第40話:深夜の調理場(ギャレー)。ハンスの「匂い」と、音を消した暗殺者たち
第40話:深夜の調理場。ハンスの「匂い」と、音を消した暗殺者たち
二〇二六年七月二六日、午後二十三時。
パニックに陥ったダンスホールを離れ、エルナは船底へと続く銀色の回廊を突き進んでいた。目指すは、数千人の晩餐を支える巨大な調理場。毒が盛られた「源泉」であり、ハンスを連れ去った者たちが必ず通るはずの場所だ。
——キィィィィィ……。
重厚な防火扉を押し開けると、そこにはパーティーの喧騒とは切り離された、異常なまでの「無音」が広がっていた。本来なら、深夜であっても仕込みの音が響き、熱気と油の匂いが漂う場所だ。だが、今の調理場は時間が凍りついたかのように冷たく、静まり返っている。
「……ハンス。お前がここにいたのなら、こんな死んだような静寂は許さなかったはずだ」
エルナは鉄の菜箸を逆手に持ち、迷路のようなステンレス台の間を音もなく進む。その時、彼女の鼻腔を、微かだが強烈な個性を放つ香りが掠めた。
それは、清潔すぎる空間には不釣り合いな、湿った大地を連想させる濃厚な芳香。
「……ポルチーニ茸か」
完璧な下処理を施された一振りのポルチーニ。エルナはその断面に指を触れた。吸い付くような潤い。切られてから、まだ数分も経っていない。
『エルナ様、ポルチーニは森の賢者です。その香りは、暗闇でも迷わぬための灯火となるのですよ』
かつてハンスが語っていた言葉。彼はこのキノコを落とすことで、自分の行先を示したのだ。エルナがそれを拾い上げようとした、その瞬間。
——シュッ。
極めて細く、鋭い風切り音。
エルナは反射的に体を捻った。頬をかすめた投擲用ナイフが冷蔵庫に突き刺さり、高周波の残響を響かせる。
「……出てこい。音を消して近づいたつもりだろうが、貴殿らの殺気は、腐った魚よりも鼻につくぞ」
調理台の影から、音もなく三人の人影が立ち上がった。アステリア王国の暗殺部隊。彼らが纏う特殊な防音スーツは、布擦れの音さえも完全に吸収している。
「喰いタン、エルナ。貴様の耳は確かに我らの不覚だ。だが、ここが貴様の墓場となる」
暗殺者たちが一斉に踏み出した。だが、彼らは気づいていない。エルナが手に持っているのは、ただのキノコではない。彼女の闘争本能に火をつけた「相棒からの信託」であることを。
「ハンス、見ていろ。貴殿が整えたこの戦場で、私がどんな『音』を奏でるかをな」
エルナはポルチーニを懐へ収めると、鉄の菜箸で傍らの巨大な寸胴鍋の縁を激しく叩いた。
——ガチィィィンッ!!
調理場中に轟然たる衝撃音が波状攻撃となって跳ね返る。反響する音の粒が、防音スーツに身を包んだ暗殺者たちの「輪郭」を逆説的に浮き彫りにした。
喰いタン・エルナ。
ハンスの香りを胸に、彼女は音を奪う暗殺者たちとの、血塗られた調理を開始した。




