第50話:新橋の調律師(チューナー)。菜箸が語る過去と、唯一無二の「耳」
第50話:新橋の調律師。菜箸が語る過去と、唯一無二の「耳」
二〇二六年八月四日、午前零時。
ハンスのいなくなった事務所の静寂は、かつてのアステリアの戦場よりも深く、冷たい。エルナはデスクの上に置かれた二本の「重晶鉄の菜箸」を見つめていた。
一見すれば、少し古びた鉄の棒。だが、これこそがアステリアの音響工学が産んだ至宝であり、彼女の腕の中でだけ「生きた楽器」へと変貌する。
「……ハンス、貴殿はいつも言っていたな。私の耳は、神がこの世界を調律するために遺した『最後の鍵』だと」
エルナの耳……「絶対聴覚」は、アステリア王国においても彼女だけが持つ唯一無二の異能だった。
他者の心拍、血流の摩擦音、さらには細胞が死滅する際のか細い悲鳴。あらゆる生命の「旋律」を聴き取ってしまうその力は、騎士訓練で得た技術ではない。生まれながらにして、世界の「不協和音」に苦しむことを宿命づけられた者の呪いであり、祝福だった。
カチッ……。
箸を軽く打ち合わせる。重晶鉄が奏でる特定の周波数が、エルナの聴覚と共鳴し、箸自体の「質量」を一時的に書き換える。
かつて双鞭を振るい、敵の骨を粉砕していた頃、彼女はその破壊の音を恐れていた。だが、ハンスはその耳に「食のリズム」を教えたのだ。
『エルナ様、聴いてください。肉が焼ける音は、命が美味へと昇華する歓喜の歌なのですよ』
その言葉があったから、彼女は武器を捨てず、菜箸として持ち替えることができた。
重晶鉄の振動を指先から伝え、食材の内部に潜む「不純な音」を叩き出す。硬い肉の繊維を共鳴させて断ち切り、脂の融点を音でコントロールする。それはアステリアの双鞭術を極めたエルナにしか成し得ない、究極の調理法「食卓の調律」。
エルナは、一人分の夜食……新橋のスーパーで買った安い鶏肉を取り出した。
——トントン、カチ、カチ……。
菜箸の打撃音が、深夜の事務所に心地よいボレロを刻む。
かつての戦場では、この振動で相手の武器を粉砕した。今は、この振動で鶏肉の旨味を引き出し、自分の孤独な胃袋を慰めている。
「……たとえハンスがいなくとも、私の耳がこの街の『美味しい音』を聴き逃すことはない」
出来上がった一皿を口に運ぶ。
——シャクッ、フワァ……。
咀嚼音の中に、わずかに混じるハンスの面影。
エルナは再び箸を手に取り、暗闇の中で新橋の街へと耳を澄ませた。
遠く、ビルの谷間で鳴る、卑しい金貨の擦れる音。
地下道の隅で響く、誰かの絶望の拍動。
「……聴こえるぞ。……さあ、夜食の後は、この不快なノイズを消しに行くとしようか」
「喰いタン」エルナ。
唯一無二の耳を持つ彼女の、新橋での第二章が、今ここから静かに幕を開ける。




