第18話:紫陽花(あじさい)の涙と、鉄の沈黙
第18話:紫陽花の涙と、鉄の沈黙
二〇二六年六月。
新橋の街は、低く垂れ込めた雨雲と、逃げ場のない湿気に包まれていた。エルナの探偵事務所(二DKのアパート)に舞い込む依頼は、ここ数週間、平和すぎるものばかりだった。
——チリン、チリン……。
今日もまた、迷子になった飼い猫の首輪が鳴らす、頼りない鈴の音を追って一日が終わる。
「ハンス。……平和なのは良いことだ。だが、この街の空気は、何かが腐敗し始めているような、嫌な重さを含んでいる」
「ええ、姫。……嵐の前の静けさ、というやつかもしれません」
ハンスが淹れた、少し苦味の強いアイスティー。グラスの中で氷がカランと虚しく鳴った、その時だった。山本の携帯から、これまでにない不吉な振動がデスクを叩いた。
——ヴゥゥゥ、ヴゥゥゥ……。
『——エルナ、すぐに来てくれ。新橋の境界、高架下だ。……最悪だ。今度は、大人の出る幕じゃないかもしれない』
山本の声は、かつてないほどに揺れていた。数十分後、現場に到着したエルナの目に飛び込んできたのは、雨の中、泥に塗れて転がっている真っ赤なランドセルだった。
被害者は、小学一年生の女子児童。
現場の傍らには、彼女が習い事の帰りだったのか、小さな「トイピアノ」の鍵盤が一つ、もぎ取られたように落ちていた。
「……山本卿。何があった」
エルナは膝をつき、泥に汚れた鍵盤を拾い上げた。その瞬間、彼女の耳に「幻聴」が響く。
——ポーン、ポーン……。
かつてこの場所で奏でられていたはずの、たどたどしくも清らかな練習曲の音。それが、獣のような咆哮と、絶望的な悲鳴によって暴力的に断裂させられた瞬間の「不協和音」が、現場の空気に呪いのようにこびりついている。
「犯人は確保した。だが、奴は……精神の混乱を装い、言葉がわからないと繰り返している。法が、この小さな叫びを裁き切れるかどうか……」
山本の拳が、雨の中でギチッと音を立てて握りしめられた。
署の取調室。マジックミラー越しにエルナが見据える男は、深い沈黙の中にいた。だが、エルナの耳は、彼の呼吸の中に潜む「音」を逃さなかった。
——フゥー……フゥー……。
それは反省でも恐怖でもない。獲物を仕留めた後の、傲慢な達成感の残響。その音の質感だけで、エルナには理解できた。この男の魂は、規律の外側に、最初からいたのだ。
「ハンス。……この男の吐く息、腐った獣の臭いがするぞ」
「エルナ様……。この国の法がこの『音』を裁けぬというのなら、我々の流儀を貫くしかありませんね」
ハンスの手の中で、調理用の細い針がチィンと鋭く光った。今は、獲物の急所を穿つ処刑具としての冷たさを帯びている。
現場に戻ったエルナは、再び降り出した強い雨の中に立ち、静かに目を閉じた。
——ザァァァ……。
雨音が、新橋のすべてを塗りつぶそうとしている。だが、エルナの心に灯った火は消えなかった。
「……四月一日の嘘つき教師とは、格が違う。これは、魂そのものが壊れた怪物だ。この少女の『ピアノの音』を奪った罪、万死に値する」
——バシャッ!
軍靴が泥水を力強く踏みつける音。それは、騎士として、そして一人の探偵として、この不条理な沈黙に鉄の鉄槌を下すという宣戦布告だった。
「ハンス。……猫探しの時間は終わりだ。この街に潜む、真の害獣を駆除する。そのための準備をしろ」
「御意。……最高の、そして最期の晩餐の用意を」
六月の雨。紫陽花の花びらが、血のような色を帯びて揺れている。
姫騎士探偵エルナの、最も暗く、最も激しい追跡が、今、雨音と共に始まった。
遠くで鳴る、救いようのない雷鳴を、開戦の合図として聴きながら。




