第36話:発酵の監獄。廃倉庫に眠る「百年味噌」と、犯人の歪んだ包丁さばき
第36話:発酵の監獄。廃倉庫に眠る「百年味噌」と、犯人の歪んだ包丁さばき
二〇二六年七月二四日。
横浜港の最果て、海鳥さえも寄り付かない錆びついた倉庫街。そこには、潮風とは明らかに異なる、重く、粘り気のある香気が漂っていた。
エルナとハンスは、第十七号倉庫の前に立っていた。
「……ハンス。聴こえるか。この扉の向こうで、何万という命が、蠢きながら低い唸り声を上げているぞ」
「御意。……これは発酵の音です。数十年、あるいは百年という時間をかけて変貌を遂げてきた大豆たちの溜息です」
ギィィィ……。
重い鉄扉を開けた瞬間、押し寄せてきたのは、視界が歪むほど濃厚な「赤」の匂い。巨大な木樽の列。大陸から持ち込まれ、忘れ去られた秘伝の豆板醤——通称「百年味噌」が、黒ずんだ表面の下で命を繋いでいた。
エルナは鉄の菜箸で樽を軽く叩いた。
——コン……。
戻ってきた音は、深い海の底を打つような、逃げ場のない残響だった。
「司法解剖で見つかった味噌の正体はこれだ。この光さえも飲み込む重低音。……犯人は、この『監獄』で張に最後の晩餐を振る舞ったのだな」
二人は倉庫の奥に、不自然な調理場を見つけた。使い込まれた中華まな板の表面には、憎悪を刻み込んだような無数の傷跡。
「……ハンス。このまな板の音を再現しろ」
ハンスは現場の錆びた中華包丁を手に取り、空中でその動きを模倣した。
——トントン……トトントンッ、ガツッ!!
不規則で、粘りつくような打撃音。熟練の料理人が刻むカノンではない。焦燥と憎悪が入り混じった、歪な追走曲。
「右腕の力が不自然に強く、一打ごとに呪いのような溜めがある。……ハンス、このリズムは?」
「……一流の道を閉ざされ、闇の賭博場で『負け犬の料理』を作り続けてきた者の執念の響きです。右腕の古傷が、拍動を狂わせている」
エルナはまな板の深い溝をなぞった。
「張は、この麻婆豆腐を一口食った瞬間、気づいたはずだ。自分を殺しに来たのが、かつて自分が切り捨てた『過去』そのものであることに」
その時、天井近くのキャットウォークから、微かな金属音が響いた。
——キィィィィィ……。
「そこにいるな、不協和音の主よ。貴殿の作った麻婆豆腐、味のバランスは完璧だったが……隠し味に混ぜた『復讐』という名のスパイスが、あまりにもうるさすぎたぞ」
影の中から、片腕を不自然に吊った一人の男が姿を現した。狂気に満ちた瞳。
「……喰いタンか。……俺の味噌の音が、そんなに気に入ったかよ」
発酵の監獄の中で、ついに「音を失った料理人」と、すべてを聴き取る「騎士」の対決が幕を開けようとしていた。




