第58話:絶望の四重奏(カルテット)。師バルフレアの『音喰い(サウンド・デッド)』と、エルナが掴んだ無味の極致
第58話:絶望の四重奏。師バルフレアの『音喰い(サウンド・デッド)』と、エルナが掴んだ無味の極致
二〇二六年八月一〇日、払暁。
国境の森を支配していたのは、アステリア王国元帥バルフレアが操る四本の菜箸が奏でる、致死の旋律だった。
「……どうした、エルナ。新橋で啜った泥水のような『音』は、その程度か」
シュララララァァァンッ!!
老練なる指先から放たれる四本の菜箸は、空中で複雑な軌道を描き、互いに共鳴することで超高周波の真空刃を生み出していた。それが『絶望の四重奏』。
エルナの絶対聴覚は、その致死の音波を誰よりも正確に捉えてしまうがゆえに、脳髄を直接かき回されるような激痛に苛まれていた。
「……ぐ、あああっ……!」
耳から一筋の血が流れ落ちる。エルナの持つ二本の重晶鉄の菜箸では、四方向から迫る音の奔流を捌き切れない。
さらに恐ろしいのは、バルフレアの真の力『音喰い(サウンド・デッド)』だった。四重奏の中心に生じる「絶対無音の空間」が、エルナの反撃の音、軍靴のステップ、さらには彼女自身の心音の反響すらも飲み込み、感覚を完全に麻痺させていく。
「……音が、死んでいく。……私の剣戟も、呼吸も、すべてがこの虚無に吸い込まれる……!」
エルナは膝をついた。
このままでは、ハンスの元へ辿り着く前に、己の精神が「無音の牢獄」で圧死する。
薄れゆく意識の中、エルナの脳裏に、新橋の事務所でハンスが静かにスープを濾していた日の記憶が蘇った。
『……エルナ様。三日三晩煮込んだ極上のコンソメは、最終的に濁りをすべて取り除き、限りなく透明な黄金色になります。……究極の旨味とは、足し算ではなく、己の主張すらも消し去る「引き算」の果てに宿るのです。それを、点心の世界では『無味の極致』と呼びます』
「……無味の、極致……」
エルナは、血に濡れた唇の端を吊り上げた。
師匠は「音」で支配しようとしている。ならば、私から「音」を捨てればいい。
エルナは目を閉じ、絶対聴覚のスイッチを意図的に「切った」。
外の世界の音を遮断し、自らの内側、胃袋の奥底で燻る「新橋の出汁の記憶」だけに意識を集中させる。
「……馬鹿な。自ら耳を塞ぐとは、剣を捨てるに等しいぞ、エルナ!」
バルフレアの四重奏が、トドメとばかりにエルナの四方から襲い掛かる。
だが、エルナは動かなかった。
彼女は、重晶鉄の菜箸をゆっくりと引き絞り、己の殺気、筋肉の駆動音、さらには「ハンスを助けたい」という激情すらも、極限まで「濾過」していった。
そして、完全なる透明——「無音」と化した瞬間。
……スッ。
物理的な音を一切伴わない、究極の刺突。
エルナの放った重晶鉄の菜箸は、バルフレアの四重奏が作り出す「音の防壁」の隙間——わずかに生じた周波数の谷間を、まるで水のように滑り抜け、老元帥の頬を浅く、しかし確実に切り裂いた。
「……!!」
チリッ……と、バルフレアの頬から血が滲む。
完璧だった絶望の四重奏に、一瞬の「間」が生まれた。
「……これは。……アステリアの武技にはない、あまりにも透明で、底知れぬ『味』だ」
「……これが、私が新橋で学んだ『引き算』だ、師匠。……不協和音で塗り固められた貴殿らのフルコースより、一杯の澄んだコンソメのほうが、よほど腹の底に響く」
エルナが静かに目を開ける。
バルフレアは頬の血を拭い、背中の菜箸を収めた。
「……どうやら、私が教えた『双鞭』は、異国で奇妙な発酵を遂げたようだな。……行け、エルナ。だが忘れるな、王都に待つのは、私よりもさらに濁った『絶望の響宴』だ」
霧が晴れていく。
老元帥は、弟子の成長をどこか楽しむような、かすかな足音だけを残して森の奥へと姿を消した。
エルナは、激しい疲労と耳の痛みに耐えながら、ついに国境の関を突破した。
待っていろ、ハンス。透明になったこの刃で、貴殿を縛る鎖を断ち切ってやる。




