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異世界姫騎士、新橋の牛丼に屈服する。――宮廷料理人と安飯の魔力  作者: 水前寺鯉太郎
帰郷編

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第72話:新橋、朝のラッシュ。ガード下に響く『ただいま』と、山本警部のノック

二〇二六年八月二〇日、午前八時。

 新橋駅、烏森口。自動改札を抜けた瞬間に押し寄せる、湿り気を帯びた熱気と、何万もの足音が奏でる不規則なビート。

 アステリアの清澄な静寂に慣れたエルナの絶対聴覚にとって、この街の「雑音」は、まるで全身を包み込む温かな毛布のようだった。

「……ハンス。聴こえるか、この音を。一ミリも調律されていない、混沌とした生の響きだ」

「……はい。少し耳が痛いですが、心地よいですね。……さあ、事務所へ。埃が溜まっているでしょうから」

 ガード下の裏路地。二人が事務所の重い鉄扉を開けた時、そこには一ヶ月前と変わらぬ、少しカビ臭い空気と、積み上げられたままの資料が待っていた。

 だが、二人が荷物を置く間もなく、激しく扉を叩く音が響いた。

 ——ドンドンドンドンドォォンッ!!

「エルナ! ハンス! 中にいるのは分かってるんだぞ!」

 怒鳴り込んできたのは、愛車の無線が唸るよりも早く、焦燥しきった面持ちの山本警部だった。

 彼は血走った目で二人を交互に見つめ、それから大きく一つ、肩の力を抜いて溜息をついた。

「……貴様ら、今までどこをほっつき歩いてやがった。連絡もなしに消えやがって。……上の連中は『失踪』だの『誘拐』だのと騒ぎ立てて、俺がどれだけ始末書を書かされたと思ってる」

「……山本警部。……ご心配をおかけしたようですね」

 エルナは、机の上にそっと鉄芯黒檀のマイ箸を置いた。

 山本はその箸の先端が削れ、エルナの指先に戦いのタコができているのを、刑事の鋭い観察眼で見逃さなかった。何より、二人の纏う「音」が、以前よりも深く、静かな重みを宿している。

「……心配? 冗談じゃねえ、迷惑してただけだ。……だが、なんだ。そのツラは。……えらく険しい修羅場を潜ってきたようだな」

 山本はぶっきらぼうにパイプ椅子を引き、どっかと腰を下ろした。

「……警部、お腹は空いていませんか? 丁度、いい出汁が手に入ったところなんです。……アステリアの……いえ、少し遠出した先で見つけた、特別な麦もありましてね」

 ハンスがキッチンへ向かい、ガスの火をつける。

 シュボッ、という点火の音。トントントン、と軽快にまな板を叩く音。

 それらの音を聴きながら、山本は「ふん」と鼻を鳴らし、窓の外を走る山手線の音に耳を傾けた。

「……土産話なんて期待しちゃいねえよ。だが、その『特別な麦』ってやつが、俺の胃袋を納得させられる代物かどうか……。しっかり検品させてもらうぜ」

 新橋の朝のラッシュの中、小さな事務所には、久しぶりに「三人の呼吸」が重なり合う、安らかな和音が流れ始めていた。

 エルナは窓を開け、ガード下の立ち食い蕎麦屋から漂ってくる安っぽい醤油の香りを、深く、深く吸い込んだ。

「……ただいま、新橋」

 彼女の絶対聴覚が捉えたのは、日常という名の、世界で最も美しい協奏曲だった。

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