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不倫写真を一年見せつけられた寝取られ妻、略奪女に行き場のない夫を差し上げたあとで、送り主の正体を知りました

掲載日:2026/08/23

 ホテルの入口の前を歩く、夫と女の写真だった。


 後ろから撮られていて、二人とも気づいていない。腕は組んでいない。それでも、他人と歩く距離ではなかった。女のほうは若い。髪が長くて、毛先だけ茶色かった。


 夕方の六時。高瀬美月はキッチンに立ったまま、それを見ていた。


 その写真が上がっていたのは、友達しかいないはずのアプリだった。大学の同期七人でつくったグループで、一日に一枚、その日撮ったものを上げる。犬。深夜のコンビニ。子どもの寝顔。誰かの足の爪。天井。それと、美月が昼に撮った机の上の電卓。


 夫の写真は、その並びのいちばん下にあった。


 上げたのは、カッコウだった。


 このグループに入ると、全員に動物の名前がつく。誰がどの動物なのかはわからない。当てるのが遊びだった。


 グループは七人。なのに、動物は八匹いる。


 カワウソがすぐに書き込んだ。


 「またカッコウだw」

 「懲りないな〜」

 「てかこれ誰なの? いまだにわかんないの?」


 美月も打った。一年、同じ言葉を打っている。


 「知らない人」


 送信してから、美月はカッコウの写真を長押しして、スクリーンショットを撮った。このアプリの写真は、一日で消える。


 それから、洗濯かごの前へ行った。


 夫のシャツの襟に、髪が一本、貼りついていた。


 自分の髪ではない。美月の髪は肩までで、色を入れていない。襟に貼りついていたのは長い髪で、毛先だけ茶色くて、洗剤の乾いた匂いの中で妙にはっきりしていた。


 毛先の色まで、写真の女と同じだった。


 美月は爪の先だけでその髪をつまみ上げた。指の腹には触らせなかった。洗面台のごみ箱まで持っていって、二本の指をはたくようにして落とした。


 シャツは洗濯機に入れた。洗剤は多めに入れた。回して、脱水が終わってから、美月はもう一度、最初から回した。


 二度目の水が抜けていく音を、美月は洗面所に立って聞いた。糸くずと、襟の脂と、知らない女の匂いが、いま排水口の向こうへ流れている。そう思えるまで、美月はそこにいた。


 美月は会社で経理をしている。数字が合わない日がある。何時間探しても原因が見つからないとき、美月は合わない分だけを別の紙に書き出して、今日はここまでにする。書き出しておけば、机の上はきれいになる。あとで見つかることもあるし、見つからないまま年を越すこともある。


 美月はそういうやり方に慣れていた。


 夫の高瀬亮介が帰ってきたのは、夜の八時過ぎだった。


「ただいまー。あー、いい匂いする。腹減った、俺もう限界」


 玄関で靴を脱ぐと、亮介はいつものように、つま先を外に向けて揃えた。誰の家に上がるときもそうする。育ちがいいのではない。いつでも出ていける形にしておく癖なのだと、美月は思っている。


「もうできてるよ」と美月は言った。

「マジで? 愛してる」


 美月が用意したのは、焼いた鮭と、味噌汁と、作り置きのマリネと、冷やしたトマトだった。亮介はネクタイを緩めながら椅子に座り、写真も撮らずに箸を取った。鮭を一口食べて、うまい、うまい、と二度言った。この人は毎回そう言う。


「今日さ、テレビ局の人に美月のこと言われた」と亮介が言った。

「私?」

「三年前の、あの制作発表の打ち上げ。あのとき挨拶しただろ。あのときの奥さん、ぜんぜん喋らないのに、いちばん場が読めてる人でしたね、って」


 美月は味噌汁の椀を持ったまま、少し笑った。


「三年前のこと言われても」

「覚えてるってことだよ。すごくない?」


 亮介はよく笑う人だった。会議室でも、打ち上げでも、いちばんよく笑う。あの笑い方で仕事を取ってくる人だった。


 食べながら、亮介はいま動いている案件の話をした。タレントの名前と、来週の撮影場所と、まだ発表していないコピーの話。亮介が口にした予算の数字に合わないところがあり、美月が指摘すると、亮介は箸を止めた。


「ほんと美月って、そういうの一発で見つけるよな」

「仕事だから」

「それに、動じないし」


 亮介は箸をテーブルに置いた。


「怒ってるの、俺、見たことないもん。結婚してから一回も。……俺が何しても平気そうで」


 美月はグラスの水に手を伸ばした。


「何かしたの」と美月は聞いた。


 亮介は一瞬だけ黙って、それから笑った。


「してないよ」


 その一瞬が、この一年でだいぶ長くなっている。


 亮介はテーブルの上で、美月の指に自分の指を重ねた。温かい手だった。手のことで、美月がこの人を嫌ったことは一度もない。


 食器を片づけてから、美月はもう一度アプリを開いた。


 カッコウの最初の一枚が来たのは、去年の六月だった。あのときは手しか写っていなかった。誰かの手首と、男の指。それだけだった。「これ誰w」「不倫じゃんw」と五分くらい盛り上がって、写り込んだ他人だろうという話になって、消えた。


 その週に、七人のLINEグループでも一度確認した。カッコウって誰、とかおりが聞いて、六人が順番に、私じゃない、と答えた。じゃあ、誰かの招待リンクから入った知り合いだろう、という話になった。このアプリには、誰が誰を招待したのかという記録が残らない。古い招待リンクも、どこかにまだ生きているらしかった。


 それから一年、この話は毎回そこで終わる。誰も名乗らない。名乗ったら、このアプリの意味がなくなる。今日も何人かが茶化して、それで流れていた。


 一覧に戻ると、フクロウの欄が空だった。


 フクロウはこの一年、自分の写真を一枚も上げていない。通知は毎日鳴っているはずなのに、フクロウの写真だけ、ずっと出てこない。飽きたのだろう。五年前に流行ったアプリなのだから、飽きるほうが普通だ。むしろ、まだ毎晩開いている自分のほうがおかしい。


 美月はアプリを閉じた。乾燥機の中で、洗い直した亮介のシャツが回っていた。


 それから、思い出してLINEを開いた。佐藤有紗にだけ、短いメッセージを送った。


 「元気? そのうちお茶しよ」


 既読にならなかった。


 忙しいのだろう、と美月は思った。三十二にもなれば、誰でも何かしらある。有紗は大学から続いている友達で、去年の五月に会ったときは元気だった。


 シャワーの音が止んで、寝室から亮介が呼んだ。


「美月。まだ起きてる?」


 美月はスマホを伏せて、立ち上がった。


 寝室の灯りは落ちていた。亮介は枕に頭を載せ、スマホを充電器につないでいた。


 美月は自分からベッドに入って、夫の背中に手を置いた。


 部屋着の背中は、乾燥機から出したばかりの匂いがした。


 亮介が振り向いて、少し笑った。


「めずらしいね」

「そう?」


 美月はそう答えて、それ以上は何も言わなかった。言わないほうが、この人は喜ぶ。


 暗いなかで、亮介の指が美月の髪をかき上げた。断りもなく触る手だった。美月は目を開けたまま、その手を受けた。


 拒まない代わりに、亮介の背中に爪を立て、首筋に歯を立てた。


 それが終わると、亮介はすぐに眠った。


 美月は天井を見ていた。明日の朝に出すごみのことを考えていた。あの髪はもうごみ袋の底で、生ごみが覆いかぶさっている。



            ◇



 美月のスクリーンショットは、三十七枚になっていた。


 美月はそれを日付の順に並べる癖がある。仕事でもそうする。数字が合わなくなるのは、たいてい日付を跨いだところだからだ。


 一枚目は去年の六月。手だけ。

 二枚目は後ろ姿。

 三枚目は店の看板と、その下に立つ二人の足。


 秋から、女の顔が入るようになった。

 冬には、場所がわかるようになった。日比谷の交差点。テレビ局の裏の坂。麻布の細い道。

 春には、時間が入った。写真の隅に、駅の時計が写り込むようになった。


 そして、三十七枚目がホテルの前だ。


 日付順に並べると、写真の向こうから、何かが少しずつこちらへ寄ってくる感じがした。だんだん声を大きくしていく人の話し方に似ていた。美月は、撮る側が慣れてきただけだと思っていた。


 女の顔と名前がわかったのは、去年の暮れだった。


 亮介の会社の周年パーティに、美月も連れていかれた。挨拶をしているあいだ、亮介の斜め後ろに立っていた子がいた。差し出された名刺を、美月は読んだ。朝倉莉央。二十五歳。肩書きから、亮介の部下だとわかった。


 その夜、家に帰ってから、美月は秋の写真を開いた。同じ子だった。髪の長さも、毛先の色も、耳のかたちも合っていた。


 同じ暮れに、美月は美容室を変えた。前の店の担当が辞めたので、家から近いところを予約した。


 鏡の中で、美月の後ろに立ったのは、佐伯透だった。高校で同じクラスだった男だ。十年以上会っていなかった。


「高瀬さん……いや、いま何さんですか」

「高瀬」

「そっか」


 透は美月の髪を見て、それから顔を見た。指輪のほうを先に見なかった。それだけのことを、美月はなぜか覚えている。


「どうします。少し軽くしますか」

「そのままでいいです」


 美月はそう答えた。それから半年、毎回そう答えている。


 美月は手帳を開いて、万年筆のキャップを外した。


 二十歳のときに父がくれた万年筆で、美月はいまも仕事の手帳をこれで書いている。画面で打つより、この重さのほうが頭が落ち着く。


 手帳の後ろのページには、動物と同期の名前を並べてある。カワウソはかおり。あとの三匹も、去年のうちに埋まった。


 残っているのは二匹。フクロウとモグラ。

 名前のほうも二人残っている。有紗と、加奈。


 加奈は三年前に大阪へ行った。モグラが上げてくるのは駅と空と社食ばかりだが、場所のわかるものは一度も写らない。フクロウは何も上げない。だから美月は、どちらがどちらか決められないまま、二つの欄を線でつないでいた。


 このアプリでは、一人に二つのアカウントが残ることがある。機種を変えるときに引き継ぎに失敗すると、前のアカウントがグループに残ったまま、新しい動物が割り当てられる。同期の誰かが二年前にそれをやって、写真が全部飛んだと騒いでいた。運営はもういない。古いアカウントの消し方も、誰も知らない。


 だから、七人のグループに動物が八匹いても、それだけではカッコウの正体を決められなかった。


 カッコウの欄に、美月は「朝倉莉央?」と書いていた。夫の不倫相手の名前だ。書いたのは半年前だった。あの子が自分で入り込んだのだろう、と美月は思っている。晒して、この家から美月を出したいのだろう、と。


 美月は写真をもう一度見た。


 結婚する前に、一度、似たものを見たことがある。


 大学の裏門から続く坂の途中を、亮介が知らない女と歩いていた。亮介には告白されていた。美月はまだ、返事をしていなかった。坂の上に立って、二人の背中を見ていた。それだけだった。


 あの日、美月は坂を降りて、そのまま亮介のアパートへ行った。


 返事をしていない相手の部屋に、自分から上がった。誰と歩いていたのか、確かめる言葉は一つも言わなかった。代わりに、自分の手を先に伸ばした。触られるより、触るほうが早かった。


 朝まで、美月は眠らなかった。窓の外が白くなるころ、自分の手のひらを見ていた。汗で湿っていて、知らない女の匂いはしなかった。それが嬉しかった。


 この人が欲しいと思ったのは、あのときが初めてだった。


 美月はスマホの設定を開いて、グループの退出ボタンまで指を運んだ。


 押さずに、閉じた。


 その夜、亮介は十一時に帰ってきた。シャツから、この一年、ときどき残っていたのと同じ匂いがした。美月は洗面所でタオルを渡して、それから寝室へ行った。


 亮介は風呂に入らずに寝室へ来た。


 シャツを脱いだ肩から、あの匂いがした。甘くて、少し粉っぽくて、桃を切ってしばらく置いたときの、切り口の匂いに近い。


 美月は灯りを消さなかった。


「電気」

「つけといて」


 亮介は不思議そうな顔をして、それから笑った。妻が変わったと思ったのだろう。


 触られているあいだ、美月は天井を見ていた。染みの位置を覚えている。去年の梅雨に、上の階で水漏れがあったときのものだ。


 嫌だった。


 嫌なのに、体のほうは亮介を受け入れた。吐息が漏れて、指がシーツをつかんだ。憎いという感覚と、欲しいという感覚が、同じ場所から出てくる。区別のつけ方を、美月は知らない。


 いちばん嫌なのは、そこだった。



            ◇



 六月のある金曜、美月が会社を出ると、エントランスに朝倉莉央が立っていた。


 定時から二十分後だった。莉央はスーツ姿で、社員証を首から下げたままだった。自分の会社から、そのまま来たのだ。


「高瀬美月さん、ですよね」と莉央が言った。


 美月はその顔を知っていた。去年の暮れ、名刺を差し出してきた子だ。


「受付で呼んでもらおうかと思ったんですけど」


 それが脅しであることを、莉央は隠さなかった。


「やめてくれてよかった。総務がうるさいの」


 美月はそう言って、歩き出した。莉央もついてきた。並ばずに、半歩後ろを歩いた。


「亮介さんとは、一年です」と莉央が言った。

「そう」

「最初は仕事だけでした。あの人の企画に入れてもらって。そのうち、二人で局に行くようになって」

「そう」

「そうって、なんですか」


 通りの向かいで、居酒屋の店員が看板を出していた。金曜の六時半で、歩道はスーツばかりだった。


「言わないんですか。何も」と莉央が言った。

「あなたが言いに来たんでしょう」と美月は答えた。


 莉央が回り込んで、美月の前に立った。美月は足を止めた。


「あの人、家では喋らないんですよね」


 来た、と美月は思った。


「私には全部話すんですよ。会社のこと、上の人のこと、悔しかったこと。奥さんには言えないって言ってました。奥さんは、うまくいっている話しか聞きたがらないからって」


 亮介は、この一年、毎晩あの家で案件の話をしている。予算の数字も、局の担当の名前も、まだ発表していないコピーも。今日は帰りに何を食べたいかも。


「そうかもね」と美月は言った。

「そうかもって」


 莉央の声が上がった。前を通ったサラリーマンが、一瞬こちらを見た。


「奥さん、そういうところですよ。全部わかってるみたいな顔して、何もしない」

「何をすればよかったの」

「怒ればいいじゃないですか。私のところに来て、別れてくださいって言えばいいじゃないですか。そしたら私、」


 莉央は言葉を切った。切ってから、自分でも止められなかったらしい。


「……そしたら私、勝ったってわかるのに」


 美月は、そこで初めてこの子の顔をまっすぐに見た。


「私が気づいたら、どうすると思ってたの」と美月は聞いた。

「出ていくと思ってました」

「私が?」

「はい」


 莉央は言い直さなかった。それだけは、はっきり言った。


「一年、待ってたんです。奥さんが出ていくの。なのに奥さん、毎晩ごはん作って、ふつうに寝てるんでしょう。あの人が私のところから帰った日も」


 莉央の手が、バッグの持ち手を絞っていた。


「気持ち悪い」


 言った瞬間に、莉央の目が少し泳いだ。言い過ぎたと思ったのだ。それでも取り消さなかった。


「奥さんとは終わってるって、あの人、言ってましたよ」

「そうでしょうね」と美月は言った。

「え」

「あの人、あなたにはそう言うと思う」


 莉央の口が半分開いた。


「……なんで平気なんですか」


 美月は答えなかった。答えれば、この子はもっと踏み込んでくる。


 莉央はしばらく待って、それからバッグの口を閉じようとした。手が震えて、口紅が一本、歩道にこぼれ落ちた。点字ブロックの上で止まった。


 莉央は拾わないまま、駅のほうへ歩いていった。足取りは、さっきより速かった。


 美月はそれを拾った。


 ケースの底に指の跡がついていた。二十五歳の色だった。


 捨てる場所はいくらでもあった。駅までにコンビニが二つあって、改札の横にもごみ箱がある。


 美月はその口紅を、バッグの内ポケットに入れて帰った。


 その夜、美月は寝室の引き出しを開けて、口紅を奥に押し込んだ。スクリーンショットを入れているフォルダのことを、なぜかそのとき思い出した。




            ◇



 その翌週、有紗から連絡が来た。


 「金曜あいてる? あの店の生ハム食べたい」


 美月が「あいてる」と返すと、有紗はすぐに店を予約した。有紗はいつもそうだ。決めるのが早い。大学時代の四年間も、行くところを決めるのは有紗で、ついていくのが美月だった。


 その金曜、有紗は最初にビールを頼んで、それから会社の愚痴を三十分喋った。上司はもうすぐ定年。引き継ぎはめちゃくちゃ。このままだと有給が消える。美月は聞きながら、有紗の顔が少し痩せた、と思った。


 二杯目の途中で、有紗が言った。


「美月んとこ、亮介くん最近どう」


 美月はグラスを置いた。


「相変わらず。夜は遅い」

「そっか」

「先週なんて、二時。冷蔵庫の明太子だけ食べて寝てた」


 美月がそう言って笑うと、有紗も笑った。笑ったあと、有紗の口が一度、何かを言おうとするように開いて、閉じた。


「なに」

「……いや」


 有紗はおしぼりの端を折っていた。


「なんでもない。生ハム、追加していい?」


 美月がうなずくと、有紗は店員を呼んだ。あとになって思い返すと、あの夜、有紗はビールを四杯飲んだ。それでも、言いかけたことは最後まで言わなかった。


 帰り、駅の改札前で、有紗が振り向いた。


「美月って、怒らないよね」

「怒るよ」

「怒んないよ。昔から。私が怒ってる横で、平気な顔してさ」


 冗談めかした言い方だった。美月も同じ調子で返した。


「有紗が全部怒ってくれるから」

「そうだよ。私、ずっと美月の分も怒ってる」


 有紗は改札を通ると、振り返らずに階段を降りていった。



            ◇



 知らない番号からショートメッセージが来たのは、七月の終わりだった。


 朝倉莉央だった。亮介のスマホを見たのだろう。亮介のスマホに、美月の連絡先は「みつき」で登録されている。妻の登録が下の名前だけなのを見て、この子はどう思ったのだろうと、美月は少し考えた。


 場所は莉央が指定してきた。美月の会社ではなく、莉央の会社が入っているビルの一階のカフェだった。昼のいちばん混む時間で、隣の席との距離が近かった。


 莉央は先に座っていた。八月が近いのに、薄いカーディガンを羽織っていた。


「先日は、すみませんでした」


 莉央は最初にそう言った。頭は下げなかった。


「奥さん、私のこと会社に言いましたか」

「言ってない」と美月は答えた。

「なんで」

「言う必要がなかったから」


 莉央はストローの袋を細く折っていた。折って、伸ばして、また折った。


「あの人、あの日から一回も家に帰ってないって言ってます」

「昨日も帰ってきたけど」


 莉央の指が止まった。


「うそ」

「一昨日も。おとといは二時。冷蔵庫の明太子を食べて、寝てた」


 莉央はテーブルの端をつかんだ。爪の根元に、赤黒い小さな点があった。ネイルの際に血がにじんでいる。皮をむしったのだろう。


「じゃあ、私のところにいるって言ってるのは」

「あなたのところにもいるんでしょう」

「両方ってことですか」

「両方よ」


 莉央は笑った。笑いというより、息が抜けた音だった。


「奥さんは、そういうのが平気なんですよね」

「平気じゃない」と美月は言った。

「平気じゃないなら、なんで一年も」


 莉央が身を乗り出した。声が低くなった。ここからが、この子の持ってきたものだった。


「先週、あの人、私の部屋で泣いたんですよ。担当してた案件、来期から別のチームに移るって決まって。俺のやり方が古いって言われたって。四十前に外されたら終わりだって、私の膝に頭のせて、ずっと」


 莉央は一度、息を吸った。


「それで、朝、私の目の前で奥さんに電話してました。会議が長引いたって。私、隣にいたんですよ。あの人、電話しながら私の髪、触ってました」


 グラスの結露をなぞっていた美月の指が止まった。


 莉央はそれを見た。刺さったと思ったのだろう。さらに身を乗り出した。


「奥さん、あの人に触られるとき、私のこと考えないんですか」

「考える」

「え」

「考えるわよ」


 莉央の顔が、ほんの少し歪んだ。


「毎回考える。あなたの匂いがするシャツを洗って、あなたの髪に触れた手で私も触られて、それでも考えないでいられる人がいたら見てみたい」


 言ってから、美月は自分の声が思ったより低いことに気づいた。


「じゃあ、なんで別れないんですか」


 莉央はそう言って、それから、いちばん強いものを出した。


「奥さんは、選ばれなかったんですよ」


 隣の席で、サラリーマンがパスタの値段の話をしていた。


 そうかもしれない、と美月は思った。ただ、美月の手が止まったのは、そこではなかった。


 先週、亮介から朝に電話を受けた日は一日もない。


 莉央の目の前でかけた電話の相手は、美月ではなかった。亮介は莉央の隣で、妻に電話をするふりをして、別の誰かにかけたのだ。会議が長引いたという言葉も、美月ではなく、莉央に聞かせるためのものだった。


 二人とも、それぞれの台詞を配られている。


 美月はスマホを出した。


 三十七枚目を開いて、テーブルの上で莉央のほうへ向けた。


「これ、あなたが上げてるんじゃないの」と美月は聞いた。


 莉央の顔から色が引いた。


「……なんですか、これ」

「知らない?」

「知らない。何これ。誰ですか、これ撮ってるの」


 声が裏返っていた。芝居のできる子ではなかった。


「一年前から、私の見てるところに届いてる」

「一年前から?」


 莉央はスマホを両手で持って、写真を拡大した。自分の横顔のところを指で広げて、それから、指を離した。美月はほかの写真も見せた。手だけの一枚目から、順番に。莉央は一枚ごとに、日付を読んだ。


「これ、去年の六月……私、この日、初めてあの人と」


 莉央は言いかけて、やめた。


「知らない。私、こんなの知らない。奥さんが誰かに撮らせてるんじゃないんですか」

「誰かを雇って、一年もあなたたちを追わせたとでも思う?」

「じゃあ誰が」


 莉央は椅子の背に体を戻した。カーディガンの前を、無意識に合わせていた。


「私、一年ずっと撮られてたってことですか」

「そういうこと」


 莉央の膝が、テーブルの下で跳ね始めた。さっきまで刃を出していた子が、いま、この店でいちばん美月に近いところに座っている。


「……奥さん」

「なに」

「怖いです」


 美月は答えなかった。答える言葉が、美月にもなかった。


 立ち上がるとき、莉央のカーディガンの袖口から、糸が一本出ていた。


 美月は手を伸ばし、その糸を指に巻きつけて、引き切った。


 莉央は何も言わなかった。袖を隠すように手を引いて、それから、頭を下げずに店を出ていった。


 その週末、美月は美容室に行った。予約は先月から入れてあった。


「倒しますね」


 透はそう言ってから、シャンプー台を倒した。湯を出す前にも「かけますね」と言う。首の下にタオルを入れるときも、耳に湯が入らないように押さえるときも、透は先に一度言う。


 美月は目を閉じて、それを聞いていた。


「今日も、そのままでいいですか」と透が聞いた。

「そのままで」

「わかりました」


 透はそれ以上聞かなかった。半年、この人は一度も理由を聞かない。


 鏡の中で、美月の髪は去年の暮れと同じ長さだった。同じ長さを保つには、毎月切らなければならない。伸ばしているわけでも、変えているわけでもない。ただ、止めているだけだ。


「毛先だけ整えますね。触ります」


 断ってから、透は美月の髪に触った。


 夫は、触る前に何も言わない、と美月は思った。キッチンでも、テーブルでも、寝室でも、あの人は何も言わずに耳の上を撫でる。


 その違いを、美月は帰りの電車で二回思い出した。




            ◇



 三十八枚目が届いたのは、八月の第二週だった。


 その夜、美月は写真を開いたまま、しばらく動かなかった。


 坂だった。


 大学の裏門から続く、あの坂。斜め後ろからの角度。亮介と莉央が並んで歩いていて、亮介のほうが半歩前に出ている。


 十年前、美月が坂の上から見たのと、ほとんど同じ位置、同じ高さ、同じ角度だった。


 あの日のことを、美月は誰にも話していない。


 一人だけ、話した。


 大学の食堂で、有紗にだけ話した。坂の上から見てた、と美月は言った。追いかけなかったんだ、とも言った。あのとき有紗は紅茶をふたつ買ってきて、美月の分を先に置いた。自分の分に砂糖を三つ入れて、飲みながら「なんで追いかけないの」ともう一度言った。


 美月は手帳を開いた。


 フクロウとモグラ。有紗と加奈。一年、どちらとも決められなかった二つの欄。

 あの日の坂を知っているのは、そのうちの一人だけだった。


 万年筆のペン先を紙に当てたまま、美月はしばらく動かせなかった。


 二年前、機種を変えて写真が全部飛んだと騒いでいたのは、有紗だった。


 あの日から、有紗にはアカウントが二つある。新しく割り当てられたものと、グループに残された古いもの。美月は、古いほうは使われていないのだと思っていた。


 けれど、消えてはいない。ログインすれば、いまでも写真を上げられる。


 新しいほうは、たぶんフクロウだ。この一年、何も上げていない。そして幽霊だと思っていた古いほうが、カッコウだった。


 美月は電話をかけた。三回目のコールで、有紗が出た。


「……美月」

「今どこにいる」

「家。……なんで」

「行くから」


 美月は切った。電車で二十分だった。


 ドアを開けた有紗は痩せていた。この一年、自分の写真を一枚も上げなかった人の顔をしていた。美月がスマホを出す前に、有紗が言った。


「一回、言おうとしたんだよ」


 有紗は玄関に立ったままだった。美月を家に上げようとしなかったし、美月も上がろうとしなかった。


「去年の六月。二人でごはん食べたときに、言おうとした。先月も」

「うん」

「そしたら美月、亮介くんの話して笑ってたから。私、言えなくなった」


 有紗は靴箱に手をついた。


「最初は手だけだった。あれなら、美月にだけわかるでしょう」


 美月は黙っていた。


「一対一で言ったら、私が壊した人になるでしょう。みんなが騒いで、美月が自分で気づいた形なら、私は何もしてない」


「……ずるいね」と美月は言った。


「うん」


 有紗はそれを否定しなかった。


「次の月も、美月は『知らない人』って返した。だから、もう少しはっきり撮った。その次も同じだったから、もう少し」


 有紗は笑おうとして、失敗した。


「先月のLINE、二十回くらい開いた」


 美月は、自分の指が冷たいのに気づいた。


「有紗」

「うん」

「なんで、坂だったの」


 有紗の顔が変わった。それまでとは違う変わり方だった。


「……あれ、私が選んだんじゃない」


 部屋の奥で、換気扇が回っていた。


「あの人、途中から私に気づいてた」


 美月は動かなかった。


「一回、こっちを見たの。カメラのほうを、はっきり見た。それで、逃げなかった。そのまま、あの子の肩を抱いて歩いていった」


 有紗は自分の腕をつかんだ。


「それからだよ。撮りやすいところを歩くようになったの。明るいところ。人が少ないところ。私が立ってる側に、必ず顔が来るように」

「有紗」

「私、途中から、撮らされてた」


 有紗は袖で口を押さえた。


「この二、三か月、ひどかった。わざとらしくて、こっちが恥ずかしくなるくらい」


 有紗はそこで一度、言葉を切った。


「……ねえ、美月。あの人、なんであの坂だったんだと思う」


 美月は答えなかった。


 俺が何しても平気そうで。


 キッチンで聞いた声が、耳の後ろで鳴っていた。あのとき亮介は一瞬だけ黙った。その一瞬が、この一年でだいぶ長くなっていたことも、美月は覚えている。


 美月は有紗の家の玄関に座り込んだ。


「美月」

「なんでもない」

「なんでもないって顔じゃないよ」


 美月は自分の膝を見ていた。


 十年前のあの夜、美月は初めてこの人を欲しいと思った。坂の上で二人の背中を見て、その足でアパートへ行った。あの夜のことを、美月はずっと自分のものだと思っていた。


 美月は泣いた。


 裏切られたから、だけではなかった。泣いている理由を、美月はまだうまく言葉にできなかった。


 その夜、美月は自分の家に帰った。


 寝室のドアを開けると、亮介は眠っていた。口を半分開けて、よく眠っていた。この人はどこでも眠れる。


 美月はベッドの端に座って、しばらくその顔を見ていた。それから肩に手を置いて、起こした。


「……ん。何」

「起きて」


 亮介は目をこすり、それから美月の顔を見た。暗い部屋でも、表情が変わるのがわかった。


 喜んでいた。


 夜中に起こされて、機嫌の悪い顔を一度もしなかった。


 美月は何も言わずに、自分から先に触った。


 亮介は優しかった。この一年で、いちばん優しかった。髪を撫でる手も、名前を呼ぶ声も、全部が丁寧だった。ずっとこうしてほしかった、と亮介は言った。


 美月は泣かなかった。


 最後の一回だと知っているのは、この部屋で自分だけだった。


 終わると、亮介はすぐに眠った。


 美月は起き上がって、リビングへ行った。スクリーンショットのフォルダを開き、一枚目から順に、三十八枚を見た。


 見終わってから、手帳を出した。明日、弁護士に電話する、と書いた。万年筆のインクが、少しにじんだ。


 書いてから、二重線で消した。


 寝室からは何の音もしなかった。美月はしばらくそのページを見て、それから消した行の下に、同じことをもう一度書いた。日付も足した。


 合わない数字を書き出すのと、同じやり方だった。書いておけば、消えない。


 朝、亮介は七時に起きた。コーヒーを二杯飲んで、機嫌がよかった。


「美月、今日早い?」

「普通」

「じゃあ夜、なんか食いに行こうよ。久しぶりに」


 美月は洗い物の手を止めなかった。


 言うつもりはなかった。それでも口が動いた。


「大学の裏門の坂、まだあるのかな」


 亮介の顔が明るくなった。心当たりを探す顔ではない。待っていたものが来た顔だった。


「あるよ。この前、通った」


 スプーンを置いて、亮介は身を乗り出した。


「あの日さ、美月、坂の上にいただろ」


 水の中で、美月の手が止まった。


「え」

「いたじゃん。上のほう。俺、見てたよ」


 亮介は笑っていた。悪いことを言っている顔ではなかった。十年黙っていたことを、いま思い出して喋っているだけの顔だった。


「覚えてる? 美月、あの日、うちに来ただろ。夜」

「……うん」

「あのときの美月、いちばんよかったよ」


 いちばん、と亮介は言った。十年一緒にいる妻に向かって、十年前の一晩を指して。


「なんで急に、そんな話」

「なんとなく」

「美月さ」


 亮介は笑っていた。優しい顔だった。


「最近ちょっと変だよ。俺のこと、嫌いになった?」


 この人はこう聞く。怒らない。責めない。確かめる。


 美月は皿を伏せて、蛇口を閉めた。


「なんで、そう思うの」

「だって、なんも言わないから」


 一年、何も言わなかった。


 この人はそれを、ずっと待っていた。返事を待つ顔で、いま目の前に座っている。


 美月はそこで初めて、笑うのに失敗した。


「行けたら行く。夜」


 そう言って、美月はバッグを持った。玄関で靴を履くとき、つま先を外に向けて揃えられた亮介の靴が、隣にあった。



            ◇



 美月が莉央にショートメッセージを送ったのは、有紗の家から帰った次の日だった。


 「あなた、案件から外されたままでしょう」

 「はい」

 「それ、うちの人がやったって書ける? 日付と、言われた言葉と」


 返事が来るまで四時間かかった。


 「書きます」

 「私のところに出しても意味がないから、会社の窓口に出して。同じ日にしたいから、日は私が決めていい?」

 「……奥さん、何するんですか」

 「別々に出すの。あなたは会社に。私は弁護士に」


 美月が弁護士に資料を持ち込んだのは、九月の頭だった。


 渡したのは、一年分のスクリーンショットだった。日付順に並べ、場所と時刻を注釈にして、印刷したものを束にした。月次の資料を作るのと同じやり方だった。


 弁護士は、画像を加工していないことと、スクリーンショットの作成日時が端末に残っていることを二度確認した。あのアプリがフィルタや文字入れに対応していなかったことも、証拠の補助にはなると言った。


「九月十七日に届くように、出せますか」


 美月は弁護士に聞いた。順番に効かせるのではなく、同じ日に着弾させてほしかった。


 九月十七日、亮介宛ての内容証明が家に届いた。


 莉央のところにも、同じ日、不貞の慰謝料を求める書面が届いた。


 そして亮介の会社のコンプライアンス窓口には、莉央の申告書が出された。案件を外された日付。「俺と切れたら誰も守らないよ」と言われた夜のこと。企画に入れる条件として言われたこと。


 その週のうちに、会社から主要な取引先へ、調査開始の連絡が出た。


 亮介の会社は三日で、調査が終わるまで、亮介を残りの案件からすべて外した。七月に来期の内示が出ていたので、社内にとって、まったく予想外の措置ではなかった。あのときはまだ、外されるのは一本だけのはずだった。


 一週間で、取引先が距離を置いた。飲料メーカーの看板案件は、担当チームごと入れ替えになった。亮介が三年かけて取ったものだった。


 二週間で、若手が急に口を軽くした。あの人にはこういうことがあった。こういうこともあった。待っていたように、次々と出てきた。深夜二時のメッセージ。企画を通す代わりに求められたもの。「俺に嫌われたら、この業界にいられないよ」という言い方。二年前に辞めた女性社員は、三か月休職してから退職していた。


 窓口には、名前を出さない申告が続けて二件出た。どちらも三年以内に辞めた社員からのものだった。


 そのうち一件は、退職前にも同じ窓口へ出されていた。三年前だ。当時の担当者は両者に事情を聞き、話が食い違ったため、当事者間の問題として扱った。それだけだった。亮介はそのころ、飲料メーカーの看板案件を三年契約で取ってきたばかりだった。


 会社の調査は、その三年前の相談記録にまで遡った。


 亮介の名前は、社内でしばらく声に出して言われなくなった。会議室の予約表からも消えた。あの人が持っていたのは肩書きではなく、若い人間の行き先を決められるという立場だった。それがなくなると、あとには名刺の文字しか残らなかった。


 有紗は、証人として名前を出した。美月は止めなかった。


 美月はまだ、写真アプリ「ブルーム」のグループを退出していなかった。


 九月の終わり、美月は美容室に行った。


「今日も、そのままでいいですか」


 透はいつもの通りに聞いた。


「……少し、切ります」


 鏡の中で、透の手が止まった。それから、普通の顔に戻った。


「どのくらい」

「肩に、つかないくらい」

「わかりました」


 床に落ちた髪を、透は何も言わずに掃いた。


 美月は、鏡の中の自分を長く見た。去年の暮れから、同じ長さを保つために毎月ここへ来ていた。止めていたものが、今日、初めて形を変えた。


 会計のとき、透が言った。


「顔、上げるの楽になりましたね」

「そうですか」

「首、楽なはずです」


 それだけだった。何があったのかは、この人は最後まで聞かない。


 美月は、この店では黙っていていいのだと、そのとき気づいた。家では、黙っているために毎晩働いていた。笑って、質問をして、味噌汁を出していた。ここでは、黙っていることに何の仕事もいらない。


 外に出たのは、十月の頭だった。


 美月がそれを見たのは、朝の通勤電車だった。業界の小さなニュースサイトに、社名を伏せた短い記事が出ていた。大手広告代理店のプロデューサー職の男性が、複数の女性社員への不適切な行為で調査を受けている、という三段落だけの記事だった。


 燃えたのは、その次の一行のほうだった。


 三年前に同じ相談が出ていたが、会社は正式な調査をしていなかった、と書いてあった。


 その日の昼、業界の匿名アカウントが会社名を書いた。夕方には、まとめ記事になっていた。見出しは亮介のことではなかった。三年放置した会社のことだった。


 美月は帰りの電車でも同じ画面を見た。この一年、毎晩スマホで夫の写真を見ていた。姿勢も、持ち方も、同じだった。違うのは、指で数える必要がないことだけだった。


 翌週、飲料メーカーが放映中のCMを差し替えた。会社は「調査中」の一文だけを出した。若手の何人かが、誰も名前を書かないまま、それを引用していた。


 誰が外に出したのか、美月は知らない。有紗ではないと思ったし、莉央でもないと思った。あの会社には、待っていた人がたくさんいたのだろう。



            ◇



 十月の初め、夜中にインターホンが鳴った。


 画面に亮介が映っていた。傘を持っておらず、髪が濡れていた。同じスーツを何日も着ているように見えた。


「美月。開けて」


 美月は玄関まで行って、そこで止まった。錠は先週替えてある。


「なあ、開けてよ。話せばわかるだろ。俺、なんもしてないんだよ。会社が勝手に」


 美月は何も言わなかった。


「美月? いるんだろ。電気ついてるじゃん」


 声が変わった。


「頼むよ。美月がいないと無理なんだ。ほんとに無理なんだって。前もそうだっただろ。美月が来てくれたから、俺」


 言葉がそこで一度切れた。


「なあ。俺のこと、嫌いになった?」


 同じことを聞く人だった。あの朝はキッチンで。いまはドアの向こうで。


 美月はドアに手をついた。冷たさが手のひらに移ってくるまで、そのままにしていた。


 言うことは、ひとつしか浮かばなかった。


「もう、見ないよ」


 それだけ言った。


「え。なに。何の話だよ」


 美月はチェーンを確かめて、リビングに戻った。


 インターホンはしばらく鳴っていた。それから、鳴らなくなった。


 翌朝、玄関前に、乾ききっていない靴跡が二つだけ残っていた。


 どちらも、つま先が外を向いていた。


            ◇


 莉央が家に来たのは、十月の雨の夜だった。


 莉央はインターホンを鳴らして、画面に向かって「すみません」と言った。傘を持っていなかった。


 美月はドアを開けて、上がりなさいとは言わなかった。玄関先に、莉央を立たせたままにした。


「あの人が、私のところに来るんです」と莉央は言った。


「毎晩来て、朝まで泣くんです。俺は何も悪いことしてないって。美月が勝手に怒ってるって。奥さんの名前で泣くんですよ、私の部屋で」


 声が湿っていた。


「案件も、私、外されたままで。奥さん、慰謝料って、あれ本当に払わないといけないんですか」

「弁護士に聞いて」

「奥さん」


 莉央は顔を上げた。


「私を使ったんですよね」


 美月は、キッチンカウンターの小皿から鍵を取った。


 この家の古い鍵だ。先週、業者を呼んで錠を替えた。美月の手の中にあるのは、もう回らないほうだった。


「あげる」と美月は言った。


 莉央の目が、鍵と美月の顔を往復した。


「一年、これが欲しかったんでしょう」

「……これ、開くんですか」

「開かない。先週替えた」


 莉央の手が止まった。


「じゃあ、なんで」

「あなたが一年かけて手に入れたもの、全部これと同じだから」


 美月は鍵を差し出したままにした。


「あの人の言葉も、部屋も、私の場所も。持ってるつもりでしょうけど、どれも開かないの。使えないものを、あなたはずっと握ってた」


 莉央は受け取らなかった。手を出さなかった。美月はその手を取って、掌に鍵を置き、指を閉じさせた。


「あと、あの人も持っていって」と美月は言った。


「あの人、もう行き先がないの。会社にも居場所がない。この家にも入れない。今夜も、あなたのところに行くと思う」


 莉央の喉が鳴った。


「奥さん、最初から気づいてたんですか」


「一年前から」と美月は答えた。


 莉央の顔が壊れた。泣くのとは違う崩れ方だった。


「じゃあ、なんで。なんで何も言わなかったんですか。言ってくれたら、私、」

「言ってたら、あなた、やめた?」


 莉央は答えなかった。


 美月は、莉央の目をまっすぐに見た。


「私が気づいていないと思った? 違うよ」


 雨の音が、玄関の内側まで届いていた。


「あの人が、私に見せたかっただけ」


 莉央の口が半分開いた。


「あなたが歩いてたあの坂ね。十年前に、私が同じものを見た場所なの。あの人が選んだのよ」


「……じゃあ、私は」


「あの人が私に見せるための舞台に、立たされてたの」


 莉央は鍵を握ったまま、動かなかった。


 美月はそこで少し声を落とした。莉央の目からは、視線を外していた。


「全部見た。一枚も消さずに、三十八枚。……見た夜は、あの人を自分から呼んだ」


 言ってから、美月は自分の手を見た。


「私も、あの人の共犯だったの」


 莉央は何も返さなかった。返せる言葉が、この子にもなかった。


 美月はドアの取っ手に手をかけた。それから、閉める前にもう一度だけ莉央を見た。


「慰謝料は請求する。あの人から聞いたことを、事実みたいに周りへ話した分も訂正してもらう。そこは引かない」

「……はい」

「でも、ひとつだけ言っておく」


 莉央が顔を上げた。


「あなたも選ばれてない」


 莉央の目から、一年ぶんの何かが抜けていくのが見えた。憎まれるだろうと美月は思った。それでも、これは言っておくべきことだった。


 ドアが閉まってから、美月はスマホを出した。


 ブルームを開き、設定からグループの退出を押した。


 確認画面が出た。美月は「退出する」を押した。シロクマが消えた。


 退出の通知は出ない。明日の夜、動物が一匹減っていることに、誰かは気づくかもしれない。でも、どれが誰だったのかは誰にもわからない。それでよかった。


 その夜、有紗から電話が来た。


「美月」

「うん」

「なんで一年も黙ってたの」

「有紗が笑ってほしそうだったから」


 少し間があった。


「……ごめん」

「うん。私も」


 電話を切って、美月は玄関に行った。


 この部屋は、財産分与で美月のものになる。書類はもう出してある。


 美月は新しい鍵を回して、チェーンを掛けた。内側から、自分の手で。


 一年間、この扉の外で起きていたことを、写真に撮られて見せつけられていた。


 今日から、鍵を掛けるのはこちら側だ。



            ◇



 離婚が成立したのは、十一月の末だった。


 亮介がこだわったのは、条件ではなく、美月と直接話すことだけだった。弁護士に「奥さまはもうお会いになりません」と言われた翌日、あの人は判子を押したらしい。


 美月は旧姓に戻った。会社の名札を替えるのに一週間かかった。


 年が明け、三月になるころには、美月が担当する会社が二社増えていた。


 机の上には、四つの色の付箋が並んでいる。青は請求、黄色は締めの前に聞くこと、桃色は来月に回すもの、緑は保留。緑の付箋は、最近あまり使わなくなった。


 美月は部屋の模様替えをした。最初は、亮介が座っていた側だけ捨てたいと思った。途中でばかばかしくなって、ソファを丸ごと捨てた。二人がけを一つ捨てて、一人がけを二つ買った。片方には、まだ誰も座っていない。


 寝室の引き出しも空にした。


 いちばん奥に、口紅が入っていた。去年の六月、会社の前の歩道で拾ったものだ。ケースの底には、まだ指の跡が残っていた。


 あのとき美月は、これを捨てられなかった。莉央のものだから捨てられなかったのではない。あのころの美月は、手に入ったものを何ひとつ手放せなかった。口紅も、三十八枚のスクリーンショットも、夫も。


 美月はキャップを外して、色を見た。二十五歳の色だった。


 それから、ごみ袋に落とした。音はしなかった。


 有紗とは、月に一度、会社の近くで昼を食べる。パスタか、韓国料理の店。


 あの一年の話は、どちらもしない。ただ、有紗が最近また写真を撮るようになったことを、美月は知っている。花とか、猫とか、注文したものとか、そういうものを撮っている。


「グループ、また作ろうか」と美月が言うと、有紗はフォークを止めた。


「今度は本名でやろうよ」

「動物、いなくていいの」

「いい。もう当てたくない」


 有紗は一年、美月を追い詰めた。美月は一年、有紗に言わせなかった。どちらも一度謝って、どちらも許したとは言っていない。それでも月に一度、同じテーブルを囲んで昼を食べる。そういう続き方もあるらしい。


 莉央のことは、弁護士から月に一度、入金確認の連絡が来る。分割で、あと三年続く。それ以上のことは、美月は追っていない。


 髪は、あれからもう二回切った。


 いまは肩より上にある。十年ぶりの長さだった。二月に「これ以上短くすると、もう別人ですよ」と透に言われて、美月が笑ったら、三月に「今度、店の外で会いませんか」と言われた。


 一回めは、駅の裏の中華だった。


 透は仕事の話をした。予約が読めない話、指を痛めた話、独立するかどうか三年迷っている話。美月は聞いて、質問をした。それから、自分の仕事の話をした。数字が合わない日のことを話すと、透が言った。


「経理の人ってすごいですよね。合うまで帰らないんでしょう」


「合わないまま帰る日もありますよ」

「あるんですか」

「あります。書き出して、置いておくの」


 言ってから、美月は自分の話をしてしまったことに気づいた。透は、それを深く聞かなかった。


「じゃあ、たまには置いといてください」


 透はそう言って、水を飲んだ。


 美月は、離婚のことも、去年のことも、何も話していない。透は一度も聞かない。聞かないことを我慢しているのではなくて、たぶん、この人が見ているのは、聞かされていない過去ではなく、いま目の前にいる美月なのだ。


 二回めの食事の帰りだった。夕方の光が、道路の水たまりの上に伸びていた。


「手、つないでもいい?」


 透が聞いた。


 美月は一度、自分の指を見た。


 それから、うなずいた。


 透の手は、強く握らなかった。逃げようと思えば逃げられるくらいの力だった。


 もう、数えなくてよかった。



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