第75話:焦土のカレーライス。若き刑事の暴走と、彗星銀が聴く「残り火」
第75話:焦土のカレーライス。若き刑事の暴走と、彗星銀が聴く「残り火」
二〇二六年八月二一日、午後三時。
上野の茶屋で、エルナが最後の一玉の団子を口に運ぼうとしたその時、懐の通信機が耳を刺すような高音で鳴り響いた。山本警部からだ。
「……エルナか。上野にいるな? すぐに谷中の三丁目へ向かえ。連続放火だ。今度は『家』だけじゃねえ、何かがおかしい」
現場は、古き良き木造住宅が並ぶ路地裏だった。立ち込める鼻を突く焦げ臭さと、消火活動の放水音が、エルナの絶対聴覚を乱す。現場指揮官の加藤警部補が「鑑識を待て!」と怒鳴る声を無視して、一人の若手刑事が規制線を潜り抜けていた。
「……待ってられないんですよ! 犯人の足跡が消える前にホシを挙げなきゃ、次の被害が出る!」
血気盛んなその男、渡会刑事。彼は加藤の制止を振り切り、まだ煙の上がる台所へと踏み込んでいく。エルナは溜息をつき、ハンスと共にその背中を追った。
崩れ落ちた天井、真っ黒に煤けた壁。その中心に、無惨に転がっている**「大鍋」**があった。
「……これは……」
エルナは、手に入れたばかりの『彗星銀』の箸をそっと鍋の縁に触れさせた。
——……ウゥゥゥ、という低く悲しい共鳴。
鍋の中には、真っ黒に焦げ付いたカレーが残されていた。人参やジャガイモの形が辛うじて分かるそれは、数時間前までは間違いなく、誰かの帰りを待つ「温かな夕食」だったはずだ。
「……ハンス、聴こえるか。このカレーが、火の手が上がる直前まで奏でていた、コトコトという平和なリズムが。……それが、暴力的な熱によって一瞬で絶叫に変えられたんだ」
「……ええ、エルナ様。……玉ねぎの甘みが、憎しみの炭に変わっています。これは、ただの放火ではありません。『食卓』そのものを狙った悪意です」
悲しみに目を伏せるエルナに対し、渡会は「食い物の話なんて後だ!」と毒づき、現場を飛び出していく。エルナは彼を放っておけず、聞き込みのために隣の家を訪ねた。
そこでも、住人たちは怯えながら食卓を囲んでいた。だが、エルナの耳は、彼らが口にするスプーンの音の微かな「震え」を見逃さなかった。
「……奥さん。火が出た時、皆さんは何をされていましたか?」
「……ええ、ちょうど……みんなでカレーを食べていたんです。テレビをつけて、今日あったことを話し合って……。そうしたら、急に窓の外が真っ赤に……」
エルナは、彗星銀の箸を空中で一振りした。
——……キィィィィン……。
その清廉な音が、怯える家族の心拍数を一時的に調律し、真実を浮かび上がらせる。
現場に残された黒焦げの鍋と、この家の証言。犯人は、家が燃える様を見たいのではない。**「家族がカレーを囲み、最も幸せな音を奏でている瞬間」**を狙って、火を放っているのだ。
「……渡会刑事。貴殿の焦りは理解する。だが、敵は足跡を残すようなタマではない。……この『カレーの悲鳴』を聴かない限り、貴殿に犯人は捕まえられんぞ」
夕闇が迫る谷中の路地裏。エルナの瞳には、かつてアステリアで見たパノプティコンの冷徹な影が、日本の「日常」を蝕んでいる予感が色濃く映し出されていた。




