第4話:黒煙の処刑場(グリル)と、立ち食いの流儀
第4話:黒煙の処刑場と、立ち食いの流儀
二人は京急線の赤い車両に揺られ、横須賀中央の駅へと降り立った。
改札を抜けた瞬間に鼻腔を突いたのは、新橋のそれとは明らかに異なる、重厚で暴力的な空気だった。潮風に混じる重油の匂い、そして——。
「ハンス、ここもまた戦の匂いがするな。……それも、より原初的で、血生臭いほどの熱気だ」
姫騎士エルナが、野性の獣のように鼻を鳴らす。
「ええ。潮風に混じって漂う焦げた醤油の香気。これが戦士たちの本能を、胃の底から揺さぶり起こしている……。この街の空気そのものが、巨大な触媒のようです」
二人がたどり着いたのは、路地裏に濃密な黒煙を立ち上げる源——『相模屋』。そこは店というより、絶え間なく肉が焼き続けられ、煙が噴出する工廠のような熱気を放っていた。
——ジュウゥゥゥ……シュワッ!
焼き台の上では、無数の鶏肉が猛火に晒され、断末魔のような音を上げていた。網から滴り落ちる黄金色の脂が炭火に触れ、一瞬で白煙へと昇華する。
「エルナ様、見てください。あの煙は単なる排気ではない……。滴る脂を蒸発させ、再び肉にその香りを纏わせる『循環の魔術』です。音を聞いてください。パチッ、パチッという微細な爆ぜ。それは肉の魂が煙となり、肉自身に再構築される、熱による対話なのです」
ハンスは凝視した。何十年もの間、数えきれないほどの串を焼き続けてきた旨味の粒子が染み付いた、不可視の調味料。この店を包む煙のカーテンそのものが、歴史だった。
店先では、スーツ姿の男も、潮風に焼かれた老兵のような老人も、等しく立ったまま無言で串を頬張っていた。
「……礼節も椅子も投げ打ち、ただ獲物に食らいついている。ここはかつての遠征軍のキャンプ地か? あるいは、突撃前の最後の晩餐か」
「いえ。これは効率を超えた、この国の民の『野性の解放』でしょう。見てください、あの無駄のない所作を」
ムシャ……という密やかな咀嚼音。そして、空になった串が金属製の空き缶に放り込まれる——カラン。乾いた金属音が一定の周期で打ち鳴らされている。それは、この場所独自の心拍だった。
エルナは、最も濃密な匂いを放つ『つくね』を手に取った。
——ザリッ。
タレに混じった焦げの粒子が、歯の表面で砕ける。
(!?)
甘辛いタレの奥に潜む、鶏肉の圧倒的な弾力。噛み締めるたびに、鍛えられた筋肉の繊維がぷつん、ぷつんと心地よく断裂し、閉じ込められていた肉汁が、決壊したダムのように溢れ出す。
(……この濃密な黒い液体は何だ? 幾千、幾万の肉を潜り抜けてきた、歴史の重みを感じる。昨日今日で作られた安っぽい甘みではない。失われた王国の年代記を読み解くような、深く、暗い、それでいて温かい重層的な味だ……!)
「ハンス、このタレ……この中には、この店を訪れた者たちの執念すら溶け込んでいるのではないか?」
「同感です。この黒い輝きは、もはやソースという名の記録媒体ですよ。継ぎ足し続けられた記憶の蓄積が、この深みを生んでいる。我ら宮廷料理人が目指した『完成』とは対極にある、終わりのない『継続』の美学です……ッ!」
ハンスは、エルナが差し出した串の先端に残った、一滴のタレを指で掬い取った。それを舌に乗せた瞬間、彼の瞳に異世界の荒野が、そして新橋から横須賀へと続く食の行軍が、走馬灯のように駆け巡る。
「……ハンス。椅子がないのではない。椅子に座る時間すら惜しいほど、この肉には『速度』が必要なのだな。焼き上がりの一瞬、生命の煌めきが最高潮に達したその刹那に、立ちながら食らう。これぞ真の戦士の流儀だ」
ゴクリ。
重厚なタレを飲み干す嚥下音が、彼女の喉を震わせる。
「御意。鮮度と温度を逃さぬための、合理的かつ野蛮な最適解。横須賀の民、恐るべしです」
夕暮れのドブ板通り。一本百数十円の武器(串)を手に、二人は自分たちの祖国アステリアを想う。そこにはかつて、これほどまでに熱狂的で、命の音がする食があっただろうか。
カラン。
また一つ、空の串が缶に落ちる音がした。それは、心地よい戦果の報告。
「ハンス、もう一本だ。次は……あの『レバー』という名の、臓器の深淵に挑む」
「畏まりました。その覚悟、しかと見届けましょう」
二人の足音が、夜の横須賀に力強く刻まれる。
コツ、コツ、コツ……。
そのリズムは、異邦人がこの街の野性に共鳴し、新たな「強さ」を胃袋で見出し始めた、凱旋の行進曲だった。
背後で鳴り続ける、炭火が脂を弾くパチパチという音を、勝利の喝采として聴きながら。




