第35話:未完の麻婆豆腐と、胃袋のダイイング・メッセージ
第35話:未完の麻婆豆腐と、胃袋のダイイング・メッセージ
二〇二六年七月二三日、早朝。
横浜港、大桟橋のほど近く。潮騒とカモメの声が響く埠頭の一角に、不釣り合いな黄色い規制線が張られていた。
遺体となって発見されたのは、中華料理店『龍星居』のオーナー、張。胸部を鋭利な刃物で一突きされた、鮮やかな殺しだ。
「……ハンス、聴こえるか。この死体、死んでなお、強い未練を叫んでいるぞ」
エルナは、横浜署から提供された司法解剖の記録を鋭い眼光で見つめていた。
「御意。……胃の中から検出されたのは、未消化のネギ、豆腐、ひき肉、そして特殊な味噌。状況から見て、殺害の直前に麻婆豆腐を摂取したことは間違いありません。ですが……」
「……ああ。おかしいのだ、ハンス。張は界隈でも指折りの料理人。なぜ死の直前に、これほどまでに情念の塊のような一皿を食した? それも、ライバル店のどれとも一致しない、孤独な音がする」
エルナは鉄芯入りのマイ箸を指先で弄んだ。一般的な豆板醤の軽やかな響きではない。もっと深く、暗く、大地を這うような発酵の残響。まるで百年続く地下室で眠らされていたかのような、不気味な重低音。
「ハンス。……この味噌の『拍動』、どこかで聴いた覚えがないか?」
「……! 姫、もしや。新橋の駅前で聴いた、あの『カウントダウン』の周期と同じ……」
「そうだ。この麻婆豆腐を仕上げた者は、復讐のタイマーを刻んでいる。豆腐の甘みを殺さず、かつ唐辛子の鋭さを際立たせるこの旋律……。これは料理ではなく、殺害予告の楽譜だ」
二人の捜査は、華やかな大通りを離れ、潮風に錆びついた裏路地——「食材の墓場」と呼ばれる廃墟同然の倉庫街へと向けられた。
「横浜の警察はレシピを探している。だが私は、犯人の『怒りのリズム』を探しているのだ。張が最期に聴いた音を再現できぬ限り、真犯人の喉元には届かん」
エルナは、立ち寄った露店の前で足を止めた。包丁がまな板を叩く音。だが、そこには包丁を叩きつける「殺意のスタッカート」が混じっていた。
「……見つけたぞ、ハンス。メニューにない料理で人を送る、死の面点師の残響を」
喰いタンの五感は今、死者の胃袋が遺した「究極の難問」に挑んでいた。横浜の海風が、エルナのコートを激しくなびかせる。
「面白い。……その隠された旋律、私が最後の一滴まで啜り尽くしてやろう」




