第382話 少女、腹のなかに収まる
「うん。元気に目覚めたようだね皇帝陛下。新しい時代へようこそ」
戦場より後方にあるローウェン帝国の陣地の中、近衛兵たちに囲まれて守られていたはずの皇帝の座する天幕の中は喧騒に包まれていた。
そこには溶液の中に浮かんでいた皇帝が納められていた柩があった。けれどもその柩は内側から砕かれており、中には何も残っておらず、また食いちぎられたような状態の複数の近衛兵の死体が周囲に転がっていた。
さらにその場には大きな穴が地面に開いており、それらをロイは興味深そうに観察していた。
「これはどういうことだ、ロイ博士!?」
ナレイン・アージェント・サーバッハ。皇帝ジーンの息子にして王太子たる男が驚きの顔で天幕の中に入ってきて、砕かれた柩の残骸とその目の前の大穴のそばにいるロイ博士へと問いを投げてきた。状況は不明。けれどもまるで慌てていないロイを見れば、この男がおおよその事情を察しているとはナレインにも予想がついた。
「どうとは?」
「こ、このような状況に……なぜ? いったい父上、皇帝陛下はどこにいってしまわれたのだ?」
「陛下はどうやら地中にお潜りになられたようですよ。元気になったことで食欲が出てきたんでしょうな。獲物を狩りに行きました」
ロイが笑顔でそう返すと、ナレインが青い顔をして首を横に振る。
「そのいいようではまるで獣ではないか」
「はっはっは、言い得て妙ですな。本質をついておられる」
ロイがパチパチと拍手をしながらそう返す。
(まあ、そうした肝の小ささが父親には及ばぬ所なのだろうけど)
ロイはそんなこと考えながら改めて周囲を見渡す。
砕けた柩は、竜の因子を取り込んだものの安定しなかった皇帝ジーンの体を保つための高濃度のエーテルで満たされていた。けれども彼にはすでに必要のないものだったらしく、人という殻を破って出ていってしまった。
また待機させていたドラゴンや機械竜が地面から出てきた何かに『喰われて』いなくなってしまったという報告もすでに届いている。
(想定外ではあるが上手く育っていると言っていいのかな。このままなら自壊せずに行けるんじゃあないか?)
ロイがそんなことを考えていると、ナレインが「呑気に言っている場合なのか?」と声を荒げた。
「これでは我らがローウェン帝国軍は、皇帝陛下がいなくては、この戦争は」
「ああ、それなら大丈夫ですよ。皇帝陛下はね。『ご乱心』なされた」
「は? 乱心?」
驚きの顔をするナレインにロイがゆっくりと頷く。
「ええ。あの方は人ではなくなり、人を襲い、人の世に厄災をもたらす怪物となったのですよ。おお、そうだ。であれば、新しい皇帝が立たねばならぬのではないでしょうかねえ?」
「新しい……皇帝?」
「はい。つまり今この時より『あなたが皇帝陛下』です」
「わ、私が……お、おオオオオ」
ナレインの顔が困惑から歓喜へと変わっていく。
理性はこの状況がおかしいと感じているが、欲望はロイの言葉を肯定している。今の彼にとってロイの言葉は絶対的に正しいものだと教育されていた。だからこそ、そこに道理があるか否かに関わらず、無条件で受け入れてしまう。そんな操り人形のナレインを見ながら、ロイは先ほど老婆と話した会話の内容を思い出す。
『嘘はついてないよ。元々施術が失敗すればナレインくんを立てるつもりだったし、現皇帝が退位すれば彼が次の皇帝だ。数百年から数千年はかかるかもしれないから、それまで彼が待てるかは分からないってだけでね』
ロイの言葉に嘘はなかった。
数百年から数千年かかるかもしれないと言ったのも本当のことだ。当初の予定から考えれば、そうなる可能性はあった。人と竜の力を持つ男が人族の頂点として支配する世界。戦乱が続くであろうその世界で鋼機兵を広めていくことをロイは計画していた。
けれども皇帝ジーンはどうやらそこまで人の世に興味はなかったようだ。彼はすでに人を捨てた。だからロイにとって最善なのはナレインを皇帝にすることであり、その後の目的を与えることだった。
「では皇帝ナレイン、君の最初の命令は撤退だ。すぐさまこの場から去り、国に戻って彼を止めるための戦力として鋼機兵を造っていくんだ」
「ああ、そうだなロイ博士。私は皇帝。私が皇帝なのだ。であればやらねばなるまい!」
乗せられたナレインは意気揚々と天幕を去り、軍への指示を飛ばしていく。その様子に兵たちは動揺を隠せないが、戦場で起き始めた状況の報告が届き始めると彼らもナレインの言葉に徐々に従い始めた。
そう、戦場ではあちらこちらから恐怖の悲鳴が上がっていた。大地より伸びた無数の触手の如き竜の首が兵たちを襲い始めたのだ。そしてその被害は発生源に近いローウェン帝国軍側からの方が大きかった。
「はっはっは、派手だねぇ。どうやら彼女らの戦いに触発されてしまったのかな。理性が飛ぶほどに君も求めていたんだねジーン」
本来であれば、ここでジーンがこうなる予定はなかった。ベラと同じように人としての形を保ち、人と竜の力を用いて帝国を拡大していくはずだった。けれども、今のジーンにとって人である意味はあまりなかったのだろう。より上位の存在となったことで、彼はベラドンナ同盟軍ではなく、人という種に対して戦いを仕掛けた。
「であれば、願わくばイシュタリア大陸の全土を震撼させて欲しいものだね。ここから先は竜の時代。鋼機兵が必要となる世界に変わることを祈っているよ」
戦場が混沌に包まれていく。根のように竜の首は増えて伸び、この地に溢れた魂力をかつて皇帝だった存在が吸収していく。生者も死者も喰われていく。そして……
「まあ、番狂わせが来るならそれはそれで面白いのかもしれないけども」
そんなことを呟きながら、ロイは笑みを浮かべて人と竜の戦いに変わりつつある戦場を眺めていた。




