第53話:隅田川の残響。ピアノ教室の「空白譜」と、奪われた旋律
第53話:隅田川の残響。ピアノ教室の「空白譜」と、奪われた旋律
二〇二六年八月八日、早朝。
江東区の閑静な住宅街。蔦の絡まる瀟洒な洋館の一室にある「ピアノ教室」は、かつて子供たちの指先が奏でる拙くも希望に満ちた音が響く場所だった。だが、今のそこには、音楽を愛する者なら耐え難いほどの「腐敗した静寂」が澱んでいた。
「……酷いな。これは『音』に対する冒涜だ」
現場に降り立ったエルナは、警察の黄色いテープを潜り、血溜まりの中に転がるグランドピアノの前に立った。
被害者は講師の女性。目を潰され、蹂躙され、その喉は歌を歌えぬよう物理的に破壊されていた。警察は現場の荒らされ方から、近隣を根城にする暴力団の「見せしめ」と断定し、早々に捜査方針を固めている。
だが、エルナの耳は、警察が聞き逃した「残留振動」を捉えていた。
「……ハンス。貴殿がいれば、この部屋の隅にこびりついた『電子的なノイズ』に、すぐに眉を顰めたことだろう」
エルナは重晶鉄の菜箸を抜き、ピアノの鍵盤を一つ、静かに叩いた。
——……トォォォン。
調律の狂った音が、虚空に消える。
その余韻の中に、暴力団の粗野な破壊衝動とは異なる、精密で冷徹な「周波数」が混じっていた。パノプティコンが極秘裏に開発した、生体の感覚器をピンポイントで焼き切る指向性音響兵器の痕跡だ。
「……暴力団の仕業ではない。これは、この女性が持っていた『共感覚』の才能を恐れた、パノプティコンによる抹殺だ」
彼女は、ピアノの譜面台に残された「白紙の楽譜」を手に取った。
そこには、死の直前に彼女が書き残そうとした、アステリアの音響技術にも通じる「魂の共鳴理論」が、不可視のインクで刻まれていたに違いない。それをパノプティコンは奪い、彼女の「目(視覚)」と「体(尊厳)」を破壊することで、情報を独占しようとしたのだ。
「……ハンスを奪い、次は無辜の民の歌まで奪うか。……パノプティコン。貴殿らの奏でる『欲の音』、これ以上聴くのは耳の穢れだ」
エルナの絶対聴覚が、ピアノの内部、ダンパーの隙間に挟まっていた「銀色のマイクロチップ」の駆動音を捉えた。一秒間に数万回、情報を送信し続けるその超高周波の唸り。
「……見つけたぞ。貴殿らの『不協和音の尻尾』をな」
エルナは菜箸の先端でチップを粉砕した。
瞬間、江東区の静かな空気を切り裂くように、隅田川の対岸——中央区にあるパノプティコンの秘密拠点から、微かな「迎撃の警告音」がエルナの耳に届いた。
「……ハンス。待っていなくていい。……今、私の胃の中にあるのは、冷えた怒りと、復讐の火だけだ」
エルナはピアノ教室を後にし、夕闇の隅田川へと向かった。
月島でもんじゃを喰らい、孤独を力に変えた騎士。彼女の菜箸が、次に貫くのは、資本という名の厚い装甲に守られた、冷血な殺人者たちの心臓である。
喰いタン・エルナ。
奪われた旋律を取り戻すための、血塗られた「復讐の変奏曲」が、今、隅田川の波間に響き渡った。




