第19話:異邦の咆哮と、拭えぬ朱(あか)
第19話:異邦の咆哮と、拭えぬ朱
二〇二六年六月八日。
事件から一夜明けても、新橋の街を濡らす雨は止まなかった。
——ザァァァ……。
重く垂れ込めた雨音が、犯人の逃走経路を、そして幼い少女が最後に流した涙の跡を、無慈悲に塗りつぶそうとしている。
エルナは、山本警部から共有された取調室の録音データに耳を澄ませていた。捜査員の追及に対し、男は「わからない」と繰り返す。だが、その合間の、ごく僅かな空白。
「…………フフ、ン……」
男が、鼻歌のような微かなハミングを漏らした。
エルナの背筋に、氷のような戦慄が走る。それは、祖国アステリアの伝承に登場する、生贄を捧げた後の「狂神の歌」の音階と酷似していた。
「……ハンス。この男、沈黙という名の防御壁(盾)を使い、この国の法をあざ笑っている」
「ええ、姫。ですが、盾があるということは、その裏側に隠したい『素の声』があるということ。……私の用意したこれ(スパイス)が、その壁を内側から爆砕するでしょう」
二人は、男が現場検証のために引き出された、あの雨の高架下へと向かった。
現場は、規制線の向こうで重苦しい静寂に包まれている。そこへ、手錠を打たれた男が連行されてきた。男は虚ろな目をし、依然として「言葉が通じない」振りを装っている。
「……山本卿。奴を少しの間、私に預けろ」
山本の苦渋に満ちた沈黙。それは、警察官としては許されぬ「黙認」だった。
エルナは男の前に立った。雨音に紛れ、ハンスが男の鼻先に、特製の「自白剤」を染み込ませた布を掠めさせる。
——スッ……。
男の鼻腔を、目に見えぬ「熱」が襲った。胃の腑を焼き、理性の栓を強制的に引き抜く、極北の毒性。
「……う、あ……ッ」
男の呼吸が乱れる。その時、エルナは懐から「あの物」を取り出した。現場に落ちていた、トイピアノの鍵盤だ。
——ポーン。
エルナが指先で鍵盤を叩く。雨音を切り裂き、泥に汚れたプラスチックが、幼い少女の無垢な音を奏でた。
「聴こえるか、汚れた獣よ。貴殿が踏みにじった、清らかな『ピアノの音』だ」
——ポーン、ポーン。
繰り返される音。ハンスの毒によって感覚を研ぎ澄まされた男にとって、その音はもはや美しい旋律ではなかった。それは、自らの魂を切り裂く、鉄の杭の音として響いていた。
「……やめろ、聴かせ、るな……ッ!」
男の口から、流暢な「この国の言葉」が、悲鳴となって溢れ出した。偽りの沈黙という盾が砕け、彼の喉の奥から、醜悪な真実が引き摺り出されていく。
「……ああ、そうだ! あのガキが泣き叫ぶ音は、最高の楽器だったよ! それを消してやったんだ、俺が!」
——ドォォォォン!
雷鳴が轟いた瞬間、エルナの軍靴が泥水を爆ぜさせた。
彼女は男の胸ぐらを掴み、その耳元で、かつて戦場で敵軍を戦慄させた「戦士の咆哮」を叩きつけた。
「——貴殿のその汚れた声。二度とこの街のノイズに混じることすら、私が許さん」
男の瞳に、初めて「恐怖」という音の色が宿った。
エルナの瞳には、かつての戦場以上の、苛烈な朱が宿っている。
「山本警部。……授業の続き(自白)を。あとは貴殿の国の、法という結界の中で、この怪物を朽ちさせてくれ」
エルナは泥に汚れた鍵盤を、そっとランドセルの上に返した。
六月の雨。紫陽花が、散りゆく瞬間の微かな「落下の音」を立てている。
姫騎士探偵エルナの軍靴の音は、再び「コツ、コツ」と、冷徹な秩序のリズムを取り戻していた。
だが、その背中に降り注ぐ雨は、彼女の心に刻まれた「朱」を、決して洗い流すことはできなかった。




