第25話:硝煙のオフィスと、震える「右袖」
第25話:硝煙のオフィスと、震える「右袖」
二〇二六年七月一二日。
「証拠不十分」という建前、そして警視庁・山本警部からの強力な外圧により、エルナは横浜水上署の留置所から解放された。
——フゥ……。
署の廊下に出たエルナを待っていたのは、潮風を含んだ重苦しい空気だった。
「エルナ様、ご無事で」
「ハンス。……あの不協和音の主は、まだこの建物の中にいるな?」
「はい。……私の耳には、四階の捜査第一課から、恐怖を押し殺した浅い呼吸が聞こえてきます。不規則なその拍動、もはや隠し通せるものではありません」
エルナは、周囲の制止を無視して四階へと足を進めた。軍靴が磨き上げられたリノリウムを、コツ、コツと叩く。それは逃げ場を失った犯人の鼓動を追い詰める、騎士の宣告だ。
「……神奈川県警、佐久間警部補。貴殿に、少しばかり『味の感想』を伝えに来た」
エルナが立ち止まったのは、窓際のデスクで書類を捲っていたベテラン刑事の前だった。
「……何の真似だ、新橋の探偵さん。ここは遊び場じゃない」
——カチッ。
佐久間がペンを置く音。だが、エルナの耳はその裏側にある、彼の右袖がデスクと擦れる「カサッ……」という僅かな震えを逃さなかった。
「佐久間卿。貴殿のスーツは実に見事だ。だが……」
エルナは、懐から「それ」を取り出した。ハンスのミートパイに隠されていた、あのカフスボタンの破片だ。
「……右袖のボタンが、僅かに欠けているな。新調したばかりの逸品のようだが、あの山下邸の中トロの中に、その欠片を忘れてきたのではないか?」
周囲の刑事たちの動きが、一瞬で凍り付いた。パシャッ、とハンスがタブレットに証拠写真を提示する。現場の中トロから救い出した破片、ハンスが拾った破片、そして佐久間の袖口に残った傷跡——。
「……ふん。中トロを食った不審者の妄言か? そんなものが証拠になると思うな」
佐久間が冷笑する。だが、その声の周波数は、既に絶望の域に達していた。
「佐久間卿。貴殿は山下氏を絞め殺した後、自らの勝利を祝してあの寿司を摘んだな。だが、貴殿は焦っていた。死体の傍らで咀嚼する音に、己の良心の呵責という名のノイズが混ざり、奥歯を強く噛み締めた。その衝撃が、袖のボタンを弾き飛ばし、運悪く中トロの身に沈み込ませたのだ」
エルナは一歩、踏み込んだ。
「私は、その『焦燥の味』を食った。貴殿の罪は、この胃袋が、そして騎士の耳が、一音残らず記憶している!」
「……あ、ああ……っ」
佐久間の指先からペンが滑り落ち、カラカラ……と虚しく床を転がった。それは、彼が築き上げてきた偽りの正義が完全に崩壊した音だった。
「連れて行け。……同じ音を立てる場所へな」
山本警部の声が入り口から響いた。いつの間にか、警視庁の捜査員たちがフロアを制圧していた。
「……ハンス。横浜の事件は、酷く不快な脂の味がしたな」
「はい、エルナ様。……ですが、真実という名のスパイスは、存分に抽出できたようです」
夕暮れの横浜署。パトカーの赤灯が、港の夜を赤く染め始める。
「喰いタン」エルナの軍靴は、今度は勝利の一拍を刻みながら、潮騒の街を後にして新橋へと向かう。
「……さあ、帰るぞ、新橋へ。今夜は、混じり気のない白い飯が食べたい」
「御意。……アステリアの雪原のように、清らかな銀シャリを用意しましょう」
不協和音は去り、横浜の海には、ただ静かな波の音だけが戻っていた。




