第27話:スパイスの盾(ダージーパイ)と、眠らない街の残響
第27話:スパイスの盾と、眠らない街の残響
二〇二六年七月一八日、深夜。
新宿・歌舞伎町。ここは、音の墓場だ。
ビジョンの爆音、キャッチの呼び込み、空虚な笑い声。あらゆる音が無秩序に混ざり合い、一つの巨大なノイズとなって真実を覆い隠している。
「……ハンス。この街は、新橋よりもさらに胃もたれがするな」
エルナは、雑踏の真ん中で立ち止まっていた。彼女の右手には、顔を覆わんばかりの黄金色に輝く巨大な揚げ鶏——ダージーパイが握られている。五香粉の刺激的な香りが、周囲の淀んだ空気を真っ向から切り裂いていた。
「……エルナ様。その一枚、およそ一,〇〇〇キロカロリー。潜入捜査の熱源としては十分すぎます」
——ザクゥッ!!
エルナが端を豪快に齧り取った。タピオカ粉の衣が放つ「ザクザク」という硬質な音。その直後、閉じ込められていた肉汁がジュワッ、と溢れ出す。
「美味い。このスパイスの刺激、神経が沸騰するようだ。ハンス、咀嚼音を基準音にするぞ」
エルナは、自らの顎が鳴らす一定の打撃音を「物差し」として、街のノイズを精緻にフィルタリングし始めた。その時だ。喧騒の真っ只中、半径一メートルほどの範囲だけが不自然に凪いでいるポイントを、彼女の耳が捉えた。
「……ハンス。あそこだ。あの少女たちの周囲だけ、音が『不自然に反射していない』」
地雷系ファッションの少女たちに近づく。彼女たちが持つスマホからは、特定の方向にだけ音を飛ばす「指向性スピーカー」による超高周波のキャンセラー音が発せられていた。それが、新聞記事で感じたあの異常な「静寂」の正体——音を打ち消す物理的な壁だった。
「おい、そこの君たち。この写真の娘について、その『音の壁』の内側で何を話していた?」
「は? ……つーか、その鶏、デカすぎ。ウケる」
キャハハ、という嘲笑。だが、エルナの耳は、彼女たちの喉の奥で鳴った「ヒッ」という短い吸気音を逃さない。
「……嘘だな。君たちの鼓動、今、一拍だけ音階が下がったぞ。そのデバイス、誰に渡された?」
ザクッ、モグモグ……。
エルナがダージーパイを噛み砕く音は、今や彼女たちにとって、逃げ場を塞ぐ断罪のドラムに聞こえていた。
「姫、三時の方角。路地裏に消えた男。……消音材が貼られた靴の音ですが、摩擦係数がこの街の平均値から逸脱しています」
「……逃がさん。このスパイスの熱気が冷めぬうちに、あの男を『音の袋小路』へ追い詰めるぞ」
エルナは、残りのダージーパイを最後の一口で飲み込んだ。
——ゴクリ。
力強い嚥下音。それは、歌舞伎町のあらゆる欺瞞を食らい尽くし、真実へと突き進むための完了の合図だった。軍靴がネオンの海を蹴り、無音を装う男の背中を追って鋭いリズムを刻み始める。
「新宿……。お前の静寂ごと、私が最後の一骨まで噛み砕いてやろう」




