第26話:白い蒸気の結界と、消えた「音」の行方
第26話:白い蒸気の結界と、消えた「音」の行方
二〇二六年七月一五日。
横浜での「寿司の騒乱」から数日。エルナとハンスは、新橋の古びたアパート——通称「アステリア探偵事務所」の食卓にいた。
——シュゥゥゥ……ッ!
キッチンからは、蒸し器が上げる力強い音が響いている。ハンスが横浜から持ち帰った「特製中華まん」。それを、彼は王宮の儀式にも似た手際で、最適な温度の蒸気へと送り込んでいた。
「ハンス。……横浜の土産が、これほどまでに重厚な音を立てるものだとはな」
「お待たせいたしました。……横浜が誇る、純白の要塞です」
ハンスが運んできたのは、皿の上にうず高く積まれた中華まんの山だった。エルナが一つ、手に取る。
——パカッ……。
半分に割った瞬間、閉じ込められていた熱気がフワッ、と弾け、濃厚な醤油と肉の脂、そして椎茸の香気が、結界のように事務所を満たした。
「……聴こえるぞ、ハンス。この餡の中で、肉汁が生地に染み込んでいく『じゅわり』という微かな震えが」
——ハフッ、ハフッ……。モグ、モグ……。
熱々の餡を頬張るエルナ。生地のふわふわと、筍のシャキシャキが、口内で重層的な打楽器のセッションを奏でる。横浜での不快な事件の味を、この圧倒的な「白」が上書きしていく。だが、三つ目の中華まんに手を伸ばそうとしたエルナの指が、新聞の一角で止まった。
『新宿・納涼祭目前、女子大生が謎の失踪——防犯カメラから消失』
「……ハンス。この記事、音がしないぞ」
「音がしない、とは?」
「事件の記事には通常、周囲の悲鳴や、犯人の殺意が、インクの裏側に滲んでいるものだ。だが……この記事には、あまりに不自然な静寂がある。まるで、世界からその部分だけが消しゴムで消されたような音だ」
エルナの聴覚が、新聞の活字の向こう側にある異常な「無音」を捉えていた。その時、窓の外、新橋の駅前広場から祭りの練習をする太鼓の音が響いた。
——ドンッ、ドコドンッ!
勇壮なリズム。だが、エルナの耳は、その太鼓の音に重なるようにして、数秒おきに刻まれる「別の音」を拾い上げた。
——ピッ……。
「……! ハンス、聴こえたか。太鼓の打撃音の裏側。これは、立ち食い蕎麦屋で聴いたあの『カウントダウン』と同じ周波数だ」
「ええ、姫。新宿での失踪事件と、新橋で刻まれるこの不吉な電子音……どうやら無関係ではなさそうです」
カチッ。
ハンスが蒸し器の火を止めた。事務所に、急激な静寂が戻る。
「……猫探しでも、汚職調査でもないな。これは、この国の闇が産み落とした、巨大な穴の音だ。ハンス、残りの中華まんはすべて蒸しておけ。……この静寂を暴くには、相当なカロリーが必要になる」
「御意。……既に、この街を震撼させるほどのエネルギー(肉まん)を投入いたしました」
最後の一口を力強く咀嚼し、飲み込んだ。
——ゴクリ。
新橋の夕暮れ。立ち昇る白い湯気の向こう側で、エルナの瞳は既に、新宿の喧騒の中に潜む「音のない怪物」を射抜いていた。
「喰いタンの出番か。……面白い。その静寂もろとも、私がいちばん旨い順に食らい尽くしてやろう」




