第60話:偽りの晩餐会。王都の『合成音(シンセティック)』と、パノプティコンCEOの甘き毒
第60話:偽りの晩餐会。王都の『合成音』と、パノプティコンCEOの甘き毒
二〇二六年八月一二日。
かつてアステリアの王宮で奏でられていたのは、収穫を祝い、神に感謝を捧げるオーケストラだった。だが、潜入したエルナが目にした現在の晩餐会は、不気味な「無音の狂気」に包まれていた。
きらびやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが一堂に会している。しかし、彼らの前の銀食器には、一切の料理が乗っていない。彼らが口に運んでいるのは、パノプティコンが開発した超小型の指向性スピーカーを内蔵した「電子スプーン」だ。
「……ハンス。聴こえるか。この、命の拍動が一切混じらない、死んだ電気信号の唸りを」
エルナは給仕に扮し、絶対聴覚を極限まで絞り込んで会場を観察した。
参加者の脳内に直接届けられるのは、パノプティコンが誇る『合成音』。味覚神経を特定の周波数で刺激し、実際には何も食べていないにもかかわらず、脳に「最高級のフォアグラ」や「熟成したワイン」の快楽を強制的に叩き込むシステムだ。
「……素晴らしいだろう、騎士エルナ。いや、今は『迷い込んだ小鼠』と呼ぶべきかな」
会場の最奥、高い演壇からエルナを見下ろす男がいた。パノプティコンのCEO、ヴィクター。彼はワイングラス(の中にある空気を震わせる装置)を揺らしながら、冷ややかに微笑んだ。
「食材の調達、調理、消化……。それらすべての『無駄なコスト』を省いた究極の美食だ。不純物のない、純粋な快楽の振動。これこそが、君の故郷アステリアが世界に提供する、新たな秩序だ」
ヴィクターが指を鳴らすと、会場に特殊な高周波が流れた。
貴族たちが一斉にうっとりとした表情を浮かべ、虚空を噛み締める。その咀嚼音のない口の動きが、エルナには「亡霊のダンス」のように見えた。
「……ヴィクターと言ったか。貴殿の奏でるこの『毒』、あまりに薄っぺらくて反吐が出るぞ」
エルナは給仕の制服を脱ぎ捨て、背中から重晶鉄の菜箸を抜き放った。
「新橋のガード下で、たった一分で出される牛丼の湯気……。そこには、肉が煮える音、ネギが弾ける音、そして明日を生きようとする人間の泥臭い『命の和音』が詰まっている。貴殿らの電気信号など、その一滴の出汁にも及ばん!」
「フフ……。相棒を奪われ、飢えに狂ったか。……だがその怒りも、この『甘き毒』で書き換えてやろう」
ヴィクターが手元のスイッチを入れると、エルナの耳に直接、神経を焼くような**「究極の甘みの旋律」**が襲いかかった。脳が「甘い、甘すぎる」と錯覚し、視界がピンク色に染まる。
「……ぐ、あああっ……!!」
圧倒的な偽りの快楽。エルナの足が崩れそうになる。
だがその時、彼女の胃袋の奥で、第59話で噛みしめた「あの一本の麦の音」が、低く力強く共鳴した。
「……聴こえる。……ハンスの打つ麺の、あの不器用で、しかし誠実な『正しきリズム』が……!」
エルナは菜箸を自身の腕に突き立て、激痛で偽りの快楽を相殺した。
ガチィィィンッ!!
菜箸を打ち合わせた衝撃波が、会場の指向性スピーカーを次々と粉砕していく。
「……ヴィクター。……貴殿の『合成音』では、私の腹は満たせん。……私は本物の『味』を、ハンスを取り戻しに来たのだ!」
偽りの晩餐会は、エルナの一撃によって修羅場へと一変した。
王都の深部に潜む闇。パノプティコンのCEOが見せたのは、この世界の未来を占う残酷なプレリュードに過ぎなかった。




