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異世界姫騎士、新橋の牛丼に屈服する。――宮廷料理人と安飯の魔力  作者: 水前寺鯉太郎
パノプティコン激闘編

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第59話:荒野の立ち食い。ディストピアと化した故郷と、枯れた大地に咲く麦の音

第59話:荒野の立ち食い。ディストピアと化した故郷と、枯れた大地に咲く麦の音


二〇二六年八月一〇日、正午。

 国境の霧を抜け、アステリア領内へと足を踏み入れたエルナの目に飛び込んできたのは、凄惨な「無音の荒野」だった。

 かつて、この地には見渡す限りの黄金色の麦畑が広がり、風が吹くたびにサワサワと、命の胎動のような優しい和音が鳴り響いていた。ハンスはよく、この麦の音を「極上のBGM」と呼びながら、野外で手打ちの麺を振る舞ってくれたものだ。

 だが今、大地は無惨にひび割れ、パノプティコンの巨大なプラントから排気される重低音が、土の中の微生物の振動すらも殺し尽くしている。

「……これが、フェルディナンドやパノプティコンが望んだ『新世界』の音か。……あまりにも不味まずい、吐き気を催すほどの不協和音だ」

 師匠バルフレアとの死闘を越え、エルナの体力は限界に近づいていた。

 ——グゥゥゥゥ……。

 彼女の腹の虫が、荒野の沈黙を破って虚しく響き渡る。ハンスがいれば、即座に温かいスープが出てくるタイミングだ。だが、今の彼女のポケットにあるのは、新橋のコンビニで買っておいた、少しパサついたブロック状の栄養食だけだった。

「……仕方ない。騎士の休息には程遠いが、荒野の立ち食いと洒落込もう」

 エルナは包みを開け、無機質な食糧をかじった。

 ——モソッ、モソッ……。

 口の中の水分が奪われ、味気ない粉の音が頭蓋骨に響く。出汁の香りも、脂の甘みもない。それは、今の枯れ果てたアステリアそのものを咀嚼しているかのような、絶望的なまでに孤独な食事だった。

 だがその時。

 極限まで感度を引き上げていたエルナの絶対聴覚が、荒野の風音の奥底から、極めて微小な「擦過音」を拾い上げた。

 ——……サワッ。

「……む?」

 エルナは音の源へと歩み寄った。ひび割れた大地の隙間。そこには、軍靴に踏みにじられ、プラントの排気ガスに燻されながらも、たった一本だけ枯れずに残った「麦の穂」が、風に揺れて細い音を立てていた。

「……お前も、一人で戦っていたのだな」

 エルナは、その麦の穂の前にしゃがみ込み、再び栄養食をかじった。

 サワッ……モソッ……サワワッ。

 奇跡だった。一本の麦が風に揺れるその微かな音が耳に入った瞬間、パサついていたはずのブロック食糧に、かつてハンスがこの場所で焼いてくれた、芳醇なパンの幻影が重なったのだ。

『エルナ様。料理の味を決めるのは、舌だけではありません。その場所の空気、音、そして記憶が、最高の調味料となるのです』

「……ああ、その通りだハンス。……この一本の麦が奏でる生命の音は、パノプティコンのどんな洗脳音波よりも強く、私の胃袋を熱く満たしてくれる!」

 エルナは立ち上がった。

 プラントの排気音がどれほど大地を汚染しようとも、アステリアの魂はまだ完全には死に絶えていない。この麦の音が、その証拠だ。

「……待っていろ、ハンス。この麦畑の合唱を、もう一度お前と聴くために。……私は、王都のノイズをすべて叩き潰す!」

 たった一本の麦に敬礼を捧げると、エルナは再び歩き出した。

 新橋の安飯と、故郷の麦の音。二つの「日常の音」を腹に収めた騎士の足取りは、荒野の沈黙を打ち破る、力強く確かなリズムを刻んでいた。

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