第56話:国境の検問所。アステリアの「絶対静寂」と、鉄の菜箸が奏でる密入国の狂詩曲
第56話:国境の検問所。アステリアの「絶対静寂」と、鉄の菜箸が奏でる密入国の狂詩曲
二〇二六年八月一〇日。
アステリア王国の国境を囲むのは、美しき山嶺ではない。パノプティコンが提供した、あらゆる「音」を検知し、自動迎撃する音響監視壁『サイレント・ウォール』だ。
かつては風の歌が聞こえたこの森も、今はセンサーが放つ無機質な超音波が、小鳥の囀りさえも「不法侵入」として処理する死の静寂に包まれていた。
「……ハンス。貴殿がいた頃の国境は、もっと土と緑の、力強い『生命の不協和音』に満ちていたはずだ」
エルナは、監視網の死角となる険しい断崖の前に立っていた。
彼女の手に握られているのは、重晶鉄の菜箸。そして、もう片方の手には、新橋の立ち食いそば屋で手に入れた「揚げ玉(天かす)」の袋があった。
「……行くぞ。音を消して進むのではない。……音を『欺いて』進むのだ」
エルナは崖を登りながら、時折、指先で揚げ玉を砕き、虚空へと放り投げた。
——サクッ、パラリ……。
パノプティコンのセンサーが、その不規則で微細な「破砕音」に反応し、焦点を乱す。揚げ玉が岩肌に当たる「乾いた音」が、エルナの正確な軍靴の音をカモフラージュするノイズ(偽装音)となる。
「……聴こえる。監視網の波形が、私の放つ『揚げ玉の調べ』に困惑しているな」
だが、国境の門を目前にした時、最強の守護者が立ちはだかった。
アステリアの音響騎士団、かつてのエルナの部下たちが、聴覚を増幅する奇妙なマスクを付けて彼女を包囲する。
「……エルナ様。……戻られたのですね。ですが、今のこの国に、貴方の聴くべき『楽譜』は残されておりません」
部下たちの構える長槍が、共鳴振動を開始する。
エルナは重晶鉄の菜箸をクロスさせ、深く腰を落とした。
「……どけ。……私は、奪われた相棒の『味』を取り戻しに来た。……貴殿らの不細工な共鳴など、私の胃袋を満足させる前菜にもならん!」
エルナの一喝が、音響壁の静寂を真っ二つに切り裂いた。
王国の闇を貫く進撃。その第一歩が、かつての故郷の土を激しく蹴り上げた。




