第23話:波止場の不協和音と、禁断の「一貫」
第23話:波止場の不協和音と、禁断の「一貫」
二〇二六年七月八日。
海からの湿った風が、横浜・中区の高級住宅街を吹き抜けていた。不動産業を営む山下という男が、自宅の書斎で絞殺された。山本警部からの密報によれば、山下は「新橋の再開発」の闇に深く関わっていた男だという。
「……ハンス、ここが横浜か。新橋とは空気の音階が違うな」
「ええ、エルナ様。潮騒の重低音が、都会の刺々しいノイズを低く抑え込んでいるようです。……ですが、この静寂は、排他的な響きを含んでいます」
現場の山下邸。そこには、神奈川県警の精鋭たちが鉄のカーテンのごとく規制線を張っていた。
「おい、そこ。一般人は立ち入るな!」
「私は、新橋の山本警部の……」
「新橋? 警視庁の権限など、この『王国』では通用せん。帰れ!」
神奈川県警の拒絶。それは、新橋署の面々がエルナに向けていた親愛混じりの呆れ声とは、決定的に質の異なる冷徹な破裂音だった。
「……正面突破は愚策か。ハンス、プランBだ」
「御意。……厨房側の勝手口、清掃業者が扉を閉める際の『金属の遊び音』を捉えました。三秒、隙が生まれます」
エルナは、騎士団長時代に培った隠密行動の理を発動させた。
——サッ……。
風が木々を揺らす音に足音を同期させ、警官の視線が外れる一瞬の空白を突く。彼女の軍靴は、もはや吸音材のように無音。書斎の扉をスッ、と開け、エルナは死の静寂が支配する現場へと滑り込んだ。
争った形跡はない。だが、デスクには出前の高級寿司が置かれていた。
——カチッ、カチッ……。
鑑識の焚くフラッシュが、死神の瞬きのように繰り返される。エルナは、遺体よりも先に、寿司桶から漏れ出す不協和音に耳を澄ませた。
(……この寿司は、死んでいる。ネタが乾き、シャリの水分が失われ、放置された『絶望の音』がする。だが……この一貫だけが、まだ僅かに息をしている)
桶の隅に残された中トロ。表面の脂が室内灯を反射し、まるで見つけてくれと言わんばかりにエルナを誘惑していた。
「……毒味は、騎士の義務だ」
——パクッ。
「……ッ!?」
口内で濃厚な脂が爆ぜる。だが、彼女が捉えたのは味だけではなかった。
——ジャリッ……。
中トロの身の奥に、何か硬質な「金属の軋み」が潜んでいた。
「貴様! 何をしている!!」
背後で、雷鳴のような怒号が響いた。神奈川県警の若手刑事が、血相を変えてエルナの腕を掴む。
「現場の証拠品を食ったのか!? 狂ってるのか!」
「放せ。私は今、重要な証拠を……モグ、モグ……物理的に回収したのだ」
「署まで来てもらおうか、この喰い倒れ不審者め!」
——ガチャン!
手首に嵌められた銀色の輪。冷たく重い、自由を奪う音。
「エルナ様ーっ!!」
遠くでハンスの悲鳴が聞こえる。エルナは左右を固められ、パトカーへと連行されていく。だが、彼女の瞳に絶望はない。口の中に残る、あの「ジャリッ」とした感覚。
(……魚の骨ではない。これは精密機械の……カフスボタンに仕込まれた『集音マイク』の破片か)
——ピーポー、ピーポー……。
けたたましいサイレンを鳴らし、パトカーが横浜の街を疾走する。
「喰いタン」ことエルナの横浜デビューは、「現行犯逮捕」という最悪の開幕となった。だが、彼女の脳内では既に、真実への方程式が中トロの余韻と共に組み立てられ始めていた。
「……ハンス。今夜は、警察署の冷えたカツ丼でも頂くとしようか。……この街の『音』、存分に味わってやる」
車窓を流れる港の灯りを見つめながら、エルナは不敵に微笑んだ。




