第28話:真空の回廊と、暗闇の「咀嚼レーダー」
第28話:真空の回廊と、暗闇の「咀嚼レーダー」
二〇二六年七月一九日、午前二時。
歌舞伎町の外れに立つ、窓一つない雑居ビル。その鉄扉を開けた瞬間、エルナの耳は強烈な違和感に襲われた。
「……ッ、ハンス。聴こえるか。このビル、空気が死んでいる」
一歩足を踏み入れた途端、外の喧騒が嘘のように断絶された。高性能の遮音スポンジと厚手のカーペット。自分の呼吸音さえもが、何者かに盗まれているような不気味な感覚。
「御意。……音響工学に基づいたデッド・スペースです。ですが姫、それだけではありません」
ハンスが指摘した直後、エルナの耳の奥を、キィィィンという刺すような高周波が襲った。指向性スピーカーによる、三半規管を揺さぶる超音波の罠だ。
「……ぐ、っ。三半規管の音階が狂う……」
「これをお飲みください。強炭酸とレモンの強烈な刺激、そしてアステリア産の秘薬を調合しました。感覚を『外側から』強制リセットします」
——グイッ。
喉を通る強烈な刺激。バチバチと弾ける泡の音が、脳内のノイズを洗い流していく。視界が晴れたエルナは、懐から「それ」を取り出した。極厚切りのポテトチップス——ハード・クランチ。
——バリッ……。バリボリ……!
死んだように静まり返ったビル内に、暴力的なまでの破砕音が響き渡る。
「……反射が戻ってきたぞ。三階の奥、右側。そこだけ私の咀嚼音が吸い込まれずに跳ね返ってくる。……そこに、音を通さない『金属の檻』があるはずだ」
二人は階段を駆け上がった。エルナはあえて、カーペットを強く踏み鳴らす。
「聴こえたぞ。奥の部屋で、誰かの心拍数が急激に跳ね上がった音だ。恐怖のスタッカートを刻んでいる……そこだな!」
——ドンッ!!
エルナの回し蹴りが扉を粉砕した。部屋の中には防音ヘッドホンを装着した男たちと、檻に閉じ込められた女子大生。
「な、何だお前らは!? どこから……」
「……その不快な音、私の前で鳴らすな」
シャキィィ……と男の一人がナイフを抜く。エルナは最後の一片を飲み込むと同時に、影のように踏み込んだ。彼女の振るった黒檀の箸が、男の腕の神経を正確に「打ち抜く」。
「……貴様たちの静寂は、この食欲の咆哮の前では無力だ!」
——ガチャン!!
ハンスが檻を破壊し、少女を救出する。震える声で零された「助けて」という言葉。
「……聴こえる。それが、この街で最も尊い旋律だ」
ビルを出ると、明け方の空にパトカーのサイレンが響き渡っていた。それは日常のノイズが、死の静寂を打ち破って戻ってきたことを告げるファンファーレだった。
「……ハンス。腹が減ったな。この陰気な無音を消し飛ばすような、熱くて、うるさい飯を頼む」
「御意。……高田馬場あたりで、油の弾ける音が心地よい『特大とんかつ』などいかがでしょうか。サクサクと衣が鳴る、勝利の音を味わいましょう」




