第34話:声の復讐。暴かれた「無音のオーナー」と、秋葉原ジャンク街の追走曲(カノン)
第34話:声の復讐。暴かれた「無音のオーナー」と、秋葉原の追走曲
二〇二六年七月二〇日、午後八時。
地下三階の「アケロン」が、ハンスの放った生命の音によって崩壊を始めた。
黒いカーテンを引きちぎり、不自然な静寂を切り裂いて、一人の男が地上へと逃げ出した。秋葉原の闇を支配し、メイドたちの声を電子データとして売買していたオーナー・鏑木だ。
「……逃がさん。ハンス、追撃だ。奴の足音には、奪われた者たちの怨嗟が混じっている」
「御意。……ジャンク街の複雑な反響、すべて私の指先で解析いたします」
地上は激しい雨になっていた。ネオンの光が濡れた路面に反射し、秋葉原は電子の海と化している。鏑木は、街中に仕掛けた小型装置から逆位相のノイズを放ち、エルナの聴覚を狂わせようと画策した。
——ピーーーッ!
耳を抉る高周波。だが、エルナは懐からあの無骨な「重晶鉄の菜箸」を引き抜いた。
——ガチンッ!
二本の鉄が激突し、電子のノイズを真っ向から粉砕するアナログの衝撃音を放つ。
「ハンス、位置を聴け!」
「了解。……北北西、三〇メートル先。……生地の塊を叩くときのように、奴の心筋は今、最も『硬い』音を立てています!」
ハンスの驚異的な触覚は、空気の僅かな振動から逃亡者の筋肉の硬直までも察知していた。水たまりを蹴立てて疾走するハンス。その動きは、かつて下町の喧騒を駆け抜けて点心を配っていた頃の、野性味あふれるものだった。
ジャンク街の行き止まり。追い詰められた鏑木が、護身用の高周波ブレードを起動させた。
——ヒュゥゥゥゥン……。
一切の音を立てずに物質を分子レベルで切り裂く、不可視の刃。
「来るな! デジタル化された完璧な静寂こそが、最も高値で売れる美酒なんだ!」
エルナは動じない。彼女は鉄の菜箸を交差させ、その圧倒的な「質量」で無音の刃を真っ向から受け止めた。
——ギギギギギ……ッ!
火花が散り、菜箸を通じて鏑木の悪意が不協和音となって伝わる。
「鏑木卿。貴殿が売っていたのは静寂ではない。それは、魂から搾り取った絶望という名のノイズだ。……この一撃で、目を覚ませ!」
——ドォォォン!!
重晶鉄の菜箸が地面を叩く。地響きのような重低音が路地を揺らし、高周波ブレードの回路を物理的に粉砕した。同時にハンスが影のように背後に回り、千人の腹を満たした「面点師の手」で鏑木の自由を奪った。
ハンスが鏑木の喉元にある変声機を引き剥がした瞬間、奪われていたメイドたちの「本物の声」が、秋葉原の夜空にカノンのように響き渡った。
「……あ、あ、ああ……っ!」
己の罪の重さに耐えかね、雨の中に崩れ落ちる鏑木。それは、彼が最も恐れていた「生身の人間の叫び」だった。
雨が上がり、東の空が白み始める。二人はジャンク街の片隅にある二十四時間営業の牛丼屋へと向かった。
「……ハンス。秋葉原の闇を食らった後は、やはりこの『原点の音』が聴きたくなる」
運ばれてきた並盛りの牛丼。エルナは鉄の菜箸を置き、使い慣れた「鉄芯入りのマイ箸」で、その一杯を慈しむように掴み上げた。
——ハフッ、ハフッ。モグ、モグ……。
煮込まれた肉の甘み、玉ねぎの柔らかな食感。それは、どんなデジタル音にも変換できない、生命の確かな響き。
「美味い。……聴こえるぞ、ハンス。この一杯の中に、働く人々の鼓動が。……新橋に、帰るとしようか」
「御意。……最高の銀シャリを炊いて、お待ちしております」
秋葉原の夜が明ける。
「喰いタン」エルナの軍靴が刻むリズムは、新たな正義の旋律となって、ホームグラウンドの新橋へと向かっていた。




