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異世界姫騎士、新橋の牛丼に屈服する。――宮廷料理人と安飯の魔力  作者: 水前寺鯉太郎
新橋編

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第3話:黄金の防壁(コロッケ)と、老兵の無音(サイレンス)

第3話:黄金の防壁コロッケと、老兵の無音サイレンス

 

 新橋のビル群を抜け、迷路のような路地をわずかに進むと、空気の密度が突如として変わる一角があった。

 そこは生活の残り香、すなわち「生きるための音」が色濃く沈殿する場所——商店街。

 傾きかけた西日が、古い家屋の軒先を毒々しいまでのオレンジ色に焼き、長く伸びた影が異邦人たちを誘っていた。

「ハンス、見ろ。民たちが列を成している。……新たな儀式か? あるいは、緊急の配給を待つ絶望の行列か」

 姫騎士エルナが、警戒を解かぬ鋭い視線で指さしたのは、色褪せた暖簾に『精肉店』と掲げた一軒の店だ。店先には、狐色に輝く円盤状の何かが、勲章のように誇らしげに積み上げられていた。

「いいえ。あれは……『歓喜』の爆ぜる音です。それも、極めて鮮度の高い」

 料理人ハンスの耳は、街のノイズを濾過し、店内の奥から響くその戦囃子いくさばやしを正確に捉えていた。

 ——ジャァァァァッ!!

 それは激しい雨が乾いた石畳を叩くような、あるいは軍馬の集団が砂塵を巻き上げて疾走するような猛烈な音だった。

「エルナ様、あの音を聞いてください。素材が油という過酷な戦場に投入された瞬間の咆哮です。水分が爆縮し、旨味を衣の内側に封じ込める……。あの音の高低、気泡の弾ける周期から察するに、油の温度は正確に百度後半を維持。一分の隙もない、完璧な熱管理です」

 ハンスは陶酔したように目を細めた。だが、彼が真に驚愕したのは、その激しい音を操る老店主の佇まいだった。

 自転車のベル、主婦たちの喧騒、電光掲示板のノイズ。街が混沌に満ちる中、揚げ鍋の前に立つ店主の周囲だけは、真空のような「無音」が支配していた。

 タイマーすら使わず、ただ菜箸の先から伝わる微かな振動だけで、揚げ上がりの一瞬を読み取っている。

(……熟練の暗殺者が、刃の重みで獲物の命を悟るように。あるいは、名工が槌の反響で鋼の鍛えを見極めるように。あの老人は、音と振動だけで中心部までの熱伝導を確信している!)

 ハンスは、名もなき街の肉屋が持つ技術の深淵に、背筋を正した。宮廷の礼法よりも厳格な、長年の経験だけが成し得る無音の対話。

「お待たせ。揚げたてだよ」

 無造作に渡されたのは、薄い経木きょうぎに包まれた一個のコロッケ。

「ひゃ……百円だと? 鉄屑一枚か。ハンス、これは算術の過ちではないのか」

「いいえ、エルナ様。これがこの国の……『豊かさ』という名の暴力です」

 エルナは、手の中に伝わる暴力的な熱量に震えながら、その端を小さく噛みちぎった。

 ——ザクッ。

 その音は、これまでのどの食事よりも鮮明で、軽やかだった。

 黄金の衣が砕け、結晶化した粒子が弾ける音が鼓膜を震わせる。その防壁が突破された直後、内側から溢れ出したのは、雪のように白いジャガイモの抱擁だった。

「……っ! ハンス、これは……柔らかい。この衣という名の硬質な拒絶バリアの内側には、なんと慈悲深い世界が広がっているのだ……」

 

 脳裏に、祖国アステリアの食卓が浮かぶ。

 石のように硬い黒パンを、顎を痛めながら咀嚼する重苦しい沈黙の味。あれは「栄養の摂取」という名の苦行に過ぎなかった。

 だが、この国の揚げ物は違う。外側の峻烈な拒絶と、内側の圧倒的な肯定。それがたった百円の「鉄屑」の中で共存している。

「ハンス、貴様も一口……いや、この一片ひとかけを。この平和の破片を、その舌に刻んでおけ」

 エルナは、衣がほんの少し残った端の方を、ハンスへと差し出した。

 ハンスは震える手でそれを受け取り、神の遺物でも扱うかのように厳かに口へ運ぶ。

「……ッ。この咀嚼音……肉の繊維の間に潜む、ジャガイモの粒子が崩壊する微細な摩擦音。エルナ様、これは単なる芋の塊ではありません。保存性を維持しつつ食感を最大化させる、戦術的な配合です。この一個に込められた兵站ロジスティクスは、我が国の国庫を傾けるほどの価値がある……!」

 二人は、夕闇の迫る商店街の中で立ち尽くした。

 かつて、国を追われる夜に聞いたのは、城壁が砕ける絶望の音だった。

 だが今、彼女の耳を満たしているのは、軽やかな衣の砕ける音と、平和を呼吸する民たちの柔らかな喧騒。

「ハンス、次だ。あの隣の店から聞こえる、カツ、カツ、という鋭い打撃音……あれは、魚の骨を断つ音か?」

「お目が高い。あれは鮮魚店……包丁という名の聖剣を振るう、もう一人の老将の居城です」

 エルナは満足げに頷き、夕闇の商店街へと力強く踏み出した。

 揚げ物の高音、包丁の打撃音、笑い声、足音。

 それら全てが重なり合い、アステリアの軍楽隊よりも壮大な「平和の交響曲シンフォニー」を奏でていた。

 店主の振るう、油の跳ねる高い音を、最高の凱歌として背中に聴きながら。

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