第21話:紅の浄化(ベニショウガ)と、再起の咆哮
第21話:紅の浄化と、再起の咆哮
二〇二六年六月一〇日。
新橋を数日間濡らし続けた雨は明け方には嘘のように上がり、湿ったアスファルトが朝日を反射して眩しく光っていた。
「……終わったな、ハンス」
「はい、エルナ様。……長き戦いでした」
事情聴取を終え、エルナとハンスは新橋の駅前を歩いていた。軍靴が乾いた地面をコツ、コツと叩く。その音は、あの日現場で聞いた泥濘の音とは違い、硬く、確かな生命の鼓動を宿していた。
二人の足は、自然と「あの場所」へと向かっていた。オレンジ色の看板。二十四時間、一度も灯を消すことなく新橋を見守り続ける聖域——『吉野家』。
——カチャ、カチャ……。
磁器の丼が触れ合う軽快な音。
——ジュゥゥ……。
奥の厨房で肉が煮込まれる、穏やかな重奏。
あの取調室の、息詰まるような沈黙とは正反対の「生きた音」がそこには満ちていた。すると、カウンターの隅から見覚えのある大きな背中が立ち上がった。山本警部だ。
「山本卿……。貴殿もここに?」
「……ああ。大きなヤマを越えた後は、ここの『音』を聴かないと、日常に戻れなくてな」
山本は少しだけ目を細め、自分の丼を見つめた。
「俺がまだ新米だった頃、初めてホシを挙げた日もここだった。……あの時、亡くなった被害者の父親が、震える声で俺に『ありがとう』と言ったんだ。その声が、今でもこの牛丼を啜るたびに、脳裏でカチリと鳴る。それが俺の警察官としての原点なんだよ」
山本の告白を、エルナは静かに聴いていた。彼もまた、音に導かれて正義を貫いてきた一人なのだ。
「ハンス。……牛丼、頭の大盛りを二つ。それと玉子だ」
運ばれてきた丼。エルナは卓上の容器を開け、トングを握った。
——シャキ、シャキ……。
鮮やかな紅生姜。彼女はそれを、丼の半分を覆い尽くすほどに盛り付けた。かつて戦場で、勝利の後に己の汚れを払うための「禊」の儀式があった。今のエルナにとって、この酸味の効いた赤は、心にこびりついた不快なノイズを洗い流すための、聖なる色彩だった。
「いただきます」
——ハフッ、ハフッ……。
エルナが、一気に肉と飯を掻き込んだ。柔らかく煮込まれた肉の脂が溶け、紅生姜の刺激が鋭く舌を叩く。
——ゴクリ。
喉を鳴らした瞬間、胸の奥に沈殿していた重い塊が、熱い米と共に胃の腑へと落ちていくのがわかった。
(……そうだ。この味だ。一食数百円の、誰もが平等に手に取れるこの温もり。この当たり前の日常を守るために、私はあの獣を断罪したのだ)
「……姫。玉子の黄身が混ざり合うこの音。……これは、混沌を調和に変える和解の旋律ですね」
店内に流れるラジオのニュース。犯人の送検を告げる無機質なアナウンスも、今の二人には、日常を構成するノイズの一部として平穏に聞き流すことができた。
店を出ると、新橋の駅前は通勤客たちの足音でザッ、ザッ……と活気づいていた。
「山本卿。……貴殿の原点の音、確かに預かった」
「……ああ。お前さんたちの軍靴の音も、なかなか頼もしいぜ」
山本は小さく手を振り、雑踏の中へと消えていった。
エルナは、青く澄み渡った空を見上げた。六月の風が、紫陽花の香りを運んでくる。
「ハンス。……次は、どんな音が私を呼ぶだろうな」
「どんな音が鳴ろうとも、この腹の充足があれば、我らは不滅です」
姫騎士探偵エルナと、料理人ハンス。
二人の日本留学記は、牛丼の熱い余韻と共に、また新しい、少しだけ静かな頁を捲ろうとしていた。
隣を歩くハンスが、夕飯の献立を思案して小さく鼻歌を漏らすのを、最高の伴奏として聴きながら。




