第20話:共鳴する殺意と、雨音の弾劾
第20話:共鳴する殺意と、葬送の白
二〇二六年六月九日。
新橋駅前の雑居ビル。仮初めの事務所には、重苦しい湿気と、ハンスが淹れた苦いだけの珈琲の香りが停滞していた。
「……山本警部。状況は?」
エルナが受話器を握る。
『……最悪だ。男は依然として「わからない」の一点張り。通訳を介しても、文化の壁を盾に話を逸らされる。上層部からは、これ以上の拘束は国際問題に発展しかねないと圧力がかかっているんだ』
電話の向こうで、山本の拳が机を叩く——ゴン! という鈍い音が響いた。この国では、幼い命の叫びよりも、外交上の体裁という「ノイズ」が優先されるのか。
「……ハンス。準備を。この街の警察が耳を塞ぐというのなら、私が直接、奴の魂を震わせてやる」
山本の手引きで、エルナは「特別通訳」という名目で取調室の、鏡一枚隔てた監視室に滑り込んだ。マジックミラーの向こう側、男は退屈そうに貧乏ゆすりをしている。
——カタ、カタ、カタ……。
その規則的な、だが苛立たしいリズム。エルナは目を閉じ、男が発する微細な振動を解析した。
(……聴こえるぞ、ハンス。奴は心の中で、あの日の現場で流れていた雨の音を反芻している。自分が蹂躙した瞬間の高揚感を……今も、この静寂の中で噛み締めているのだ)
エルナは監視室のマイクを掴んだ。彼女が発したのは、言葉ではない。アステリア王国に伝わる、罪人の鼓動を狂わせる古の聖歌の旋律。
「————……」
低い、唸るようなハミング。その周波数は、男が脳内に隠し持っている「殺意の残響」と完璧に共鳴した。
「ッ!?」
男の貧乏ゆすりが、ピタリと止まる。呼吸がヒュッ、と鋭く引き攣った。
「……驚いたか? お前の沈黙の歌を、私の耳が捉えられないとでも思ったか」
監視室からエルナが放つ「音」が、取調室の空気を震わせていく。それは、男が隠し通せると信じていた暗い記憶を、強制的に引き摺り出す騎士の弾劾であった。
「アァ……アァァ……!!」
ついに、男が頭を抱えて叫んだ。「わからない」という言葉の盾が、真実の音によって粉々に砕け散った。エルナは静かにマイクを置き、監視室を出た。
——ザァァァ……。
窓の外では、まだ雨が街を濡らしている。だが、混じっていた不協和音は、今、完全に断罪された。
その夜。アパートに戻った二人は、一言も発さなかった。
ハンスがキッチンに立ち、音もなく用意したのは、真っ白な「豆腐の点心」だった。
——シュゥゥゥ……。
蒸し器から上がる白い湯気だけが、部屋の重苦しい空気を洗っていく。アステリアでは、清浄な魂を弔う際、色のない食事を摂る習わしがある。
ハンスが差し出したのは、雲のように柔らかな豆腐の真丈。その上には、一欠片の生姜も、醤油の彩りもない。ただ、素材の純粋な白さだけがそこにあった。
「……ハンス」
「……はい。何も言わず、お召し上がりください」
エルナは黒檀の箸で、その白い塊を口に運んだ。
——ハフッ。
噛みしめる音すらしない。ただ、温かな熱量が、冷え切った胃の腑にじわりと広がっていく。
(……少女の、ピアノの音。それはもう戻らない。だが、この白さが、彼女の魂を包む雪であってほしい)
二人は、雨音だけを聴きながら、静かに、ただ静かに「白」を咀嚼した。
カチッ。
エルナが箸を置く。その音は、これまでの戦いの音とは違う、深い哀悼を込めた終止符だった。
「ハンス。……明日から、またこの街の音を聴きに行こう。……小さな音が、二度と踏みにじられないように」
「御意。……最高の火加減で、支え続けましょう」
新橋の夜。
パトカーのサイレンが、いつもより高く、澄んだ音で鳴り響いていた。
それは、失われた小さな魂を天へと見送る、弔いの調べのように。




