第71話:国境の潮騒。アステリアの風と、新橋へ繋がる『幻の始発列車』
第71話:国境の潮騒。アステリアの風と、新橋へ繋がる『幻の始発列車』
二〇二六年八月一九日、払暁。
アステリア王国の国境、切り立った崖の上。そこには、王城を包んでいた黄金色のスープの香りとは違う、どこか懐かしく、そして少しだけ生臭い「潮の匂い」が立ち込めていた。
「……終わったのですね、エルナ様。アステリアを覆っていた不協和音も、もう聴こえません」
ハンスは、使い古したコックバッグを肩にかけ、水平線を眺めていた。
彼の背後には、彼らを「救国の英雄」として王宮へ連れ戻そうとする騎士団の追走があったが、エルナはそのすべてを、絶対聴覚で先読みし、巧みに撒いてきた。
「……ああ。アステリアの風は、もう十分に清らかだ。ここからは、あの国の民たちが自分たちのリズムで新しい曲を奏でるだろう」
エルナは、懐に忍ばせた鉄芯黒檀のマイ箸に触れた。
戦いで傷つき、先端がわずかに削れたその箸は、今、海の向こうから届く「ある音」に共鳴して、微かに震えていた。
——ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
それは、中世的なアステリアには存在するはずのない、鉄の車輪が刻む規則正しいビート。
朝の霧の中から、音も立てずに滑り込んできたのは、一編成の古びた列車だった。車体にはうっすらと「山手線」の面影を残す緑のラインが走り、しかしその蒸気は黄金色の出汁の湯気のように温かい。
「……出ましたね。二つの世界を繋ぐ、腹を空かせた者だけが乗れる『幻の始発列車』だ」
エルナは微笑み、列車のドアの前に立った。
プシューッ……。
開いたドアの向こうから漏れてきたのは、アステリアの清涼な空気ではない。
湿り気を帯びたアスファルトの匂い、遠くで鳴るカラスの声、そして……ガード下の揚げ物屋から漂う、あの使い古された油の匂い。
「……帰るぞ、ハンス。私たちの戦場(職場)へ」
「はい。……お供します、エルナ様。……新橋に着いたら、まずは冷蔵庫の在庫確認からですね」
二人が列車に足を踏み入れた瞬間、アステリアの潮騒は遠ざかり、代わりに「次は、新橋。新橋です」という、無機質で、しかしこの上なく愛おしいアナウンスが響き渡った。
座席に腰を下ろしたエルナは、ゆっくりと目を閉じた。
絶対聴覚が捉えるのは、もう戦場の爆音ではない。これから始まる、騒がしくて、忙しくて、でも最高に美味しい「新橋の一日」の予感だった。




