第6話:琥珀の飛沫(しぶき)と、聖域(アパート)の静寂
第6話:琥珀の飛沫と、聖域の静寂
二〇二六年三月二〇日、深夜。
新橋駅前。青い看板の『ローソン』は、不夜城の如く冷たくも優しい光を放ち、帰路に就く戦士たちを迎え入れていた。
「ハンス。本日は外地での遊撃戦ではなく、司令部にて英気を養うことにするぞ」
エルナは懐の身分証を騎士の誓書のように握り締め、意気揚々と自動ドアをくぐる。
——ピンポーン。
かつては警戒の対象だったその入店音も、今は安らぎのファンファーレに聞こえた。カゴの中に放り込まれるのは、冷気に包まれた「補給物資」たち。
「ハンス、この『ストロング』と銘打たれた聖水……。九パーセントという魔力濃度でありながら、これほど安価で良いのか?」
「……騎士の理性を一撃で無力化する火力を秘めた液体です。慎重に扱いましょう。それと、この『冷凍唐揚げ』という名の封印肉も……」
アパートへの帰り道、レジ袋がガサ、ガサと夜風に揺れて鳴る。その安っぽいビニールの音すら、今は戦果を運ぶ凱旋の行進曲に聞こえた。
部屋に戻り、施錠する。
——ガチャン。
重厚な金属音。それは、新橋という戦場から切り離され、二人だけの「聖域」を確保した合図だ。エルナは窮屈な現代の靴を蹴り脱ぎ、ハンスは台所という名の工廠へ向かう。
「ハンス、あの魔導筐体を起動せよ」
レンジに放り込まれた唐揚げが、再びあの音を立てる。
——ブゥゥゥゥーン……。
第2話で彼女を戦慄させたあの地鳴りは、今は空腹を激しく愛撫する期待の通奏低音へと変貌していた。やがて、袋の中の圧力が限界に達する。
——パンッ!
美味という名の封印が弾ける音。ハンスが袋を裂くバリバリッという快い破壊音と共に、醤油とニンニクの香気が、狭い城内を一気に制圧した。
そして、宴の主役が氷の入ったグラスの前に据えられる。
「いくぞ、ハンス」
エルナが銀色の缶のプルタブに指をかける。
——カチッ。
最初の一音が、静かな室内に鋭く響く。直後。
——プシュゥゥゥッ!!
閉じ込められていた炭酸ガスが一気に解放され、琥珀色の飛沫が指先に舞う。それはこの国の労働者たちが一日の終わりに捧げる、祈りの音。
グラスに注げば、カラカラッと氷が宝石の如く躍り、弾ける泡のピチピチという微細な囁きが、エルナの耳元で歌い始めた。
「くっ……。この音、これだけでこの聖水の破壊力が理解できるぞ……!」
一口、黄金の奔流を煽ったエルナの口から、無意識に音が漏れた。
——ゴクリ。
喉を鳴らす重厚な嚥下音。そして、熱くなった食道を炭酸が蹂躙した後の、深く、長い溜息。
「ハンス。……美味い。店での食事も誉れ高いが、こうして誰の目も気にせず、床に座して食らう百円の唐揚げと酒……。これこそが、この国の民が死守してきた『平和の極致』ではないか」
「左様ですね。ここでは礼節も椅子も不要。ただ、己の胃袋と対話するだけの純粋な時間……」
ハンスがトングで皿を叩くカチカチというリズム。エルナが衣を噛み砕くザクッ、ジュワッという断裂音。
窓の外、新橋の駅を走り去る終電のゴォォォ……という遠い地鳴り。
それらすべてが、二人の生活のBGMへと溶けていく。
「ハンス、この唐揚げ……衣の『脂』と、聖水の『泡』が、口の中で激しい白兵戦を繰り広げているぞ。脂の重厚な突撃を、酸味の鋭い刺突がことごとく打ち消していく。なんと爽快な戦場だ!」
「まさに『洗浄』ですな。保存技術と再加熱の調和……。我が国の宮廷厨房が、百年かけても到達し得なかった魔法の極致です」
エルナの頬が、九パーセントの火力によって赤く染まっていく。騎士としての鋼の自制心が、新橋の夜の静寂の中に溶け出していく。
「ハンス、もう一缶だ。次はレモンという名の果実の鋭さを解析する」
「……お供します。ただし、明日の解析に支障が出ぬ程度に。……おや、エルナ様、その足音は少し規律が乱れておりますぞ?」
ふらつく足取りで床を歩く、ペタ、ペタという柔らかな足音。
二DKの古いアパート。滑る床の上で、異世界の騎士と料理人は、新橋の夜に深く、深く溺れていった。
遠く、最後の一本の電車が闇に消えていく音を、至高の幕引きとして聴きながら。




