第57話:騎士の矜持(プライド)。鉄の菜箸 vs 音響長槍、そして霧の中に消えた『恩師』の影
第57話:騎士の矜持。鉄の菜箸 vs 音響長槍、そして霧の中に消えた『恩師』の影
二〇二六年八月一〇日、未明。
アステリア国境を包む霧は、生者の体温を吸い取るように冷たく、重い。
エルナの絶対聴覚は、霧の粒子が音響騎士団の「音響長槍」が放つ超音波と干渉し、目に見えぬ「振動の檻」を形成しているのを捉えていた。
「……エルナ様、これ以上は。……今の我らが仕えるのは、王ではなく、この国を統べる『秩序』です」
かつての副官、カイルが苦渋に満ちた声を出す。彼らの槍の穂先が、高周波の唸りを上げ、周囲の岩を粉々に砕いていく。
「……カイル。貴殿の槍の音は、迷いに濁っている。……そんな音で、私の鼓動を止められると思ったか」
エルナは重晶鉄の菜箸を、あえて「逆手」に持った。殺すためではなく、その迷いを叩き斬るために。
ガチィィィンッ!!
激突。
長槍の刺突を、菜箸のわずかな「面」で受け流す。物理法則を無視したような菜箸の質量が、超音波の振動を力尽くで捩じ伏せた。
「……くっ、重い……! これが、新橋という異土で磨かれた『音』だというのか!」
「そうだ。……新橋の喧騒は、貴殿らが守るこの死んだ静寂よりも、はるかに気高く、熱い!」
エルナは、カイルの槍を菜箸で絡め取り、そのまま地面へと縫い付けた。
だが、その時。
——……カラン、カラン。
霧の奥から、乾いた「鈴の音」が響いた。
それは不規則でありながら、エルナの全感覚を一時的に麻痺させるほど、完璧に調律された「虚無の音色」。
「……!!」
エルナの背筋に、氷を流し込まれたような戦慄が走る。
このリズム。この、呼吸さえも音符に変えてしまうような圧倒的な威圧感。
霧の向こうから、一人の老人が姿を現した。背中には、エルナが持つものよりさらに長く、禍々しい輝きを放つ「四本の菜箸」を背負っている。
「……久しぶりだな、エルナ。……お前の箸の音、少しばかり『余計な味』が混じっているようだ」
「……まさか。……バルフレア師匠……!」
アステリア王国元帥にして、エルナに菜箸(双鞭)の技を授けた恩師。そして、ハンスを捕虜として売り渡した急進派の「軍事顧問」を務めているという噂の男だった。
「師匠……なぜ、貴殿がパノプティコンの軍門に! 貴殿はかつて言ったはずだ、料理と武技は、命を寿ぐためにあると!」
老人は答えず、背負った菜箸の一本を指先で弾いた。
キィィィィィィィィィィィィン……!!
エルナの絶対聴覚が、激しいハウリングを起こす。
それは、彼女が新橋で得た全ての「音」を否定し、アステリアの冷酷な伝統へと引き戻そうとする「拒絶の調べ」だった。
「……ハンスという毒に当てられたか。……良いだろう、エルナ。その汚れた耳を、私が直々に『再調律』してやろう」
霧が深まり、師匠の姿が陽炎のように揺れる。
エルナは、震える手で重晶鉄の菜箸を握り直した。
「……ハンスは毒ではない。……私の魂を呼び覚ました、最高の『出汁』だ!」
かつての部下、そして最愛の師。
アステリアの闇は、エルナが想像していた以上に深く、そして冷たい。
だが、彼女の胃袋の奥には、まだハンスが最後に残した「おでんの熱」が、消えぬ種火として残っていた。
喰いタン・エルナ。
恩師との、避けては通れぬ「殺戮の演奏会」が、今、国境の森で幕を開けた。




