第55話:暗号化された糖分。金平糖の「角」が暴く、囚われの騎士
第55話:暗号化された糖分。金平糖の「角」が暴く、囚われの騎士
二〇二六年八月九日。
隅田川の潮風が吹き抜ける新橋の事務所。エルナは、ピアノ教室から持ち帰った「金平糖」の最後の一粒を、電子顕微鏡の代わりに自らの「絶対聴覚」で解析していた。
金平糖の歪な「角」。それは単なる砂糖の結晶ではなく、特定の周波数を記憶させるために精密に調律された、音響的な記憶素子であった。
「……ハンス。貴殿の『音』が、この小さな星の中に閉じ込められているのか」
エルナが重晶鉄の菜箸で、金平糖の表面を微かに弾く。
——……キィィィィィン……。
高周波の残響が、事務所の空気を震わせる。その震動の中に、エルナは聞き慣れた、しかし絶望に満ちた「呼吸の音」を聴き取った。
それは、アステリアの軍用鳩が運んできた清々しい別れの旋律などではなかった。
『……エルナ、様。……逃げ……て……』
ノイズに混じって響く、ハンスの掠れた声。背景に聞こえるのは、重厚な鉄格子の軋み、そして生体エネルギーを強制的に吸い出す、パノプティコンの無機質な装置の駆動音。
「……なんだと」
エルナの指先から、菜箸が滑り落ちた。
ガシャンッ!!
冷たい金属音が、静まり返った事務所に空虚に響く。
ハンスは、アステリア再建のために「英雄」として帰還したのではない。彼は、フェルディナンドら急進派とパノプティコンが結んだ密約により、最初から「生体パーツ」として売られ、アステリアの辺境にある秘密プラントへ捕虜として連行されていたのだ。
「……あの羊皮紙も、あの時の琥珀色の出汁も……すべては、私を巻き込まぬために貴殿が演じた『偽りの楽章』だったというのか」
エルナの目から、一滴の涙が溢れる。だが、それは頬を伝う前に、彼女の体の中から湧き上がる「沸騰した怒り」によって蒸発した。
彼女が信じていた「別れ」は、敵が書いた最悪の台本に過ぎなかった。ハンスは今、故郷の地で、点心師としての精密な指先を、世界を滅ぼす音響兵器『終焉の鐘』の調整のために、一秒ごとに削り取られている。
「……許さぬ。……故郷を、騎士の誇りを、そして何より、相棒の『味覚』を蹂躙する不協和音め!」
エルナは、床に落ちた菜箸を拾い上げ、かつてないほど強く握りしめた。
重晶鉄が、彼女の怒りに呼応するように、黒光りする表面から微かな放電を放つ。
「ハンス、聴こえるか。……貴殿が残したこの金平糖の甘みは、今、私の喉を焼く劇薬となった。……待っていなくていいと言ったが、訂正だ」
エルナは、事務所の壁に貼られた地図を、今度は菜箸で突き刺すのではなく、拳で粉砕した。
「……待っていろ、ハンス。貴殿を捕らえた鎖の音、私がこの菜箸で、一本残らず粉砕してやる!」
孤独な騎士、エルナ。
彼女の軍靴が、再び新橋の路面を叩く。その足音はもはや迷いのない、アステリア王国全土を震わせる「逆襲の進軍ラッパ」となっていた。




