第39話:偽りの豪華客船。アステリアの密使と、シャンパンの不吉な泡立ち
第39話:偽りの豪華客船。アステリアの密使と、シャンパンの不吉な泡立ち
二〇二六年七月二六日、午後九時。
横浜港を出航した超豪華客船『クイーン・オブ・アステリア』。
シャンデリアの光が海面を黄金色に染め、船内ではタキシードとドレスの紳士淑女たちが、オーケストラの優雅な旋律に身を委ねていた。その華やかな群像の中に、漆黒のイブニングドレスを纏ったエルナの姿があった。
「……ハンス。聴こえるか。この船の底からは、エンジン音に混じって、誰かの押し殺した『泣き声』が響いてくるぞ」
エルナは、手元の扇子に隠した小型通信機……ではなく、自らの鋭敏な聴覚を頼りに、消えた相棒の「音」を探していた。だが、会場を満たすのは空疎な笑い声と、氷がグラスに当たるカチリという軽薄な音ばかりだ。
その時だった。
「乾杯! アステリアと日本の、永遠なる友愛に!」
壇上で挨拶を終えた初老の紳士が、並々と注がれたシャンパンを飲み干した。
瞬間、周囲の「音」が止まった。
紳士の喉が不自然な痙攣を刻み、次の瞬間、クリスタルグラスが滑り落ちた。
——ガシャンッ!!
鋭い破砕音。それを合図に紳士は崩れ落ち、会場はパニックの渦に呑み込まれた。逃げ惑う群衆をかき分け、エルナは紳士が倒れたテーブルへと歩み寄った。
彼女の視線は、中身が残っている隣のグラスに注がれていた。
シュワシュワ……。
一見、美しいシャンパンの泡。だがエルナの耳には、その泡が弾ける音が「肉を焼く腐食音」のように響いていた。
「……ハンスがいない今、私の指先が真実を聴き取るしかないようだな」
エルナはドレスのスリットから、あの無骨な「重晶鉄の菜箸」を引き抜いた。
——ガチッ。
菜箸を打ち合わせ、喧騒を精神から遮断する。そして、黄金色の液体の中へ、鈍く光る鉄の先端を沈めた。
——ジィィィィ……。
液体に触れた瞬間、暴力的な化学反応の音がエルナの指先を伝わってきた。美しい銀色をしていた菜箸の先端が、液体の底から這い上がるように、禍々しい「紫黒色」へと変色していく。
「やはりな。アステリアの暗殺者が好む神経毒『死の接吻』か」
エルナは変色した菜箸を掲げ、騒然とする会場を冷徹な眼差しで射抜いた。
「聴こえるぞ。この広大なホールのどこかで、心拍数を押し殺し、この毒の『成果』を聴き届けようとしている不協和音が。……貴殿たちの喉元をこの箸が叩く時、どんな音が鳴るか。今から楽しみだ」
船が大きく揺れ、シャンパンの泡が不気味に弾けた。
「喰いタン」エルナ。
彼女の孤独な潜入捜査は、豪華客船という名の「浮かぶ密室」で、本格的な決戦の幕開けを告げようとしていた。




