信奉者の女と結婚することになる」

「ええ。分かってます」

 魚人の血を絶やさないために、好きでもない人間と結婚させられ、子どもを作って育てていく。それがこの島の掟だ。

 もっとも、僕なんかの血はさっさと絶やした方がいい、と大人たちが判断する可能性も十分にあるけれど。

 海のように澄んだ青空を見上げながら先生は口を開いた。

「ずっと昔に、私も知らない女性と結婚させられた。――もっとも、彼女はか弱い人間だった。私と結婚したすぐあとに、彼女は病気になってあっけなく死んだよ。私たちの間に子どもはできなかった」

 そう語る先生は、どこか悲しげだった。

 僕は先生を慰めようとしたけれど、なんて言ったらいいのか分からなかった。

 僕が黙り込んでいると、先生はぽつりと言葉を漏らした。

「君さえよければ、アメリカ海軍に付いていって、この島から出ていけばいい」

「えっ!?」

 なんてことを言い出すんだろう、と僕は目を見開いた。たとえ冗談にしても、そんなことを口にする大人は一人も居なかった。


 海岸沿いから激しい銃声と、大勢の島の住民たちの怒声が聞こえてくる。銃声はだんだん小さくなっていくのに、それとは対照的に、住民たちの怒声はますます激しくなっていく。

『悔しかったら、次に来るときはご自慢の潜水艦に魚雷でも積んで攻撃してこいよ!』

 ひときわ大きなその声を合図に、住民たちがげらげらと笑い出す。

 この調子だと、もうすぐアメリカ海軍は撤退することになるだろう。


 先生が小さく笑う。

「まあ、たとえこの島から出ていっても、特に意味はない。体が変化していけば、心も変化し、どうしてもこの島に戻ってきたくなる。そしてみな海へ帰っていく。それが定めだ」

「じゃあ、僕が出て行くことにも、意味はないんですね」

 言葉に詰まりながらかろうじて僕がそう言うと、先生は小さく首を横に振った。

「私や君のような変化できない『腐った魚』は、この島に帰りたいと思うことはない。げんに私もしばらく島の外で暮らしていたが、この島に戻りたいと思ったことは一度もなかった」

「で、でも、先生は結局この島に帰ってきてますよね? それってやっぱり、この島が、海が恋しくなったからじゃ……」

 先生は青空を見つめながら言った。

「私はただ――妻のことが忘れられなかっただけだ」

 先生が寂しげにほほえむ。

「……先生は、奥さんのことが本当に、好きだったんですね」

 僕の言葉には何も返事をせずに、先生は懐から携帯灰皿を取り出すと、そこにタバコをぽいと投げ入れた。一度だけ銃声の聞こえた方へ視線を向けると、先生はゆっくりと校舎の中へ戻っていく。

 僕は海の方をじっと見つめながら、先生に尋ねた。

「僕は、新しい恋が、できるでしょうか」

 先生はちらりと僕の方を見て「さあな」とだけ答え、校舎の中へと入っていった。


 そっと僕は目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。

 耳を澄ませると、遠くの方から、かすかに誰かの声が聞こえてくる。それが住民たちの怒声なのか、兵士たちの悲鳴なのか、「けんちゃん」と呼ぶ幼なじみの声なのか、僕にはよく分からなかった。

 校舎からチャイムの音が聞こえてきた。どうやら授業が再開するようだ。

 僕は海の方へバイバイと手を振ってから、海に背を向ける。

 チャイムが鳴り響く中、僕は駆け足で校舎の中へ入っていく。

 僕は一度も、海の方へは、振り返らなかった。



 【終】

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[良い点] クトゥルフ神話のお話を探していて読みましたがこれは斬新です! インスマスをテーマにこんなに切ない青春を書けるとは凄いです。
[一言] インスマスを検索してたらこの作品を見つけました。 魚人にもなれないと言うSSは目新しいですね。
[良い点] 視点が新しい。 [一言] なんかすごい平和な感じがしていい。ディープワンは人間との交配を好むらしいけど、この作品のディープワンの方が好感持てるわ(笑) 同種同士でしてもらった方が気が楽。
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