第52話:沈黙の略奪者。月島の「音喰い(サウンド・イーター)」と、混沌の鉄板(もんじゃ)
第52話:沈黙の略奪者。月島の「音喰い(サウンド・イーター)」と、混沌の鉄板
二〇二六年八月六日、午後八時。
隅田川を渡る夜風は、新橋のそれよりも湿り気を帯びていた。
エルナは一人、月島の路地裏に佇んでいた。SL広場から彼女を追ってきた「音を吸い込む刺客」……パノプティコンが放った音響兵器・通称『音喰い(サウンド・イーター)』。そいつの不気味な無音を振り切るため、彼女が飛び込んだのは、熱気と出汁の香りが入り乱れる「もんじゃストリート」だった。
「……ハンス。貴殿がいないこの世界は、あまりに静まり返りすぎて、私の鼓動さえも雑音に聴こえるぞ」
エルナは、一軒の古びたもんじゃ焼き屋の暖簾を潜った。
店内は、鉄板が奏でる無数の旋律で満ちていた。
ジューッ、パチパチ、カン、カンッ!
ハンスのような洗練された宮廷音楽ではない。それは、客自らがコテを振るい、食材を刻み、渾然一体となって奏でる「民衆の不協和音」。だが、今のエルナにはその混沌こそが必要だった。
「……おばさん。一番『騒がしい』もんじゃを頼む」
「はいよ、明太もちチーズだね!」
目の前の鉄板に、勢いよく液体が流し込まれる。
ドォォォォォッ!!
激しい蒸気の音が、エルナの耳を包み込む。彼女は重晶鉄の菜箸ではなく、店備え付けの「小さなコテ」を両手に持った。
「……ハンス。貴殿なら、この土手を崩さず完璧に仕上げたのだろうな。……だが、今の私は、この混沌をそのまま胃に収めねばならんのだ」
エルナはコテを激しく叩きつけた。
カカカカカッ、カン、カンッ!
キャベツを刻む音、餅が溶ける音、明太子が弾ける音。
それらは次第に、エルナの絶対聴覚の中で、一つの巨大な「壁」となって組み上がっていく。
……その時だった。
店の外から、あの忌まわしい「無音」が侵食してきた。
近づく『音喰い』。そいつが放つ超音波が、店内の楽しげな笑い声を、鉄板の爆ぜる音を、次々と「消去」していく。
「……見つけたぞ、騎士エルナ。貴様の聴覚を奪い、その菜箸ごとパノプティコンの檻へ招待してやろう」
店の入り口に立つ、特殊な消音装置を纏ったエージェント。彼の周囲では、空気の振動さえも死に絶えている。
だが、エルナは鉄板から目を離さなかった。
焦げかけたもんじゃの底から、彼女の耳は「反撃の重低音」を聴き取っていた。
「……ハンスに教わった。……『完璧な調和』が作れぬ時は、自らが『最大のノイズ』になれば良いとな」
エルナは、焦げ付いたもんじゃの「せんべい」を、コテで一気に剥がし取った。
バリバリッ、パリィィィン!!
それは、静寂を切り裂くような、鋭く、乾いた、命の結晶の音。
エルナはその「焦げ」を口に放り込み、一気に咀嚼した。
ボリ、ボリボリッ!!
頭蓋骨の内部で反響する、圧倒的な破壊的音響。
『音喰い』の消音波を内側から粉砕するような、生命の維持を叫ぶ「食」の残響が、エルナの全身に闘志を再充填していく。
「……聴こえるぞ。貴殿が消し去ろうとした、この街の『生きている音』が、私の胃の中で今、火を噴いている!」
エルナは立ち上がり、懐から重晶鉄の菜箸を抜き放った。
月島の熱気が、もんじゃの出汁の香りが、彼女の背後で巨大な旋律となって鳴り響く。
「……ハンス。……見ていろ。独りでも、私はこの『味』を繋いでみせる!」
消音の闇を、黄金色の菜箸が真っ二つに切り裂いた。
喰いタン・エルナ。
孤独な晩餐を力に変えた騎士の、月島を揺るがす反撃が今、火蓋を切った。




