第38話:孤独の炎。新橋の静寂と、決意の麻婆丼
第38話:孤独の炎。新橋の静寂と、決意の麻婆丼
二〇二六年七月二五日、正午。
横浜の激闘を終え、潮騒の残響を耳に残したまま辿り着いた新橋の事務所は、かつてない不気味な静寂に包まれていた。
扉を開けた瞬間、ハンスが淹れる白茶の柔らかな香りと、完璧な空気の振動が自分を迎える——それがエルナにとっての「世界の正解」だった。だが、そこにいたのは、主を失って冷え切った空間だけだ。
「……ハンス、いないのか」
調理台の上には、ハンスが愛用していた麺棒がぽつんと残されていた。傍らには、アステリア王国の辺境にのみ自生する**「銀龍椒」**の、刺すような鋭い残り香。
エルナの心臓が警告の鐘を鳴らす。だが、彼女はすぐに動こうとはしなかった。極限の緊張感の中で、彼女の胃が、抗いようのない「空腹の音」を奏でたからだ。
「……ハンスを追うには、まだ私の音が足りん」
エルナはコートを脱ぎ捨て、厨房に立った。普段はハンスに任せきりの聖域。彼女は中華鍋を手に取り、強火にかけた。
——シュォォォォォ……ッ!
青い炎が鍋を舐め、金属が熱を帯びる。その覚醒の音を聴きながら、豆腐、挽肉、そして横浜で手に入れた「百年味噌」を取り出した。
——トントントン、トトントン。
まな板を叩く音。ハンスのような芸術的なリズムではない。それは騎士が戦場で剣を研ぐような、一点の迷いもない断音だった。
肉を投入する。
——ジャァァァァァァッ!!
激しい爆ぜ音が、無人の事務所に響き渡る。百年味噌を溶かし、ハンスが残した「銀龍椒」を僅かに振り入れた。
——バチバチッ!
香辛料が油の中で爆ぜ、脳を激しく突き刺す。それはアステリアの最前線を思い出させる、冷徹な香気だった。
仕上げに白米を盛り、地獄の炎のような麻婆豆腐を豪快に流し込む。
——ドサリ。
重厚な質量を伴った音が、丼の底で止まった。
「……できたな。私の、私のための戦糧が」
エルナは鉄芯入りのマイ箸で、熱々の麻婆丼を掬い上げた。
——ハフッ、ハフッ、ズルリ。
口の中に広がるのは、呂が抱えていた憎悪ではない。銀龍椒の鋭い痺れが、ハンスという「音」を失って鈍りかけていた五感を強制的に再起動させていく。
豆腐の柔らかさが決意を包み、挽肉の弾力が闘志を呼び覚ます。米の甘みが騎士の背骨を真っ直ぐに立て直した。
——モグ、モグ……。ゴクリ。
重い嚥下音。それは、失踪した相棒を必ず連れ戻すという、神聖な誓いの音だった。
完食。
——カチッ。
箸を置く音が、静まり返った事務所に鋭く響いた。もはや迷いの不協和音など存在しない。
「……待っていろ、ハンス。お前が淹れる茶を飲むまでは、私は決して倒れんぞ」
エルナは麺棒を懐に、鉄の菜箸を背のホルスターへ収めた。事務所を出る背中に、新橋の喧騒が押し寄せる。だが彼女の耳にはもう、アステリアから届いた「血塗られた招待状」が奏でる戦場の序曲がはっきりと聴こえていた。
「喰いタン」エルナ。
孤独な食事を終えた彼女の軍靴が、アスファルトを激しく叩き、運命の追走劇を開始した。




