第193話 少女、油断されない
「ダールが退いたか。かくして、ムハルド軍はすべてしてやられた……というわけだなモーゼル」
包帯を全身に巻き付けた男が静かに、吐き出すようにそう口にする。そして、その言葉にモーゼルと呼ばれた男が頷いた。その反応に周囲の男たちがざわめくと、包帯の男が皮肉そうな笑みを浮かべる。
「そうか。そうか。我らムハルド王国東部軍の包囲を抜けたベラ・ヘイローとドラゴン、それにカイゼル族はメガハヌの街でヘイロー傭兵団、今は大傭兵団だったか……と合流してダールを一度退け、後日に裏切った獣人と共に中央軍の陣地へと襲撃し、それを追ったゼニス副官を含む部隊を壊滅させた後に戦場に参戦して中央軍を撤退にまで追い込んだ……と」
噛みしめるような言葉に、周囲の誰もが重々しい気配を放ちながら沈黙していた。
この場にいるのは包帯の男ザモス・ カイターン将軍と、彼が率いるムハルド王国東部軍の幹部たちだ。ベラ・ヘイローを逃した彼らは現在ムハルド王国東部最大の都市レオールへとすでに帰還しており、つい先ほどダール将軍率いる中央軍の撤退の知らせを受けて召集されていた。
「ははははは、馬鹿馬鹿しいまでに見事な戦果だ。いや、敵ながら天晴れというべきか。なるほど、あの売女の言葉もたまには正しいこともあるのだな。もっとも言いつけを守って出撃したダールがこの様では、笑うしかないがな」
そう口にしたザモス将軍の顔には、無論笑みなど浮かんでいるはずもない。
包帯で見え辛いが、その表情は怒りで醜く歪んでいた。同様に、この場にいる面々の多くがザモス将軍に同調して怒りに震えていた。
それも当然の話ではあった。ベラ・ヘイローは東部軍の包囲を抜ける際、空から奇襲を行って非常に効果的に彼らの戦力を、特に幹部たちの命を削ぎ落としていた。ザモス将軍こそ運良く生き残ったものの、上官を亡くして立場を繰り上がらせてこの場にいる者も少なくはない。戦いすらさせてもらえずに死んだ仲間を想えばこそ、今の彼らにとってベラ・ヘイローは憎むべき敵となっていた。
「ダール将軍からは、以後は我らが東部軍を主導として任せるとのことですが……」
その中で、ザモスの副官であるモーゼルがひとり冷静な顔でザモスを見ながらそう口にした。
「何を偉そうに」
「しっぽを巻いて逃げた分際で」
「ですがチャンスですぞ。雪辱を晴らす絶好の機会かと」
「我らが中央よりも上と知らしめることもできましょう」
部下たちから口々にそのような言葉が出てくるが、ザモス将軍は眉をひそめながら「問題はなぜ撤退を決めたかだな」と口にすると、周囲の言葉が止んだ。
「副官を殺されて、臆病風に吹かれたということはないだろう。ダールは計算高い男だ。反乱軍を相手に二度の撤退とは、ラーサとしては恥も良いところ。あの男の名誉は地に落ちたと言えようが……」
「我らが敗北するのを待っているのでしょう」
モーゼルがそう口にすると、その場にいる者たちの怒りの気配がさらに濃くなる。もっとも、ザモス将軍はその言葉に「まあ、そうだろうな」と言って肯定の頷きを返した。ザモスの方もモーゼルと同様の結論に達していたのだ。そして主が己と同じ認識であると察したモーゼルが話を続ける。
「戦況の報告書を読みましたが明らかにドラゴンに関する情報が薄い。ベラ・ヘイローの襲撃を受けた我らでなければ、或いは油断をして挑んだやもしれません」
「中央に続いて我らが敗れれば必然的にヘイロー大傭兵団の脅威が再認識され、ダールが返り咲ける可能性も高まるか。それに西部軍はダールの子飼いだ。破れた東部も吸収し一丸となってベラ・ヘイローへと挑む……そんな世迷い言を夢想しているのかな。だとすれば舐められたものだ。とはいえ、お前の報告通りも含めればやはり恐ろしい相手ではあるのだろうな。なあモーザン・ノード」
そのザモス将軍の言葉に「ハッ」と緊張した面もちで敬礼した男がいた。それは竜の墓所を出てすぐにベラ・ヘイローによって襲撃を受けたアッダの砦の指揮官モーザンであった。ムハルド王国東部軍の面々が並ぶ中で、彼はまるで裁判の採決を待つ罪人が如き表情をして立っていた。
「現実にドラゴンが相手となれば、対鉄機兵兵装よりも、対巨獣兵装を必要とするかもしれんが……まあ、手配はできる。問題なのは報告にあった獣人どもだ」
それはダール将軍の雇っていた獣人たちが裏切り、ベラ・ヘイロー側についたという報告であった。これまでムハルド王国とも友好的な関係であったはずの獣人が敵側についたというのは不可解ではあるし、捨ておけぬ話だ。
「ダールが雇っていたロロナ族は、我らムハルドとはこれまで特に問題はなく、北部族とも親交はなかったはずだ。であれば原因はベラ・ヘイローと見るべきか。それも、あれの移動経路を考えれば場合によっては墓所のジルガ族が絡んでいるのかもしれん」
「ザモス将軍。とはいえ、竜の墓所に手を出すのは」
モーゼルが眉をひそめながらそう口にすると、それにはザモス将軍も頷いた。
「分かっている。特に根拠もなくヤツらに手を出すのは獣人族全体を敵にしかねないからな。それに墓所は難攻不落の天然の要塞だ。落とすにはどれほどの血が流れるかも分からん」
獣人たちがムハルド王国内においても自治を得られているのは、彼らが協力関係にあるから……というだけではない。人里離れた森の中に住み、移住地が変わることも多く、軍隊では追い切れぬし、総本山である竜の墓所も攻め落とすのが難しいため、そうせざるを得ないという事情があった。
それからザモス将軍はモーザンへと視線を戻し、口を開く。
「モーザンよ。お前には、アッダの砦の指揮官の座からは降りてもらう。ジルガ族の監視をするためにも、あの砦は強化せねばならん。それは今のお前に任せられるものではないのでな」
「はい。それはそうですが……であれば、私は?」
「そうだな。お前には挽回の機会をやろう」
そう言ってザモス将軍は小さな水筒のような容器を懐から取り出し、それを見たモーザンが怯えた顔を見せる。その容器にはモーザンも覚えがあった。
「それは……獣血剤。半獣人と化す忌まわしき……」
「そう言うな。二年前の戦では、これを用いた同胞がたいそう活躍したのだ。もっとも人食いの化け物に成り下がり、今は我らに牙を剥いてはいるがな」
それはザモス将軍にとっても、苦々しい記憶であった。
上からの指示とはいえ、自らの部下を人身御供にしたという負い目が彼にもある。結果として獣機兵という力を得て戦力を増したムハルド王国は北部族を併合し勝利したが、扱いきれぬと判断された獣機兵乗りはラハール領へと追いやられ、今は反乱軍の戦力となっている。
「これはあのときに投与したものとは少し違う」
「違う……ですか?」
「そうだ。これは巨獣の獣血剤。我が軍はその精製にようやく成功したのだ」
その言葉を聞き、モーザンの顔が硬直する。獣血剤の材料は魔獣の血。それですら成功率は決して高いとは言えなかったのに巨獣の獣血剤となれば、それは死ねと言っているに等しいとモーザンは感じた。
「分かっているとは思うが、今のお前の立場は非常に危うい。何しろ貴様は敵の甘言を受け入れようとしたのだからな」
「馬鹿な。私はこうして……だから報告に」
絶句しながらも、どうにか言葉を絞り出すモーザンにザモス将軍は首を横に振る。
「お前が背負っていた、お前が預かったにもかかわらず死んだ彼らは、ひとりひとりがお前の命よりも重い。共に死んでいればまだその名誉も護られたかもしれぬが、こうして生きながらえてはそうもいかない」
その言葉にモーザンが呻く。竜の墓所で獣人たちと共にカイゼル族を追い込んだ兵たちはムハルド王国の上級貴族の出の者が多く、言ってみれば彼らは己の実績を得るためにカイゼル族の殲滅に参加していたのだが、ベラの襲撃によってすべて狂ってしまった。
「今は軍内部で余計な揉め事を起こしたくはない。だから、彼らの両親の恨みは軍ではなくお前ひとりが受けてもらいたいというのが我々の本音だ。それを甘んじて受けるのも国への忠を示したことになるとは思うが……」
そう言いながら、ザモス将軍は一歩前へと出て、その手に持つ獣血剤を再度モーザンに見せつけた。
「だがお前自身の手でケリをつけるならば、問題はなくなろう。正直に言えばこれは最後の手段としたかったが、あのダールすらも退けた相手だ。お前の報告にもあった通りに油断もできない。だからこそのコレだ。使えば確実な死が待ってはいる……が、ときが来ればこれを使って己が身でドラゴンを倒してもらいたい」
その言葉にモーザンが顔を伏せて、それから少し時間を置いて嗚咽しながら頷いた。その様子を見てザモス将軍が微笑む。
「ああ、分かってくれたか。さすがラーサの戦士だ。それでお前も、家の面目も保たれよう。英雄としての死をくれてやる」
そしてザモス将軍は、
「だから喜べ同胞。これこそがお前の心を守る最後の手段となろう」
モーザンの手に巨獣の血を加工した獣血剤をしっかりと握らせたのであった。
次回予告:『第194話 少女、侵略を開始する』
以前にベラちゃんと追いかけっこをしていたお兄さんたちが、本気になったみたいですよ。
こういうのを大人げないって言うのかもしれませんね。




