不倫写真を一年見せつけられた寝取られ妻、略奪女に行き場のない夫を差し上げたあとで、送り主の正体を知りました
ホテルの入口の前を歩く、夫と女の写真だった。
後ろから撮られていて、二人とも気づいていない。腕は組んでいない。それでも、他人と歩く距離ではなかった。女のほうは若い。髪が長くて、毛先だけ茶色かった。
夕方の六時。高瀬美月はキッチンに立ったまま、それを見ていた。
その写真が上がっていたのは、友達しかいないはずのアプリだった。大学の同期七人でつくったグループで、一日に一枚、その日撮ったものを上げる。犬。深夜のコンビニ。子どもの寝顔。誰かの足の爪。天井。それと、美月が昼に撮った机の上の電卓。
夫の写真は、その並びのいちばん下にあった。
上げたのは、カッコウだった。
このグループに入ると、全員に動物の名前がつく。誰がどの動物なのかはわからない。当てるのが遊びだった。
グループは七人。なのに、動物は八匹いる。
カワウソがすぐに書き込んだ。
「またカッコウだw」
「懲りないな〜」
「てかこれ誰なの? いまだにわかんないの?」
美月も打った。一年、同じ言葉を打っている。
「知らない人」
送信してから、美月はカッコウの写真を長押しして、スクリーンショットを撮った。このアプリの写真は、一日で消える。
それから、洗濯かごの前へ行った。
夫のシャツの襟に、髪が一本、貼りついていた。
自分の髪ではない。美月の髪は肩までで、色を入れていない。襟に貼りついていたのは長い髪で、毛先だけ茶色くて、洗剤の乾いた匂いの中で妙にはっきりしていた。
毛先の色まで、写真の女と同じだった。
美月は爪の先だけでその髪をつまみ上げた。指の腹には触らせなかった。洗面台のごみ箱まで持っていって、二本の指をはたくようにして落とした。
シャツは洗濯機に入れた。洗剤は多めに入れた。回して、脱水が終わってから、美月はもう一度、最初から回した。
二度目の水が抜けていく音を、美月は洗面所に立って聞いた。糸くずと、襟の脂と、知らない女の匂いが、いま排水口の向こうへ流れている。そう思えるまで、美月はそこにいた。
美月は会社で経理をしている。数字が合わない日がある。何時間探しても原因が見つからないとき、美月は合わない分だけを別の紙に書き出して、今日はここまでにする。書き出しておけば、机の上はきれいになる。あとで見つかることもあるし、見つからないまま年を越すこともある。
美月はそういうやり方に慣れていた。
夫の高瀬亮介が帰ってきたのは、夜の八時過ぎだった。
「ただいまー。あー、いい匂いする。腹減った、俺もう限界」
玄関で靴を脱ぐと、亮介はいつものように、つま先を外に向けて揃えた。誰の家に上がるときもそうする。育ちがいいのではない。いつでも出ていける形にしておく癖なのだと、美月は思っている。
「もうできてるよ」と美月は言った。
「マジで? 愛してる」
美月が用意したのは、焼いた鮭と、味噌汁と、作り置きのマリネと、冷やしたトマトだった。亮介はネクタイを緩めながら椅子に座り、写真も撮らずに箸を取った。鮭を一口食べて、うまい、うまい、と二度言った。この人は毎回そう言う。
「今日さ、テレビ局の人に美月のこと言われた」と亮介が言った。
「私?」
「三年前の、あの制作発表の打ち上げ。あのとき挨拶しただろ。あのときの奥さん、ぜんぜん喋らないのに、いちばん場が読めてる人でしたね、って」
美月は味噌汁の椀を持ったまま、少し笑った。
「三年前のこと言われても」
「覚えてるってことだよ。すごくない?」
亮介はよく笑う人だった。会議室でも、打ち上げでも、いちばんよく笑う。あの笑い方で仕事を取ってくる人だった。
食べながら、亮介はいま動いている案件の話をした。タレントの名前と、来週の撮影場所と、まだ発表していないコピーの話。亮介が口にした予算の数字に合わないところがあり、美月が指摘すると、亮介は箸を止めた。
「ほんと美月って、そういうの一発で見つけるよな」
「仕事だから」
「それに、動じないし」
亮介は箸をテーブルに置いた。
「怒ってるの、俺、見たことないもん。結婚してから一回も。……俺が何しても平気そうで」
美月はグラスの水に手を伸ばした。
「何かしたの」と美月は聞いた。
亮介は一瞬だけ黙って、それから笑った。
「してないよ」
その一瞬が、この一年でだいぶ長くなっている。
亮介はテーブルの上で、美月の指に自分の指を重ねた。温かい手だった。手のことで、美月がこの人を嫌ったことは一度もない。
食器を片づけてから、美月はもう一度アプリを開いた。
カッコウの最初の一枚が来たのは、去年の六月だった。あのときは手しか写っていなかった。誰かの手首と、男の指。それだけだった。「これ誰w」「不倫じゃんw」と五分くらい盛り上がって、写り込んだ他人だろうという話になって、消えた。
その週に、七人のLINEグループでも一度確認した。カッコウって誰、とかおりが聞いて、六人が順番に、私じゃない、と答えた。じゃあ、誰かの招待リンクから入った知り合いだろう、という話になった。このアプリには、誰が誰を招待したのかという記録が残らない。古い招待リンクも、どこかにまだ生きているらしかった。
それから一年、この話は毎回そこで終わる。誰も名乗らない。名乗ったら、このアプリの意味がなくなる。今日も何人かが茶化して、それで流れていた。
一覧に戻ると、フクロウの欄が空だった。
フクロウはこの一年、自分の写真を一枚も上げていない。通知は毎日鳴っているはずなのに、フクロウの写真だけ、ずっと出てこない。飽きたのだろう。五年前に流行ったアプリなのだから、飽きるほうが普通だ。むしろ、まだ毎晩開いている自分のほうがおかしい。
美月はアプリを閉じた。乾燥機の中で、洗い直した亮介のシャツが回っていた。
それから、思い出してLINEを開いた。佐藤有紗にだけ、短いメッセージを送った。
「元気? そのうちお茶しよ」
既読にならなかった。
忙しいのだろう、と美月は思った。三十二にもなれば、誰でも何かしらある。有紗は大学から続いている友達で、去年の五月に会ったときは元気だった。
シャワーの音が止んで、寝室から亮介が呼んだ。
「美月。まだ起きてる?」
美月はスマホを伏せて、立ち上がった。
寝室の灯りは落ちていた。亮介は枕に頭を載せ、スマホを充電器につないでいた。
美月は自分からベッドに入って、夫の背中に手を置いた。
部屋着の背中は、乾燥機から出したばかりの匂いがした。
亮介が振り向いて、少し笑った。
「めずらしいね」
「そう?」
美月はそう答えて、それ以上は何も言わなかった。言わないほうが、この人は喜ぶ。
暗いなかで、亮介の指が美月の髪をかき上げた。断りもなく触る手だった。美月は目を開けたまま、その手を受けた。
拒まない代わりに、亮介の背中に爪を立て、首筋に歯を立てた。
それが終わると、亮介はすぐに眠った。
美月は天井を見ていた。明日の朝に出すごみのことを考えていた。あの髪はもうごみ袋の底で、生ごみが覆いかぶさっている。
◇
美月のスクリーンショットは、三十七枚になっていた。
美月はそれを日付の順に並べる癖がある。仕事でもそうする。数字が合わなくなるのは、たいてい日付を跨いだところだからだ。
一枚目は去年の六月。手だけ。
二枚目は後ろ姿。
三枚目は店の看板と、その下に立つ二人の足。
秋から、女の顔が入るようになった。
冬には、場所がわかるようになった。日比谷の交差点。テレビ局の裏の坂。麻布の細い道。
春には、時間が入った。写真の隅に、駅の時計が写り込むようになった。
そして、三十七枚目がホテルの前だ。
日付順に並べると、写真の向こうから、何かが少しずつこちらへ寄ってくる感じがした。だんだん声を大きくしていく人の話し方に似ていた。美月は、撮る側が慣れてきただけだと思っていた。
女の顔と名前がわかったのは、去年の暮れだった。
亮介の会社の周年パーティに、美月も連れていかれた。挨拶をしているあいだ、亮介の斜め後ろに立っていた子がいた。差し出された名刺を、美月は読んだ。朝倉莉央。二十五歳。肩書きから、亮介の部下だとわかった。
その夜、家に帰ってから、美月は秋の写真を開いた。同じ子だった。髪の長さも、毛先の色も、耳のかたちも合っていた。
同じ暮れに、美月は美容室を変えた。前の店の担当が辞めたので、家から近いところを予約した。
鏡の中で、美月の後ろに立ったのは、佐伯透だった。高校で同じクラスだった男だ。十年以上会っていなかった。
「高瀬さん……いや、いま何さんですか」
「高瀬」
「そっか」
透は美月の髪を見て、それから顔を見た。指輪のほうを先に見なかった。それだけのことを、美月はなぜか覚えている。
「どうします。少し軽くしますか」
「そのままでいいです」
美月はそう答えた。それから半年、毎回そう答えている。
美月は手帳を開いて、万年筆のキャップを外した。
二十歳のときに父がくれた万年筆で、美月はいまも仕事の手帳をこれで書いている。画面で打つより、この重さのほうが頭が落ち着く。
手帳の後ろのページには、動物と同期の名前を並べてある。カワウソはかおり。あとの三匹も、去年のうちに埋まった。
残っているのは二匹。フクロウとモグラ。
名前のほうも二人残っている。有紗と、加奈。
加奈は三年前に大阪へ行った。モグラが上げてくるのは駅と空と社食ばかりだが、場所のわかるものは一度も写らない。フクロウは何も上げない。だから美月は、どちらがどちらか決められないまま、二つの欄を線でつないでいた。
このアプリでは、一人に二つのアカウントが残ることがある。機種を変えるときに引き継ぎに失敗すると、前のアカウントがグループに残ったまま、新しい動物が割り当てられる。同期の誰かが二年前にそれをやって、写真が全部飛んだと騒いでいた。運営はもういない。古いアカウントの消し方も、誰も知らない。
だから、七人のグループに動物が八匹いても、それだけではカッコウの正体を決められなかった。
カッコウの欄に、美月は「朝倉莉央?」と書いていた。夫の不倫相手の名前だ。書いたのは半年前だった。あの子が自分で入り込んだのだろう、と美月は思っている。晒して、この家から美月を出したいのだろう、と。
美月は写真をもう一度見た。
結婚する前に、一度、似たものを見たことがある。
大学の裏門から続く坂の途中を、亮介が知らない女と歩いていた。亮介には告白されていた。美月はまだ、返事をしていなかった。坂の上に立って、二人の背中を見ていた。それだけだった。
あの日、美月は坂を降りて、そのまま亮介のアパートへ行った。
返事をしていない相手の部屋に、自分から上がった。誰と歩いていたのか、確かめる言葉は一つも言わなかった。代わりに、自分の手を先に伸ばした。触られるより、触るほうが早かった。
朝まで、美月は眠らなかった。窓の外が白くなるころ、自分の手のひらを見ていた。汗で湿っていて、知らない女の匂いはしなかった。それが嬉しかった。
この人が欲しいと思ったのは、あのときが初めてだった。
美月はスマホの設定を開いて、グループの退出ボタンまで指を運んだ。
押さずに、閉じた。
その夜、亮介は十一時に帰ってきた。シャツから、この一年、ときどき残っていたのと同じ匂いがした。美月は洗面所でタオルを渡して、それから寝室へ行った。
亮介は風呂に入らずに寝室へ来た。
シャツを脱いだ肩から、あの匂いがした。甘くて、少し粉っぽくて、桃を切ってしばらく置いたときの、切り口の匂いに近い。
美月は灯りを消さなかった。
「電気」
「つけといて」
亮介は不思議そうな顔をして、それから笑った。妻が変わったと思ったのだろう。
触られているあいだ、美月は天井を見ていた。染みの位置を覚えている。去年の梅雨に、上の階で水漏れがあったときのものだ。
嫌だった。
嫌なのに、体のほうは亮介を受け入れた。吐息が漏れて、指がシーツをつかんだ。憎いという感覚と、欲しいという感覚が、同じ場所から出てくる。区別のつけ方を、美月は知らない。
いちばん嫌なのは、そこだった。
◇
六月のある金曜、美月が会社を出ると、エントランスに朝倉莉央が立っていた。
定時から二十分後だった。莉央はスーツ姿で、社員証を首から下げたままだった。自分の会社から、そのまま来たのだ。
「高瀬美月さん、ですよね」と莉央が言った。
美月はその顔を知っていた。去年の暮れ、名刺を差し出してきた子だ。
「受付で呼んでもらおうかと思ったんですけど」
それが脅しであることを、莉央は隠さなかった。
「やめてくれてよかった。総務がうるさいの」
美月はそう言って、歩き出した。莉央もついてきた。並ばずに、半歩後ろを歩いた。
「亮介さんとは、一年です」と莉央が言った。
「そう」
「最初は仕事だけでした。あの人の企画に入れてもらって。そのうち、二人で局に行くようになって」
「そう」
「そうって、なんですか」
通りの向かいで、居酒屋の店員が看板を出していた。金曜の六時半で、歩道はスーツばかりだった。
「言わないんですか。何も」と莉央が言った。
「あなたが言いに来たんでしょう」と美月は答えた。
莉央が回り込んで、美月の前に立った。美月は足を止めた。
「あの人、家では喋らないんですよね」
来た、と美月は思った。
「私には全部話すんですよ。会社のこと、上の人のこと、悔しかったこと。奥さんには言えないって言ってました。奥さんは、うまくいっている話しか聞きたがらないからって」
亮介は、この一年、毎晩あの家で案件の話をしている。予算の数字も、局の担当の名前も、まだ発表していないコピーも。今日は帰りに何を食べたいかも。
「そうかもね」と美月は言った。
「そうかもって」
莉央の声が上がった。前を通ったサラリーマンが、一瞬こちらを見た。
「奥さん、そういうところですよ。全部わかってるみたいな顔して、何もしない」
「何をすればよかったの」
「怒ればいいじゃないですか。私のところに来て、別れてくださいって言えばいいじゃないですか。そしたら私、」
莉央は言葉を切った。切ってから、自分でも止められなかったらしい。
「……そしたら私、勝ったってわかるのに」
美月は、そこで初めてこの子の顔をまっすぐに見た。
「私が気づいたら、どうすると思ってたの」と美月は聞いた。
「出ていくと思ってました」
「私が?」
「はい」
莉央は言い直さなかった。それだけは、はっきり言った。
「一年、待ってたんです。奥さんが出ていくの。なのに奥さん、毎晩ごはん作って、ふつうに寝てるんでしょう。あの人が私のところから帰った日も」
莉央の手が、バッグの持ち手を絞っていた。
「気持ち悪い」
言った瞬間に、莉央の目が少し泳いだ。言い過ぎたと思ったのだ。それでも取り消さなかった。
「奥さんとは終わってるって、あの人、言ってましたよ」
「そうでしょうね」と美月は言った。
「え」
「あの人、あなたにはそう言うと思う」
莉央の口が半分開いた。
「……なんで平気なんですか」
美月は答えなかった。答えれば、この子はもっと踏み込んでくる。
莉央はしばらく待って、それからバッグの口を閉じようとした。手が震えて、口紅が一本、歩道にこぼれ落ちた。点字ブロックの上で止まった。
莉央は拾わないまま、駅のほうへ歩いていった。足取りは、さっきより速かった。
美月はそれを拾った。
ケースの底に指の跡がついていた。二十五歳の色だった。
捨てる場所はいくらでもあった。駅までにコンビニが二つあって、改札の横にもごみ箱がある。
美月はその口紅を、バッグの内ポケットに入れて帰った。
その夜、美月は寝室の引き出しを開けて、口紅を奥に押し込んだ。スクリーンショットを入れているフォルダのことを、なぜかそのとき思い出した。
◇
その翌週、有紗から連絡が来た。
「金曜あいてる? あの店の生ハム食べたい」
美月が「あいてる」と返すと、有紗はすぐに店を予約した。有紗はいつもそうだ。決めるのが早い。大学時代の四年間も、行くところを決めるのは有紗で、ついていくのが美月だった。
その金曜、有紗は最初にビールを頼んで、それから会社の愚痴を三十分喋った。上司はもうすぐ定年。引き継ぎはめちゃくちゃ。このままだと有給が消える。美月は聞きながら、有紗の顔が少し痩せた、と思った。
二杯目の途中で、有紗が言った。
「美月んとこ、亮介くん最近どう」
美月はグラスを置いた。
「相変わらず。夜は遅い」
「そっか」
「先週なんて、二時。冷蔵庫の明太子だけ食べて寝てた」
美月がそう言って笑うと、有紗も笑った。笑ったあと、有紗の口が一度、何かを言おうとするように開いて、閉じた。
「なに」
「……いや」
有紗はおしぼりの端を折っていた。
「なんでもない。生ハム、追加していい?」
美月がうなずくと、有紗は店員を呼んだ。あとになって思い返すと、あの夜、有紗はビールを四杯飲んだ。それでも、言いかけたことは最後まで言わなかった。
帰り、駅の改札前で、有紗が振り向いた。
「美月って、怒らないよね」
「怒るよ」
「怒んないよ。昔から。私が怒ってる横で、平気な顔してさ」
冗談めかした言い方だった。美月も同じ調子で返した。
「有紗が全部怒ってくれるから」
「そうだよ。私、ずっと美月の分も怒ってる」
有紗は改札を通ると、振り返らずに階段を降りていった。
◇
知らない番号からショートメッセージが来たのは、七月の終わりだった。
朝倉莉央だった。亮介のスマホを見たのだろう。亮介のスマホに、美月の連絡先は「みつき」で登録されている。妻の登録が下の名前だけなのを見て、この子はどう思ったのだろうと、美月は少し考えた。
場所は莉央が指定してきた。美月の会社ではなく、莉央の会社が入っているビルの一階のカフェだった。昼のいちばん混む時間で、隣の席との距離が近かった。
莉央は先に座っていた。八月が近いのに、薄いカーディガンを羽織っていた。
「先日は、すみませんでした」
莉央は最初にそう言った。頭は下げなかった。
「奥さん、私のこと会社に言いましたか」
「言ってない」と美月は答えた。
「なんで」
「言う必要がなかったから」
莉央はストローの袋を細く折っていた。折って、伸ばして、また折った。
「あの人、あの日から一回も家に帰ってないって言ってます」
「昨日も帰ってきたけど」
莉央の指が止まった。
「うそ」
「一昨日も。おとといは二時。冷蔵庫の明太子を食べて、寝てた」
莉央はテーブルの端をつかんだ。爪の根元に、赤黒い小さな点があった。ネイルの際に血がにじんでいる。皮をむしったのだろう。
「じゃあ、私のところにいるって言ってるのは」
「あなたのところにもいるんでしょう」
「両方ってことですか」
「両方よ」
莉央は笑った。笑いというより、息が抜けた音だった。
「奥さんは、そういうのが平気なんですよね」
「平気じゃない」と美月は言った。
「平気じゃないなら、なんで一年も」
莉央が身を乗り出した。声が低くなった。ここからが、この子の持ってきたものだった。
「先週、あの人、私の部屋で泣いたんですよ。担当してた案件、来期から別のチームに移るって決まって。俺のやり方が古いって言われたって。四十前に外されたら終わりだって、私の膝に頭のせて、ずっと」
莉央は一度、息を吸った。
「それで、朝、私の目の前で奥さんに電話してました。会議が長引いたって。私、隣にいたんですよ。あの人、電話しながら私の髪、触ってました」
グラスの結露をなぞっていた美月の指が止まった。
莉央はそれを見た。刺さったと思ったのだろう。さらに身を乗り出した。
「奥さん、あの人に触られるとき、私のこと考えないんですか」
「考える」
「え」
「考えるわよ」
莉央の顔が、ほんの少し歪んだ。
「毎回考える。あなたの匂いがするシャツを洗って、あなたの髪に触れた手で私も触られて、それでも考えないでいられる人がいたら見てみたい」
言ってから、美月は自分の声が思ったより低いことに気づいた。
「じゃあ、なんで別れないんですか」
莉央はそう言って、それから、いちばん強いものを出した。
「奥さんは、選ばれなかったんですよ」
隣の席で、サラリーマンがパスタの値段の話をしていた。
そうかもしれない、と美月は思った。ただ、美月の手が止まったのは、そこではなかった。
先週、亮介から朝に電話を受けた日は一日もない。
莉央の目の前でかけた電話の相手は、美月ではなかった。亮介は莉央の隣で、妻に電話をするふりをして、別の誰かにかけたのだ。会議が長引いたという言葉も、美月ではなく、莉央に聞かせるためのものだった。
二人とも、それぞれの台詞を配られている。
美月はスマホを出した。
三十七枚目を開いて、テーブルの上で莉央のほうへ向けた。
「これ、あなたが上げてるんじゃないの」と美月は聞いた。
莉央の顔から色が引いた。
「……なんですか、これ」
「知らない?」
「知らない。何これ。誰ですか、これ撮ってるの」
声が裏返っていた。芝居のできる子ではなかった。
「一年前から、私の見てるところに届いてる」
「一年前から?」
莉央はスマホを両手で持って、写真を拡大した。自分の横顔のところを指で広げて、それから、指を離した。美月はほかの写真も見せた。手だけの一枚目から、順番に。莉央は一枚ごとに、日付を読んだ。
「これ、去年の六月……私、この日、初めてあの人と」
莉央は言いかけて、やめた。
「知らない。私、こんなの知らない。奥さんが誰かに撮らせてるんじゃないんですか」
「誰かを雇って、一年もあなたたちを追わせたとでも思う?」
「じゃあ誰が」
莉央は椅子の背に体を戻した。カーディガンの前を、無意識に合わせていた。
「私、一年ずっと撮られてたってことですか」
「そういうこと」
莉央の膝が、テーブルの下で跳ね始めた。さっきまで刃を出していた子が、いま、この店でいちばん美月に近いところに座っている。
「……奥さん」
「なに」
「怖いです」
美月は答えなかった。答える言葉が、美月にもなかった。
立ち上がるとき、莉央のカーディガンの袖口から、糸が一本出ていた。
美月は手を伸ばし、その糸を指に巻きつけて、引き切った。
莉央は何も言わなかった。袖を隠すように手を引いて、それから、頭を下げずに店を出ていった。
その週末、美月は美容室に行った。予約は先月から入れてあった。
「倒しますね」
透はそう言ってから、シャンプー台を倒した。湯を出す前にも「かけますね」と言う。首の下にタオルを入れるときも、耳に湯が入らないように押さえるときも、透は先に一度言う。
美月は目を閉じて、それを聞いていた。
「今日も、そのままでいいですか」と透が聞いた。
「そのままで」
「わかりました」
透はそれ以上聞かなかった。半年、この人は一度も理由を聞かない。
鏡の中で、美月の髪は去年の暮れと同じ長さだった。同じ長さを保つには、毎月切らなければならない。伸ばしているわけでも、変えているわけでもない。ただ、止めているだけだ。
「毛先だけ整えますね。触ります」
断ってから、透は美月の髪に触った。
夫は、触る前に何も言わない、と美月は思った。キッチンでも、テーブルでも、寝室でも、あの人は何も言わずに耳の上を撫でる。
その違いを、美月は帰りの電車で二回思い出した。
◇
三十八枚目が届いたのは、八月の第二週だった。
その夜、美月は写真を開いたまま、しばらく動かなかった。
坂だった。
大学の裏門から続く、あの坂。斜め後ろからの角度。亮介と莉央が並んで歩いていて、亮介のほうが半歩前に出ている。
十年前、美月が坂の上から見たのと、ほとんど同じ位置、同じ高さ、同じ角度だった。
あの日のことを、美月は誰にも話していない。
一人だけ、話した。
大学の食堂で、有紗にだけ話した。坂の上から見てた、と美月は言った。追いかけなかったんだ、とも言った。あのとき有紗は紅茶をふたつ買ってきて、美月の分を先に置いた。自分の分に砂糖を三つ入れて、飲みながら「なんで追いかけないの」ともう一度言った。
美月は手帳を開いた。
フクロウとモグラ。有紗と加奈。一年、どちらとも決められなかった二つの欄。
あの日の坂を知っているのは、そのうちの一人だけだった。
万年筆のペン先を紙に当てたまま、美月はしばらく動かせなかった。
二年前、機種を変えて写真が全部飛んだと騒いでいたのは、有紗だった。
あの日から、有紗にはアカウントが二つある。新しく割り当てられたものと、グループに残された古いもの。美月は、古いほうは使われていないのだと思っていた。
けれど、消えてはいない。ログインすれば、いまでも写真を上げられる。
新しいほうは、たぶんフクロウだ。この一年、何も上げていない。そして幽霊だと思っていた古いほうが、カッコウだった。
美月は電話をかけた。三回目のコールで、有紗が出た。
「……美月」
「今どこにいる」
「家。……なんで」
「行くから」
美月は切った。電車で二十分だった。
ドアを開けた有紗は痩せていた。この一年、自分の写真を一枚も上げなかった人の顔をしていた。美月がスマホを出す前に、有紗が言った。
「一回、言おうとしたんだよ」
有紗は玄関に立ったままだった。美月を家に上げようとしなかったし、美月も上がろうとしなかった。
「去年の六月。二人でごはん食べたときに、言おうとした。先月も」
「うん」
「そしたら美月、亮介くんの話して笑ってたから。私、言えなくなった」
有紗は靴箱に手をついた。
「最初は手だけだった。あれなら、美月にだけわかるでしょう」
美月は黙っていた。
「一対一で言ったら、私が壊した人になるでしょう。みんなが騒いで、美月が自分で気づいた形なら、私は何もしてない」
「……ずるいね」と美月は言った。
「うん」
有紗はそれを否定しなかった。
「次の月も、美月は『知らない人』って返した。だから、もう少しはっきり撮った。その次も同じだったから、もう少し」
有紗は笑おうとして、失敗した。
「先月のLINE、二十回くらい開いた」
美月は、自分の指が冷たいのに気づいた。
「有紗」
「うん」
「なんで、坂だったの」
有紗の顔が変わった。それまでとは違う変わり方だった。
「……あれ、私が選んだんじゃない」
部屋の奥で、換気扇が回っていた。
「あの人、途中から私に気づいてた」
美月は動かなかった。
「一回、こっちを見たの。カメラのほうを、はっきり見た。それで、逃げなかった。そのまま、あの子の肩を抱いて歩いていった」
有紗は自分の腕をつかんだ。
「それからだよ。撮りやすいところを歩くようになったの。明るいところ。人が少ないところ。私が立ってる側に、必ず顔が来るように」
「有紗」
「私、途中から、撮らされてた」
有紗は袖で口を押さえた。
「この二、三か月、ひどかった。わざとらしくて、こっちが恥ずかしくなるくらい」
有紗はそこで一度、言葉を切った。
「……ねえ、美月。あの人、なんであの坂だったんだと思う」
美月は答えなかった。
俺が何しても平気そうで。
キッチンで聞いた声が、耳の後ろで鳴っていた。あのとき亮介は一瞬だけ黙った。その一瞬が、この一年でだいぶ長くなっていたことも、美月は覚えている。
美月は有紗の家の玄関に座り込んだ。
「美月」
「なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないよ」
美月は自分の膝を見ていた。
十年前のあの夜、美月は初めてこの人を欲しいと思った。坂の上で二人の背中を見て、その足でアパートへ行った。あの夜のことを、美月はずっと自分のものだと思っていた。
美月は泣いた。
裏切られたから、だけではなかった。泣いている理由を、美月はまだうまく言葉にできなかった。
その夜、美月は自分の家に帰った。
寝室のドアを開けると、亮介は眠っていた。口を半分開けて、よく眠っていた。この人はどこでも眠れる。
美月はベッドの端に座って、しばらくその顔を見ていた。それから肩に手を置いて、起こした。
「……ん。何」
「起きて」
亮介は目をこすり、それから美月の顔を見た。暗い部屋でも、表情が変わるのがわかった。
喜んでいた。
夜中に起こされて、機嫌の悪い顔を一度もしなかった。
美月は何も言わずに、自分から先に触った。
亮介は優しかった。この一年で、いちばん優しかった。髪を撫でる手も、名前を呼ぶ声も、全部が丁寧だった。ずっとこうしてほしかった、と亮介は言った。
美月は泣かなかった。
最後の一回だと知っているのは、この部屋で自分だけだった。
終わると、亮介はすぐに眠った。
美月は起き上がって、リビングへ行った。スクリーンショットのフォルダを開き、一枚目から順に、三十八枚を見た。
見終わってから、手帳を出した。明日、弁護士に電話する、と書いた。万年筆のインクが、少しにじんだ。
書いてから、二重線で消した。
寝室からは何の音もしなかった。美月はしばらくそのページを見て、それから消した行の下に、同じことをもう一度書いた。日付も足した。
合わない数字を書き出すのと、同じやり方だった。書いておけば、消えない。
朝、亮介は七時に起きた。コーヒーを二杯飲んで、機嫌がよかった。
「美月、今日早い?」
「普通」
「じゃあ夜、なんか食いに行こうよ。久しぶりに」
美月は洗い物の手を止めなかった。
言うつもりはなかった。それでも口が動いた。
「大学の裏門の坂、まだあるのかな」
亮介の顔が明るくなった。心当たりを探す顔ではない。待っていたものが来た顔だった。
「あるよ。この前、通った」
スプーンを置いて、亮介は身を乗り出した。
「あの日さ、美月、坂の上にいただろ」
水の中で、美月の手が止まった。
「え」
「いたじゃん。上のほう。俺、見てたよ」
亮介は笑っていた。悪いことを言っている顔ではなかった。十年黙っていたことを、いま思い出して喋っているだけの顔だった。
「覚えてる? 美月、あの日、うちに来ただろ。夜」
「……うん」
「あのときの美月、いちばんよかったよ」
いちばん、と亮介は言った。十年一緒にいる妻に向かって、十年前の一晩を指して。
「なんで急に、そんな話」
「なんとなく」
「美月さ」
亮介は笑っていた。優しい顔だった。
「最近ちょっと変だよ。俺のこと、嫌いになった?」
この人はこう聞く。怒らない。責めない。確かめる。
美月は皿を伏せて、蛇口を閉めた。
「なんで、そう思うの」
「だって、なんも言わないから」
一年、何も言わなかった。
この人はそれを、ずっと待っていた。返事を待つ顔で、いま目の前に座っている。
美月はそこで初めて、笑うのに失敗した。
「行けたら行く。夜」
そう言って、美月はバッグを持った。玄関で靴を履くとき、つま先を外に向けて揃えられた亮介の靴が、隣にあった。
◇
美月が莉央にショートメッセージを送ったのは、有紗の家から帰った次の日だった。
「あなた、案件から外されたままでしょう」
「はい」
「それ、うちの人がやったって書ける? 日付と、言われた言葉と」
返事が来るまで四時間かかった。
「書きます」
「私のところに出しても意味がないから、会社の窓口に出して。同じ日にしたいから、日は私が決めていい?」
「……奥さん、何するんですか」
「別々に出すの。あなたは会社に。私は弁護士に」
美月が弁護士に資料を持ち込んだのは、九月の頭だった。
渡したのは、一年分のスクリーンショットだった。日付順に並べ、場所と時刻を注釈にして、印刷したものを束にした。月次の資料を作るのと同じやり方だった。
弁護士は、画像を加工していないことと、スクリーンショットの作成日時が端末に残っていることを二度確認した。あのアプリがフィルタや文字入れに対応していなかったことも、証拠の補助にはなると言った。
「九月十七日に届くように、出せますか」
美月は弁護士に聞いた。順番に効かせるのではなく、同じ日に着弾させてほしかった。
九月十七日、亮介宛ての内容証明が家に届いた。
莉央のところにも、同じ日、不貞の慰謝料を求める書面が届いた。
そして亮介の会社のコンプライアンス窓口には、莉央の申告書が出された。案件を外された日付。「俺と切れたら誰も守らないよ」と言われた夜のこと。企画に入れる条件として言われたこと。
その週のうちに、会社から主要な取引先へ、調査開始の連絡が出た。
亮介の会社は三日で、調査が終わるまで、亮介を残りの案件からすべて外した。七月に来期の内示が出ていたので、社内にとって、まったく予想外の措置ではなかった。あのときはまだ、外されるのは一本だけのはずだった。
一週間で、取引先が距離を置いた。飲料メーカーの看板案件は、担当チームごと入れ替えになった。亮介が三年かけて取ったものだった。
二週間で、若手が急に口を軽くした。あの人にはこういうことがあった。こういうこともあった。待っていたように、次々と出てきた。深夜二時のメッセージ。企画を通す代わりに求められたもの。「俺に嫌われたら、この業界にいられないよ」という言い方。二年前に辞めた女性社員は、三か月休職してから退職していた。
窓口には、名前を出さない申告が続けて二件出た。どちらも三年以内に辞めた社員からのものだった。
そのうち一件は、退職前にも同じ窓口へ出されていた。三年前だ。当時の担当者は両者に事情を聞き、話が食い違ったため、当事者間の問題として扱った。それだけだった。亮介はそのころ、飲料メーカーの看板案件を三年契約で取ってきたばかりだった。
会社の調査は、その三年前の相談記録にまで遡った。
亮介の名前は、社内でしばらく声に出して言われなくなった。会議室の予約表からも消えた。あの人が持っていたのは肩書きではなく、若い人間の行き先を決められるという立場だった。それがなくなると、あとには名刺の文字しか残らなかった。
有紗は、証人として名前を出した。美月は止めなかった。
美月はまだ、写真アプリ「ブルーム」のグループを退出していなかった。
九月の終わり、美月は美容室に行った。
「今日も、そのままでいいですか」
透はいつもの通りに聞いた。
「……少し、切ります」
鏡の中で、透の手が止まった。それから、普通の顔に戻った。
「どのくらい」
「肩に、つかないくらい」
「わかりました」
床に落ちた髪を、透は何も言わずに掃いた。
美月は、鏡の中の自分を長く見た。去年の暮れから、同じ長さを保つために毎月ここへ来ていた。止めていたものが、今日、初めて形を変えた。
会計のとき、透が言った。
「顔、上げるの楽になりましたね」
「そうですか」
「首、楽なはずです」
それだけだった。何があったのかは、この人は最後まで聞かない。
美月は、この店では黙っていていいのだと、そのとき気づいた。家では、黙っているために毎晩働いていた。笑って、質問をして、味噌汁を出していた。ここでは、黙っていることに何の仕事もいらない。
外に出たのは、十月の頭だった。
美月がそれを見たのは、朝の通勤電車だった。業界の小さなニュースサイトに、社名を伏せた短い記事が出ていた。大手広告代理店のプロデューサー職の男性が、複数の女性社員への不適切な行為で調査を受けている、という三段落だけの記事だった。
燃えたのは、その次の一行のほうだった。
三年前に同じ相談が出ていたが、会社は正式な調査をしていなかった、と書いてあった。
その日の昼、業界の匿名アカウントが会社名を書いた。夕方には、まとめ記事になっていた。見出しは亮介のことではなかった。三年放置した会社のことだった。
美月は帰りの電車でも同じ画面を見た。この一年、毎晩スマホで夫の写真を見ていた。姿勢も、持ち方も、同じだった。違うのは、指で数える必要がないことだけだった。
翌週、飲料メーカーが放映中のCMを差し替えた。会社は「調査中」の一文だけを出した。若手の何人かが、誰も名前を書かないまま、それを引用していた。
誰が外に出したのか、美月は知らない。有紗ではないと思ったし、莉央でもないと思った。あの会社には、待っていた人がたくさんいたのだろう。
◇
十月の初め、夜中にインターホンが鳴った。
画面に亮介が映っていた。傘を持っておらず、髪が濡れていた。同じスーツを何日も着ているように見えた。
「美月。開けて」
美月は玄関まで行って、そこで止まった。錠は先週替えてある。
「なあ、開けてよ。話せばわかるだろ。俺、なんもしてないんだよ。会社が勝手に」
美月は何も言わなかった。
「美月? いるんだろ。電気ついてるじゃん」
声が変わった。
「頼むよ。美月がいないと無理なんだ。ほんとに無理なんだって。前もそうだっただろ。美月が来てくれたから、俺」
言葉がそこで一度切れた。
「なあ。俺のこと、嫌いになった?」
同じことを聞く人だった。あの朝はキッチンで。いまはドアの向こうで。
美月はドアに手をついた。冷たさが手のひらに移ってくるまで、そのままにしていた。
言うことは、ひとつしか浮かばなかった。
「もう、見ないよ」
それだけ言った。
「え。なに。何の話だよ」
美月はチェーンを確かめて、リビングに戻った。
インターホンはしばらく鳴っていた。それから、鳴らなくなった。
翌朝、玄関前に、乾ききっていない靴跡が二つだけ残っていた。
どちらも、つま先が外を向いていた。
◇
莉央が家に来たのは、十月の雨の夜だった。
莉央はインターホンを鳴らして、画面に向かって「すみません」と言った。傘を持っていなかった。
美月はドアを開けて、上がりなさいとは言わなかった。玄関先に、莉央を立たせたままにした。
「あの人が、私のところに来るんです」と莉央は言った。
「毎晩来て、朝まで泣くんです。俺は何も悪いことしてないって。美月が勝手に怒ってるって。奥さんの名前で泣くんですよ、私の部屋で」
声が湿っていた。
「案件も、私、外されたままで。奥さん、慰謝料って、あれ本当に払わないといけないんですか」
「弁護士に聞いて」
「奥さん」
莉央は顔を上げた。
「私を使ったんですよね」
美月は、キッチンカウンターの小皿から鍵を取った。
この家の古い鍵だ。先週、業者を呼んで錠を替えた。美月の手の中にあるのは、もう回らないほうだった。
「あげる」と美月は言った。
莉央の目が、鍵と美月の顔を往復した。
「一年、これが欲しかったんでしょう」
「……これ、開くんですか」
「開かない。先週替えた」
莉央の手が止まった。
「じゃあ、なんで」
「あなたが一年かけて手に入れたもの、全部これと同じだから」
美月は鍵を差し出したままにした。
「あの人の言葉も、部屋も、私の場所も。持ってるつもりでしょうけど、どれも開かないの。使えないものを、あなたはずっと握ってた」
莉央は受け取らなかった。手を出さなかった。美月はその手を取って、掌に鍵を置き、指を閉じさせた。
「あと、あの人も持っていって」と美月は言った。
「あの人、もう行き先がないの。会社にも居場所がない。この家にも入れない。今夜も、あなたのところに行くと思う」
莉央の喉が鳴った。
「奥さん、最初から気づいてたんですか」
「一年前から」と美月は答えた。
莉央の顔が壊れた。泣くのとは違う崩れ方だった。
「じゃあ、なんで。なんで何も言わなかったんですか。言ってくれたら、私、」
「言ってたら、あなた、やめた?」
莉央は答えなかった。
美月は、莉央の目をまっすぐに見た。
「私が気づいていないと思った? 違うよ」
雨の音が、玄関の内側まで届いていた。
「あの人が、私に見せたかっただけ」
莉央の口が半分開いた。
「あなたが歩いてたあの坂ね。十年前に、私が同じものを見た場所なの。あの人が選んだのよ」
「……じゃあ、私は」
「あの人が私に見せるための舞台に、立たされてたの」
莉央は鍵を握ったまま、動かなかった。
美月はそこで少し声を落とした。莉央の目からは、視線を外していた。
「全部見た。一枚も消さずに、三十八枚。……見た夜は、あの人を自分から呼んだ」
言ってから、美月は自分の手を見た。
「私も、あの人の共犯だったの」
莉央は何も返さなかった。返せる言葉が、この子にもなかった。
美月はドアの取っ手に手をかけた。それから、閉める前にもう一度だけ莉央を見た。
「慰謝料は請求する。あの人から聞いたことを、事実みたいに周りへ話した分も訂正してもらう。そこは引かない」
「……はい」
「でも、ひとつだけ言っておく」
莉央が顔を上げた。
「あなたも選ばれてない」
莉央の目から、一年ぶんの何かが抜けていくのが見えた。憎まれるだろうと美月は思った。それでも、これは言っておくべきことだった。
ドアが閉まってから、美月はスマホを出した。
ブルームを開き、設定からグループの退出を押した。
確認画面が出た。美月は「退出する」を押した。シロクマが消えた。
退出の通知は出ない。明日の夜、動物が一匹減っていることに、誰かは気づくかもしれない。でも、どれが誰だったのかは誰にもわからない。それでよかった。
その夜、有紗から電話が来た。
「美月」
「うん」
「なんで一年も黙ってたの」
「有紗が笑ってほしそうだったから」
少し間があった。
「……ごめん」
「うん。私も」
電話を切って、美月は玄関に行った。
この部屋は、財産分与で美月のものになる。書類はもう出してある。
美月は新しい鍵を回して、チェーンを掛けた。内側から、自分の手で。
一年間、この扉の外で起きていたことを、写真に撮られて見せつけられていた。
今日から、鍵を掛けるのはこちら側だ。
◇
離婚が成立したのは、十一月の末だった。
亮介がこだわったのは、条件ではなく、美月と直接話すことだけだった。弁護士に「奥さまはもうお会いになりません」と言われた翌日、あの人は判子を押したらしい。
美月は旧姓に戻った。会社の名札を替えるのに一週間かかった。
年が明け、三月になるころには、美月が担当する会社が二社増えていた。
机の上には、四つの色の付箋が並んでいる。青は請求、黄色は締めの前に聞くこと、桃色は来月に回すもの、緑は保留。緑の付箋は、最近あまり使わなくなった。
美月は部屋の模様替えをした。最初は、亮介が座っていた側だけ捨てたいと思った。途中でばかばかしくなって、ソファを丸ごと捨てた。二人がけを一つ捨てて、一人がけを二つ買った。片方には、まだ誰も座っていない。
寝室の引き出しも空にした。
いちばん奥に、口紅が入っていた。去年の六月、会社の前の歩道で拾ったものだ。ケースの底には、まだ指の跡が残っていた。
あのとき美月は、これを捨てられなかった。莉央のものだから捨てられなかったのではない。あのころの美月は、手に入ったものを何ひとつ手放せなかった。口紅も、三十八枚のスクリーンショットも、夫も。
美月はキャップを外して、色を見た。二十五歳の色だった。
それから、ごみ袋に落とした。音はしなかった。
有紗とは、月に一度、会社の近くで昼を食べる。パスタか、韓国料理の店。
あの一年の話は、どちらもしない。ただ、有紗が最近また写真を撮るようになったことを、美月は知っている。花とか、猫とか、注文したものとか、そういうものを撮っている。
「グループ、また作ろうか」と美月が言うと、有紗はフォークを止めた。
「今度は本名でやろうよ」
「動物、いなくていいの」
「いい。もう当てたくない」
有紗は一年、美月を追い詰めた。美月は一年、有紗に言わせなかった。どちらも一度謝って、どちらも許したとは言っていない。それでも月に一度、同じテーブルを囲んで昼を食べる。そういう続き方もあるらしい。
莉央のことは、弁護士から月に一度、入金確認の連絡が来る。分割で、あと三年続く。それ以上のことは、美月は追っていない。
髪は、あれからもう二回切った。
いまは肩より上にある。十年ぶりの長さだった。二月に「これ以上短くすると、もう別人ですよ」と透に言われて、美月が笑ったら、三月に「今度、店の外で会いませんか」と言われた。
一回めは、駅の裏の中華だった。
透は仕事の話をした。予約が読めない話、指を痛めた話、独立するかどうか三年迷っている話。美月は聞いて、質問をした。それから、自分の仕事の話をした。数字が合わない日のことを話すと、透が言った。
「経理の人ってすごいですよね。合うまで帰らないんでしょう」
「合わないまま帰る日もありますよ」
「あるんですか」
「あります。書き出して、置いておくの」
言ってから、美月は自分の話をしてしまったことに気づいた。透は、それを深く聞かなかった。
「じゃあ、たまには置いといてください」
透はそう言って、水を飲んだ。
美月は、離婚のことも、去年のことも、何も話していない。透は一度も聞かない。聞かないことを我慢しているのではなくて、たぶん、この人が見ているのは、聞かされていない過去ではなく、いま目の前にいる美月なのだ。
二回めの食事の帰りだった。夕方の光が、道路の水たまりの上に伸びていた。
「手、つないでもいい?」
透が聞いた。
美月は一度、自分の指を見た。
それから、うなずいた。
透の手は、強く握らなかった。逃げようと思えば逃げられるくらいの力だった。
もう、数えなくてよかった。
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