第42話:氷結の点心師。凍りついたハンスと熱き魂のレスキュー
第42話:氷結の点心師。凍りついたハンスと、熱き魂のレスキュー
二〇二六年七月二六日、二三時三〇分。
冷凍倉庫のハッチを抉じ開けた瞬間、エルナを襲ったのは、吐息さえも刃に変える白銀の冷気だった。視界を埋め尽くす吊るされた肉塊の列。その最奥、氷の結晶が花のようにこびりついた木箱の上に、彼はいた。
「……ハンス!」
ハンスの燕尾服は霜で白く染まり、面点師の誇りである指先は、紫がかった氷の色に支配されていた。
「……遅いですよ、エルナ様。私の耳には……もう、雪が積もってしまいました」
微かに動いた唇から漏れた絶望の音。指先の感覚を奪うことは、料理人にとって死を意味する。アステリアの刺客は彼を壊そうとしたのだ。
「……黙れ、ハンス。貴殿の耳に積もった雪など、今すぐ私が払い落としてやる」
エルナはハンスを抱きかかえて調理場へ連れ戻すと、まだ熱を帯びているコンロの前に彼を座らせた。
「ハンス、聴け。これが貴殿を呼び戻す『音』だ」
エルナは干しアワビ、金華ハム、そして先ほど拾い上げた「ポルチーニ茸」を土鍋に放り込み、沸騰水を注いだ。
——ゴボゴボゴボッ、シュワァァァァッ!!
激しい対流の音が、凍りついた調理場の空気を震わせる。エルナは重晶鉄の菜箸を手に取ると、土鍋の底を一定のリズムで叩き始めた。
——カチ、カチ、カチ、カチ……。
それはハンスがかつてエルナに淹れた茶のリズムであり、二人が共に聴いたアステリア祝祭の鼓動。
「熱を聴け、ハンス! 水が踊り、食材が目覚め、香りが空気を支配していくこの音を!」
濃厚な蒸気がハンスの鼻腔を直撃し、凍結しかけていた脳細胞に強烈な電気信号を送り込む。
「……あ……ああ……」
ハンスの指先が、微かにピクリと動いた。エルナは黄金色のスープを掬い、彼の口元へ運んだ。
「飲め。私の不格好な調理だが、味は……貴殿の過去が保証している」
——ズズッ。
ハンスが魂の底からその一口を飲み込んだ瞬間、体内で凍りついていた血流が爆発的な音を立てて再開した。
——ドクン、ドクン、ドクン!!
力強い心拍音がエルナの耳に届く。指先から氷の呪縛が溶け出し、赤みが差していく。
「……エルナ様。少し、出汁の取り方が強引ですよ。ポルチーニが主張しすぎています」
いつもの慇懃無礼な声。ハンスは震える手でエルナから菜箸を受け取ると、ゆっくりと、しかし確実にそれを握りしめた。
「ですが、おかげで目が覚めました。私の指先にはまだ、小麦の歌を聴く力が残っているようです」
ボロボロのドレスを纏った姫騎士と、霜の降りた服を着た執事。
「ハンス。……補給は完了したか?」
「御意。氷が溶けた後の私の指先は、以前よりも鋭くなっておりますよ、エルナ様」
調理場の外からは、次なる暗殺者たちの足音が聞こえてくる。だが、今の二人に死角はない。
熱きスープで魂を解凍した「喰いタン」コンビが、豪華客船を揺らす逆襲の合奏を開始した。




