第49話:雨の新橋。琥珀色の決断と、菜箸が刻む「残留」のリズム
第49話:雨の新橋。琥珀色の決断と、菜箸が刻む「残留」のリズム
二〇二六年八月三日、午後七時。
浅草での「精」をつけた鰻の余韻を振り払うように、エルナは新橋のガード下に立っていた。激しい夕立がアスファルトを叩き、街の音を塗り潰していく。
彼女の目の前には、アステリアへの密航を促す連絡員が差し出した、一通の偽造パスポートがあった。
「……行かないのか、エルナ。あの執事——ハンスを救えるのは、貴殿の双鞭だけだぞ」
エルナは、雨粒を弾く重晶鉄の菜箸を一本、スッと目の前に掲げた。
カチ、カチ……。
雨音に混じって響く、冷たくも澄んだ金属音。それは、かつて戦場で鳴り響いた「破壊の合図」ではなく、今の彼女が守るべき「食卓のメトロノーム」だった。
「……ハンスは言った。『貴殿はもう、立派な新橋の騎士だ』とな。……彼が命懸けで守り、私に手渡したこの街の『美味しい音』を、私が捨ててどうする」
エルナは、差し出されたパスポートを菜箸の先で静かに押し戻した。
アステリアへ行けば、ハンスを救えるかもしれない。だが、主がいなくなったこの新橋で、誰が「もったいないオバケ」の産声を止め、誰が太郎のような子供たちの胃袋を調律するというのか。
「……私はここに残る。ハンスがいつ帰ってきても、『おかえり』の代わりに最高の一杯を振る舞えるように……この街の不協和音を、私がすべて調律してやる」
エルナの決意に呼応するように、雨が小降りになり、ガード下の赤提灯が一つ、また一つと灯り始めた。
シュワァァァ……。
どこかの店で、餃子が焼き上がる音がする。
トントンッ……。
包丁がまな板を叩く、小気味よいリズムが聴こえてくる。
「聴こえるぞ。……ハンス、貴殿が愛したこの街の鼓動が。……これこそが、私の守るべき戦場だ」
エルナはドレスの裾を翻し、馴染みの激安カレー屋へと歩き出した。
「喰いタン」エルナ。
相棒不在のまま、彼女は「新橋の守護騎士」として、この街に潜むあらゆる「食の事件」を独りで引き受ける覚悟を決めたのだ。




