第64話:王宮の絶対音感。フェルディナンドの『金色の重低音』と、断ち切られた菜箸
第64話:王宮の絶対音感。フェルディナンドの『金色の重低音』と、断ち切られた菜箸
二〇二六年八月一五日、午前七時。
王城の最深部、大理石の回廊に、エルナの軍靴の音が虚しく響く。街を埋め尽くした出汁の香りは、厚い防音扉によって遮断され、そこには「完璧に管理された静寂」だけが横たわっていた。
「……来たか、不調律の騎士よ」
玉座の前、黄金の甲冑を纏ったフェルディナンドが立っていた。彼の背後には、パノプティコンの技術の粋を集めた巨大なパイプオルガン型の音響増幅器が、生き物のように蠢いている。
「……フェルディナンド。貴殿がハンスを売り、この国を無機質な電子音で塗りつぶした罪、その命で購ってもらう!」
エルナは重晶鉄の菜箸を構えた。だが、彼女の絶対聴覚が、かつてない異常を検知する。フェルディナンドの周囲の空気が、金色の光を放つほどの高密度な振動に包まれているのだ。
「……罪だと? 私はこの国を『調律』したのだ。……聴け、これが王者の、神の音だ」
フェルディナンドが右手を上げると、目に見えぬ「重圧」がエルナを襲った。
ドドドドォォォォォッ!!
それは音という概念を超えた、物理的な暴力。人間の可聴域を下回る 20Hz 以下の超低周波——『金色の重低音』。
大理石の床が粉々に砕け、エルナの鼓膜から鮮血が吹き出す。
「……が、あ……っ! 臓器が、骨が……直接握り潰されるようだ……!」
「無駄だ。その重晶鉄の菜箸も、新橋の安っぽい出汁の記憶も、この『王者の響き』の前では塵に等しい」
フェルディナンドがさらに出力を上げる。
エルナは絶叫し、渾身の力を込めて菜箸を突き出した。せめて一撃、この金色の地獄を切り裂くために。
だが。
パキィィィィィィィィンッ……!!
この世の終わりを告げるような、高く、悲しい音が回廊に響き渡った。
エルナの右手に握られていた、重晶鉄の菜箸。ハンスと共に数々の修羅場を潜り抜け、新橋の湯気に磨かれた彼女の半身が、金色の重低音の共振に耐えきれず、中央から無惨にへし折れた。
「……嘘、だろ……」
折れた菜箸の先端が、虚しく床を転がる。
それは、ハンスとの絆が、物理的に断ち切られた瞬間だった。
「……ふん、脆いものだ。貴様の信じた『日常』など、この程度よ」
フェルディナンドの一蹴により、エルナの体は吹き飛び、壁へと叩きつけられた。
視界が暗転していく中、エルナの手の中に残ったのは、短くなった半分だけの菜箸と、かつてないほどの深い「絶望の静寂」だった。




