第76話:見えない発火装置。スパイスに紛れた『音響起爆音』と、渡会の危機
第76話:見えない発火装置。スパイスに紛れた『音響起爆音』と、渡会の危機
二〇二六年八月二二日、午後六時。
谷中の住宅街、三軒目のターゲットと目される一軒家の前に、渡会刑事は潜んでいた。功を焦る彼は、加藤警部補の待機命令を無視し、エルナたちの到着を待たずに単身、勝手口から侵入を試みる。
「……あいつ、一人で入りやがったか。血の気の多い若造め」
遅れて到着したエルナの絶対聴覚が、夕餉の支度で賑わう民家の中から、一つの「不純な不協和音」を捉えた。
それは、野菜を切る音でも、煮込みの音でもない。
——ジィィィ、ジィィィ……。
蚊の羽音よりも小さく、しかし耳の奥を掻き毟るような高周波。エルナの背筋に冷たい戦慄が走る。
「……ハンス! この家にあるスパイス……クミンとコショウの瓶だ。中に『音響感応型』の起爆素子が仕込まれている!」
「……なんですって!? それでは、家族が楽しげに笑い、食器を鳴らした瞬間に……」
「そうだ。その『幸せな音』がトリガーになり、スパイスの粉塵が粉塵爆発を引き起こす設計だ。……渡会刑事、戻れ! 中に踏み込むな!」
エルナの叫びも虚しく、渡会は台所の床に落ちた不審な「黒い粉」に手を伸ばしていた。
その時、リビングから子供たちの「いただきます!」という元気な声が響いた。
——カチンッ。
スプーンが皿に触れた、その一音。
スパイスの瓶から、目に見えぬ超音波が放たれ、渡会の目の前でクミンが赤く発光し始める。
「……うわあああぁぁっ!?」
「……させん!!」
エルナは『彗星銀』の長箸を抜き放ち、一足飛びに台所へ突入した。
彼女は渡会の首根っこを掴んで引き倒すと、空中に舞い上がったスパイスの粉塵めがけて、銀の箸を高速で打ち鳴らした。
——キィィィィィィィィンッ!!
彗星銀が放つ「浄化の旋律」。
それは発火の引き金となる超音波を、物理的に「叩き落とす」高周波のバリアだった。エルナの箸先が空気を切り裂くたび、赤く熱を帯びていたスパイスの粉が、力を失って雪のように床に落ちていく。
「……ひ、一人で、何とかできたはずだ……」
震える声で強がる渡会。だが、エルナの絶対聴覚は、彼の心拍が恐怖で限界を超えていることを聴き逃さなかった。
「……渡会刑事。貴殿の勇気は認める。だが、この『音』は、個人の正義感だけで止められるものではない」
エルナは、彗星銀の箸で床に落ちた素子を一つ、丁寧に拾い上げた。
その小さな機械の裏側には、見覚えのある「P」の刻印。……パノプティコン。
「……ハンス。……どうやら、アステリアから持ち帰ったのは、私たちだけではなかったようだな」
炎は防いだ。しかし、新橋、そして東京の地下に、パノプティコンの残党が深く根を張っているという確信が、エルナの胸を重く締め付けた。




