第47話:さらばハンス。新橋のガード下と、琥珀色に沈む「帰還命令」
第47話:さらばハンス。新橋のガード下と、琥珀色に沈む「帰還命令」
二〇二六年七月三一日、午後八時。
宝石強奪事件の喧騒が収まり、新橋の街に安穏な夜が戻りつつあった。だが、ガード下にある古びたおでん屋のカウンターで、エルナは喉を鳴らす出汁の音さえも「別れのプレリュード」に聴こえていた。
「……ハンス。隠しても無駄だ。貴殿の燕尾服の裏で、アステリアの軍用鳩が放つ『帰還の羽音』が、先ほどから不気味に共鳴しているぞ」
ハンスは静かに、琥珀色のおでん汁を飲み干した。その指先には、凍結から回復した際の微かな震えがまだ残っている。
「……お耳が早すぎます、エルナ様。左様です。本国より、特級帰還命令が下されました。アステリア再建のため……私の『点心師としての腕』が必要だとのことです」
ハンスが差し出したのは、王家の血で封印された羊皮紙。そこには、二度と日本の地を踏むことを許さぬという非情な旋律が刻まれていた。
「……ハンス。貴殿がいなくなれば、誰が私の胃袋を調律するのだ? 誰がこの菜箸に、正しき食材のリズムを教えるというのだ」
エルナは、手元にある重晶鉄の菜箸を強く握りしめた。
かつてアステリアの戦場を血に染めた「双鞭」。敵の骨を粉砕してきたその武技を、ハンスは「料理」という名の調和へと変えてくれた。この重い箸を、破壊のためではなく、命を味わうために振るえるようになったのは、ハンスが隣にいたからだ。
「……エルナ様。貴殿はもう、立派な新橋の騎士です。私が教えた『出汁の引き方』は、既に貴殿の鼓動の中に溶け込んでいます」
ハンスが、店主から借りた小さな包丁で、最後の大根を丁寧に切り分けた。
——サクッ、サリッ。
一点の乱れもない、透き通った音。
「……これは、私からの最後の献立です。受け取ってください。アステリアの冬を越えるための、熱き魂の残響を」
エルナがその大根を口にした瞬間。
——ドクンッ!!
全身の細胞が、ハンスの決意と共鳴した。それは別れの悲しみではなく、次なる戦いへの「武装」としての味覚だった。
その時。ガード下の向こうから、黒い軍用車が音もなく滑り込んできた。
「……時間のようですね。エルナ様、どうか……その菜箸を、最後まで離さないでください」
ハンスが夜の帳へと消えていく。残されたのは、冷めかけたおでんの湯気と、エルナの手の中で鈍く光る「双鞭」の魂を宿した菜箸だけだった。
「……ハンス。……待っていろ。貴殿の打つ麺を啜るまで、私はこの新橋を、そしてアステリアを、一歩も引かずに守り抜いてやる!」
エルナの叫びが、ガード下の喧騒に飲み込まれていく。
「喰いタン」エルナ。
相棒を失った孤独な騎士の軍靴が、今、故郷への「逆襲の序曲」を刻み始めた。




